タンタロス 中
ビリング氏は壁にかかった絵を示した。
10歳ほどの少年の肩に手を乗せた、灰色の瞳の女性。
一本たりともこぼれないようにきつく束ねた髪が印象的だ。
「私の妻です。彼女は優しくてしっかり者でした。」
「お美しいですね。」
「ついこの前……いや、二年前に亡くなりました。妻との間には子どもが三人生まれましたが、残ったのは息子一人だけで。」
「でも幸せな結婚生活だったんじゃないですか。この絵の奥さんはそんな顔をしてますよ。」
オレは誉め言葉のつもりでそう言ったのだが、ビリング氏の目には失望や諦めのような感傷が映った。
「あなたにもそう見えるんですね。」
「おかしなことをおっしゃる。幸せじゃダメなんですか?」
「私は彼女を幸せにしてやれなかった。金を稼ぐのに夢中でね。」
ビリング氏はため息をついた。
「……私の家には下男がおりまして。アントニというんですがね。」
「ああなるほど。」
その息子ってのは下男の息子なんだな。
そりゃあ将来そいつのものになるであろう遺産を持ち出してほしくもなるわけだ。
「違います。誤解しないでいただきたい。私は妻の不義を疑ってはおりません。」
オレは梯子を外されたような白けた気持ちになったが、ビリング氏に続きを促した。
「ちょっと変わった男でして、宗教的とでもいいましょうか……とにかく欲のない男で。」
「はぁー、そういう人もいるんでしょうねえ。」
「妻が用事を言いつけようとすると、いつも庭に出てから話を聞くような、潔癖ともいえる男でした。」
そう言ってビリング氏は窓から身を乗り出して指さした。
「ほらここからも見えます。あの庭の大きなナラの木。家のどこからも見える場所でしか、妻とは話していなかったんです。」
「なるほど……。」
おれは妻と下男が、見せつけるように一番目立つ場所で会話をしてる様を想像した。
ビリング氏が言いたいことが少しずつ分かってきたような気がする。
「妻は明らかに下男に心を寄せているようでした。一度だけ私の前で、庭に向かって歩く時間こそが人生だと口を滑らせたことがありましてね。」
「それはそれは。まあ女性ってのは、子どもや小動物が好きですからね。」
「そこなんですよ。いや、さすがですねロベールさん。」
ビリング氏が身を乗り出したので、オレは少し身を引いた。
「欲のない男とは子どもみたいなものです。アントニが精強な男だったらどんなによかったか。それなら手の打ちようもあったのに。」
ビリング氏はワインを一口飲んで、また口を開いた。
「男女の仲を疑って人を雇ったりもしたんですが、結果はこうです。いい奥さんに忠実な下男、心配するようなことはなにもないよと。」
「でしょうね。」
「あなたのおっしゃる通り、妻にとって下男は小さな弟のようなものでした。聞いてちょうだいアントニ、だの、奥様の好きになさいませ、だのささいなやり取りでしたがね。妻はそれが人生で一番幸せな時間だと言うのですよ。」
「いやぁ、しかしそんなものではないですか。あなたはお忙しかったんでしょう?」
「金稼ぎの才能があったのがよくなかったんでしょうね。働くだけ入ってくるものが増えるもので。」
ビリング氏は自慢めいたことを言いながらも寂しそうな顔をした。
「金があれば自由になれるなんて大嘘です。事業も増えてかかわる人間も増えていけば、果たすべき責任も増えていくのです。」
「そうでしょうなあ。」
「それで……妻だけならよかったんですが。」
それを聞いてひやっとするものを感じたが、何も言えず話を待った。
「息子も下男を尊敬していることに気づいたのはいつごろだったか。早くから懐いているとは思っていたのですが。オモチャなんかを作ってもらっていてね。」
「……。」
「初めは、いい子守ができたなんて思っていました。しかし息子が日に日に私に似てくると地獄でした。私にそっくりの息子がニコニコしながら下男を褒めたたえるんです。富豪の私を前にですよ?」
「はぁ、まあ……。その、アントニさんを追い出しちゃダメなんですか?」
「あいつは、トマス・ビリング氏は素晴らしい人である、ぼくを拾ってくれた神のような男だとあちこちで話してるんですよ。そんな男を追い出せば世間になんて言われるか。」
このトマス・ビリングというのは、何も手放せない男なのか。
オレは少し疲れてきて、ワインを一気にあおった。
「あなたが息子さんに財産を残したくないことはわかりました。それにしても私に持って行けっていうのはね。金なんて寄付しちまえばいいでしょう?」
「それはもうやりました。15年ほど前に学校を建ててね。そしたらどうなったと思います?」
「まさか……。」
「ええ、みんな立派になって稼いだ金を学校に寄付してきたんですよ。恩返しだとか言ってね。私の資産は二倍になったんです。」
オレは呆けたような顔をしてしまった。
散財しようとして二倍になるとは、本当に金運にだけは恵まれた男だ。
「ビリングさん、不幸そうな顔をしてるあなたが信じられませんよ!なんてこった!村中の人から感謝されてるでしょうに。」
「そんなわけで、私の財産をどうするのか、その悩みは尽きていないんです。」
「また学校なり病院なり建てりゃいいじゃないですか。」
オレがこともなげにそういうと、ビリング氏は深い深いため息をついた。
「それで幸せになった人たちは、私が死んだあとどうすると思います?」
「そりゃあ……。ああそうか、あなたの息子さんに恩返しを……。」
「そうなるでしょう?遺産を最も価値の高い形で残すようなものです。」
オレはもはや疲れを隠そうともせず、肘を机について口を開いた。
「実の子をそこまで嫌うなんて。」
「だからこそです。肉体は私を受け継いでいるが精神は下男そのものだ。それが許せない。」
「はぁ……。」
「ロベールさん。」
ビリング氏のくぼんだような目がオレを見据えてくる。
「財産を持っていってくれませんか。私の人生そのものである金を、下男の目の届かないところで生かしてくれませんか。」
嫌だね。
と言えたらいいんだが、それを伝えるにはオレは欲深かった。
考えておきますとだけ伝えて、オレは部屋に戻った。
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