第3話


 もしかしたら既に帰っているかも知れないと思ったが、その少女はまだ階段で律儀に待っていた。

 周りに視線を巡らせ、物珍しそうに、どこか愛おしそうに街ゆく人々を見ている。


 視認できるところまで近づくと、少女はリドを見て軽く口元を緩めた。


「待たせたな」


「い、いえ。何か悲鳴のようなものが聞こえた気がしましたが、何かありましたか?」


「気にするな。商品を買われて嬉しいから叫びたくなっただけだろう」


 言いながら塗り薬の瓶を開けて見せる。濃密なミントのような香りが鼻に刺さる。


「見ず知らずの私などのために貴重なお薬を……?」


「まぁな。オレにも責任があることだ」


 おかげで今日の報酬は消し飛び、正真正銘の無一文。パンは買えなくなったが空腹には耐性を持っている。

 二、三日食べないだけであれば問題ないだろう。


「とりあえず足を出せ」


薬を手に取ってその場にかがむリドに、フードの少女はまだ戸惑っている様子。


「もう買ってきたんだ。遠慮するな」


 そういうと彼女はゆっくりとではあるが足を差し出してくる。

 気のせいかもしれないが、その頬はやはり少し赤くなっている気がした。リドは患部に余計な刺激を与えないように塗り薬を塗っていく。


 傷一つない綺麗な白い足。普段あまり外を歩かないのだろう。筋肉がほとんどついていない足は非常に柔らかい。


 欲情しないかといえば嘘になるが、公衆の場で襲うわけにもいかないと無心になって塗っていく。


「……なにが、目的ですか……?」


 塗っている途中、フードで表情を見せない彼女は囁くような、喧騒に掻き消されるような小さな声で聞いてきた。


「……目的? どういう意味だ?」


 一瞬、依頼で殺したゴロツキの顔がチラリと浮かぶが、すぐに思考を切り替える。


「今まで、私に接してくる方達は非常に親切にしてくださいました。子供の頃はその厚意が嬉しかった。けれど思考をできる歳になって分かったのです。そのどれもが私に取り入って自分の利を優先しているものであると」


 昔を思い出しているのだろう。悲しげに空を見上げている。今にも消えてなくなりそうな存在。

 不思議とそんな印象を持った。


「……あなたもその一人なのでしょう?」


 雪が空から静かに落ちていく。彼女の声音は他人を突き放すように、酷く冷たいものだった。

 どうせ貴方も打算を持って接してきたのだろう。

 そんな明確な忌避感を含んだ言葉だった。

 だからこそ、リドは何も考えずに本音を口にする。隠すことなど何もないのだから。


「目的か……目的ね。その質問は今日で二度目だが、ハッキリ言ってオレには目的なんてない。そんなものを持ったこともない。今日を生きるのに必死だからな」


「今日を生きるのに必死……?」


 目を丸くしたのが分かる。彼女には理解できないようだ。

 服装、靴、喋り方、そのどれか一つですらわかる。この目の前にいる少女は貴族の子だと。


 だから、リドの生きる世界と彼女の世界は真逆で、今後交わることなどない。

 だから思わず本音を漏らしてしまう。


「オレの家の場所は旧市街地。つまりスラムに住んでるんだ。生まれてからずっとな。明日の命すらわからない場所で生きている」


「スラム?」


「……スラムを知らないなんて言わないよな?」


「し、知っております! スラムですよね! あぁ、あのスラムなのですかっ! 凄いですわね! 私は素敵だと思います!」


 こいつフードで顔を隠しているくせに分かりやすすぎるだろう。

 どう考えても知っているようには感じない。よほどの箱入り貴族娘なのだろうか。


「あの、ガシッとやるスポーツの技ですよね? ガシッと!」


「それはスクラムだ」


 指摘すれば、はわわっと顔を真っ赤にして口元を押さえている。

 本で読んでたまたま知っていたが、随分マイナーなスポーツを突いてくるな。

 最近西の大陸辺りで流行っているヤツなのに。 


「はぁ……一応説明しとくと、スラムってのはこの国にある旧市街地のことだ。何か重大な事件を起こして職につけなくなった連中、犯罪を何度も繰り返して街を歩けなくなった犯罪者。いわば社会のクズが集まっているゴミ溜めみたいな場所だ」


 そして、リドもそのゴミ溜めの中のクズの一人だ。

 一般的に犯罪と呼ばれることを、罪の意識なく行ってきた。

 物心ついた時から物を奪い、反抗するものは力でねじ伏せ、老若男女問わず人を殺めてきた。

 神の存在など信じてはいないが、リドは神にすら断罪を突き付けられるだろう。


(汚れすぎて真っ黒に染まる域に達した殺戮者。それオレだが)


「……そんなところが、あったのですね……」


 熱心にリドの話を聞いていた彼女は信じられないが現実なのだ、と納得したように頷いていた。


 知らない人間なんてそうそう居ない。どこかの箱入りお嬢様なのか?と疑問を持つが、リドなんかの話をまともに聞いて信じてくれた人間は今までそうはいない。


 包帯も巻いてとっくに治療は終わっているが、なぜか話を聞いてもらいたくなって横に座った。


「だからそんなゴミ溜めに住むオレには、目的を持つ価値すらないんだ。」


「違います! 貴方は素晴らしい人です!」


 出会ってから初めて彼女は声を荒げた。落ちついているようで、実は強情な女なのかもしれない。


「目的ってのは今後自分がどうなって生きたいか、その指針だろう? 明日死ぬかもしれない生き方でそんなことを考えられるほど、オレには余裕がない。そしてこれからもない」


 それは偽らざる事実だ。


 生きるというのは命の奪い合いだ。いつかリドにも今までのツケが回ってくる。

 それは避けようもない運命だ。今までの罪から目を背けるわけにもいかない。


 だが、彼女には衝撃の言葉だったようだ。


「……私はこれでも今まで色々な人を見てきました。ですが、ここまで純粋な善意で面倒を厭わず接してくれる人はいませんでした」


「そうか」


「なぜ見ず知らずの私にここまでしてくれるのですか?」


 リドの次の言葉ですべてを決めるという決意のこもった強張った声で尋ねてくる。


「それは……なんだ、えーっと……」


「はい」


 咄嗟に言葉が出てこなかった。

 リドにとって他人は興味の対象ではない。敵対すれば殺すし、友好的に接してくるのなら利用する。

 それは昔から変わらない。

 でもなぜかわからないが、この女には危害を加えないでやろうと思った。


 それは恐らくリドの気の迷いだ。


 たまには善行を積んでおこうと無意識に思ったのだろう。目の前の少女の空気に惹かれたなどということは断じてない。


「……ただの気まぐれだ」


 吐き出すように、苦しい言い訳のように吐き出したリドの言葉を聞いて、彼女は一瞬驚いたような顔をするが、次には笑みを浮かべていた。


「……ふっふふっ」


 ついには口元を押さえて笑いだし、楽しそうに、嬉しそうに肩を上下に揺らす。

 笑われたが、とても不快には思えない品のある笑い方だ。


「何がおかしい」


 恥ずかしくなったリドは彼女から目を逸らしてしまう。人の言葉を笑うのは普通は失礼だろうに、なぜかむず痒い。


「申し訳ございません。不愉快でしたか?」


「いや、不快には感じなかったから気にするな」


「私、生まれて初めて人に優しくされた気がします」


 彼女は口元に笑みを貼り付けたまま、本当に嬉しそうにそう言った。

 隣に腰を下ろしたリドとの距離が少しだけ短くなった。


「優しくしてるつもりはない」


「ふふふっ」


 恐らく、この少女は魔性の女というやつなのだろう。

 人に好かれる素質がある。ある種の才能だ。

 もう少し話をしていたい気分に駆られるが、空はだんだんと暗くなっていく。


 タイムリミットだ。


 日のあるうちのスラムはまだ安全だ。人の気配がないし、殺し合いも深部でなければ中々行われない。

 だが、夜になると住人が動き出す。

 そうなれば殺人など当たり前、女を暗がりに攫い、おもちゃにして奴隷商に売り渡す現場が所々に起きる。

 この通りに店を出している人々はそれをわかっていて店じまいを始めていた。


「もうすぐ日が暮れる、オレは帰る」


「もうそんな時間なのですね。このご恩は決して忘れません」


「気にするな、深い意味もない」


「いえ、絶対……決して忘れません……」


 彼女は包帯を愛おしそうに触りながら言った。包帯以上に大切なものがそこにあるように、宝物のように。


 そのまま立ち去ることも出来たが、これだけ話をして名前すら知らないことに気が付いた。

 知ってもらってなんだという話ではあるが、もどかしいと思った。

 目の前の少女は何かを期待するようにこちらを見上げて動かない。

 思考を読んで、言われる前に伝える。


「自己紹介してなかったな。オレの名前はリド・エディッサだ」


「失礼しました。私の名前はア……」


 彼女も習って口にしようとするが、言葉を詰まらせる。


「ア? なんだ?」


「……ア、アリシアと申します」


 彼女、いやアリシアは笑顔を浮かべる。


「アリシアか。もう会うこともないだろうが、一応覚えておく」


「……それは、どうでしょうね?」


 意味深につぶやくアリシア。しかしこの少女にはスラムの奥の奥、特別区画と呼ばれるリドの元に来ることは叶わないだろう。

 もう会うことはない。

 だが、街中で偶然会うこともあるかもしれない。

 リドが買い出しをする金を持っていればの話だが。


「じゃあな、生きてまた会おう」


「生きて……? ふふっ。えぇ、必ず……」


 歩き出して暫くして振り返ると、アリシアはまだ手を小さく振っていた。

 また胸がざわつき、むず痒くなりながらもリドは家へと向かって帰る。


 パンを買いそびれたのは痛いが、空腹には慣れている。


 確か雨水はあったはずだ。

 人間一週間食べなくても死にはしない。


 空腹を訴える腹を撫でながら、影に身を隠すように夜の気配に溶け込み、旧市街地の住処へと向かった。


 

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