タンタロス 下

部屋に帰るとジナは寝ていなかった。

茶色のぼさぼさの髪毟りながら、手元で何か編み物をしているようだ。


「トマス・ビリングとの商談、そんなに疲れた?」

「ああ、うん。」


手元を動かしたまま声をかけてきたので返事が上ずってしまった。

顔を上げないで話ができることがありがたく、オレは固い木の床に寝転んだ。


「財産を持ち出してほしいんだと。おかしな爺さんだぜ。」

「自分の子を家族だと思わないような年寄りと話すのは、疲れるだろうね。」


オレはびっくりして顔を上げ、ジナの顔をまじまじと見つめた。


「話、聞いてたのか?」

「うん聞こえた。」

「なんだ……。」


オレはホッとしてまた横になった。

ジナと会ってまだ三日ほどだがどこか神秘的な娘なので、なんでもお見通しかと思ってしまったのだ。


「まあ我儘で偏屈な爺さんなんだけどよ、ちょっと哀れでな。」

「ふうん。……私なら救えるかも。」

「ええ。おい、なんだって?」


オレはさっきより素早くガバリと起き上がった。

さっきは目を合わせないことを感謝していたのに、今はそれに欺瞞を感じて勝手に怒った。


「待てよ。まさか金がほしいって言うんじゃないだろうな。」

「ほしい。」

「オレだってほしいよ!でもあの爺さんからもらうのはちょっと気が引けるだろ!?」

「人を救ったら報酬をもらうべきだと思う。あとはトマス・ビリング次第かな。」

「おい!独り占めする気か!」


オレは怒気を隠そうともせず、ジナの前に立ち塞がった。

ジナの瞳が初めてこちらを見たが、そこにはみっともなく怒ったオレが映っているだけだった。


「いや、すまん。怒って悪かった。でもオレも考えさせてくれって言ったからよ……。」

「じゃあ二人で行く?夫婦だし。」


あっさり言われると毒気を抜かれて、オレは情けなくこくりと頷いた。


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「ジナさんでしたっけ。お話とはなんでしょうか。今でなくてはいけませんか。」


もう寝支度をし始めていたであろうビリング氏は、訝し気にオレを見た。

内密にと言ったのに、という表情だ。


「さっきの話が全部聞こえてたから。今のほうがいいんじゃないかと思って。」

「なんですって?」


ビリング氏はくぼんだ目できょろきょろと辺りを見渡した。


「この部屋はそれほど薄い壁ではないはずだが……。」

「実際聞こえちゃったものは仕方ないでしょ。それをふまえて私から提案があるんだ。」

「はぁ、それは一体……?」

「私がその下男を殺してあげるから、あなたの財産の半分ちょうだい。」


それを聞いた途端、ビリング氏は見たこともないような形相になった。

どう表現していいのかわからないが、悪魔を見た人間はこういう顔をするのだろう。


「はは……。そのような冗談は酒の席だけにしてください。」

「冗談じゃない。息の根を止めさせることはできないけど、それに近いことはできる。」

「どういう意味です?」


オレはビリング氏とジナの間に割って入ることもできず、手持ち無沙汰に座っていた。


「要は人間性の問題でしょう?下男があなたを神のように思っている。それを盾にして家庭に入ってデカい顔をしてる。ビリングさんはそれが気に食わない。」

「ええ、ええ。その通りですよ。」

「じゃあ誘惑して堕落させて、株を下げればいいんでしょ?」


ジナはこともなげに言ったが、ビリング氏は気遣わしそうにオレを見た。


「ああ、ええとご心配なく。オレと……私とジナは本当は夫婦ではないんです。彼女から金をもらってその振りをしてるだけで。」

「そうでしたか。」

「あんまり事を大きくしたくはないでしょ?だから客の女に誘惑されて手を出したってぐらいがちょうどいいかなって。」

「おいおい、待てよ!それってオレが寝取られ男になるってことか?」

「寝取るも何もあなたとは他人。」


ごもっともなジナの言葉を聞いて、オレは押し黙った。


「ジナさんには気を悪くしないでほしいのですが、下男は誘惑に乗らないと思います。それこそ妻とだって何度も機会があったはずですからね」

「本当に高潔な人なんだな。」


ぼそりと言うと、ビリング氏はまたあのぎょろりとした目でオレをねめつけた。

オレは慌てて言葉を続けた。


「そうだ、オレたちで口裏を合わせて罠に嵌めればいいんじゃないか?本当に抱かなくてもさ。」

「ううん。これは本当に相手が動かなきゃ意味がない。濡れ衣なんて着せても息子のアントニさんは信じないだろうし。」

「ええ。そう思います。」


ビリング氏が大きく頷いた。


「じゃあお前……誘惑できるっていうのかよ。相手は堅物だぞ。」

「勝算はある。」

「本気かよ……。この絵の女性より自分がいい女だと?」


オレはビリング氏の妻の絵を指して言ったが、ジナは首を傾げた。


「もちろん、そう思ってるけど。」


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オレは一晩中、眠れもせずに天井を見ていた。

ジナは変わった女だ。

もしかしたら本当に誘惑できるのかもしれない。

そう思うと急に悔しくなって、オレは寝返りを打った。

ビリング氏の財産を取られたという悔しさだけじゃない。

報酬について、ジナはそれをさらに半分してオレとわけたいと言っていた。


だから問題なのはつまり……抱いとけばよかったってことだ。

機会はいくらでもあったのに、金銭の契約関係を律儀に守ってしまった。

だがそんなことをしていたら、ジナはオレの元を去っただろうし……。


一晩中ジナは帰ってこなかった。


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次の日の午後、オレが睡眠不足でうとうとしていると、ビリング氏が部屋に入ってきた。


「ああ!申し訳ない!ノックを忘れてしまった。」

「構いやしませんよ」


オレはジナやビリング氏がどうなったのか気になっていたので、急いで立ち上がった。


「いやあ聞いてください、ロベールさん。今朝すぐに下男が私のところに来ましてね、謝りたいと。」

「はぁ。」


腑抜けた返事をしながら、オレは心臓がバクバクと高鳴っていることに気づいた。

うまくいってしまったのか。


「驚いたことに、私の客と通じてしまったと言うんですよ!ただ女性のほうでもそれを望んだそうで……。聞けば独身でしたから、責めることでもないのかなと思いましてね。」

「そうですね。いいと思います。」


オレは驚くほど間の抜けた返事をした。

ビリング氏の白々しさに気後れしたのもあるし、オレ自身まだ立ち直れなかったのもある。


「跡継ぎになる息子にだけはこっそり伝えましたが。アントニも大人ですからわかってやれるでしょう。」

「そうですか。」

「ジナさんとあなたは本当の夫婦ではないとのことでしたが、慰謝料はお払いしますよ。私の財産を少しお持ちください。」

「……少し?」


財産の半分が報酬だったはずで、そのまた半分がオレに支払われるはずだが。

しかし交渉しようにも肝心のジナがいないので、オレは話を変えることにした。


「ジナはどこにいますか?」

「さて……。こちらにいらっしゃると思って来たんですがね。お戻りになれば今の話をお伝えください。」



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ジナは初めて会った時のように、するりと部屋に入ってきた。


「ジナ。」

「ただいま。」


ジナが座る間もなく、オレはジナの前に立ってまくし立てた。


「一体どんな魔法を使ったんだ?ビリング氏は大喜びだったぞ。」

「ありのままに伝えただけだよ。」

「ありのまま?」

「そう。下男に、あなたがビリング氏を不幸にしてますって。」


オレは呆然とした。


「そんなこと言ったのか?相手はどう言っていた?」

「知らなかったんだって。私と間違いを犯したって嘘をつけば喜ぶと伝えたら、やりますって。」

「……。」

「それで一晩中お喋りしてた。」

「……じゃあお前はその人の、ビリング氏への信仰を打ち砕いたんだな。」

「そうだね。」


簡単に言うが、その説得に一晩中かかったということだろう。

ジナは初めてちょっと微笑んだ。


「人は神にはなれないから、お互いのためによかったんじゃないかな。」

「オレはまだ信じられないぜ。喜んで泥を被るような人間がいるなんて。」

「罪を犯したふりができるのは、ビリング氏が信じてる証拠でもあるよ。」

「それにしたってだぜ……。その下男はよっぽどの人なんだろうな。欲がなさすぎる。」


そう呟くと、ジナはオレの顔を覗き込んだ。


「なんだよ。」

「あなたも似たようなものでしょ。」


クスクスと笑われて、オレは頬がかあっと上気するのがわかった。


「なんだと!オレとお前は夫婦じゃないんだぞ!金のために情けない夫を演じるぐらい、誰でもやるさ!」

「そうじゃなくて、最初から。」

「それは……!金をもらってたから手を出せなかっただけだ!ああそうだ、金といえば。」


オレは大事なことを思い出し、話を変えることにした。


「ビリング氏が報酬を下げてきたんだが……。」

「そうなんだね。息子を家族として認識すると、途端に金が惜しくなったのかな。」

「どうする?この件について真相をバラすと脅せば出すんじゃないか?」

「うーん。いずれにせよああいう老人から、恨みは買いたくないよ。」


ジナの達観した言い方にオレはがっかりしてしまった。

超然としたジナのことだから、怖いものもないかと思っていたのに。


「でもなあ。悔しいぜ。」

「きっとあの人はこれからお金を失うから、あまり奪っては気の毒だよ。」

「なんだと?」


オレは耳を疑った。

浪費しようとしても金が増えたような富豪相手に、何を言ってるんだろう。


「トマス・ビリングさんは金に執着してなかったでしょ。」

「そ……そうか?」

「勝手に貯まっていくし、投げやりに使ってもいいと。それがうまくいってたんだと思うんだよね」

「なるほど。確かにそういう面はあったな。」

「だけど息子さんを家族だと思った途端、金は家族のもので、外に持ち出してはいけないと考え始める。その過程として報酬の値切りもしたわけだね。」

「ああ……。」

「もう種は撒いた。今は幸せな気持ちだろうけど。」


ジナは楽しそうに笑った。


「一年も経たずに敗北感を得るだろうなあ。トマス・ビリングにとって、二度目の地獄が始まるよ。」

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