蝮の子 下



ああ、またか……とおれは思った。

こういう話をされるのは初めてではなかった。

「あなたを救えるのは神だけです。」

「その苦しみを私が取ってあげましょう。」

「この習慣を身につければいいんです。私の病気はそれで治りました。」

何度となくこう言われてきた。

そのたびおれは疑いつつも縋る思いで試し、当然治ったことはなかった。


「本気で言ってるのか。」

「うん。あなた、いろいろ試してきてダメだったって感じだね。」


彼女はおれのこめかみから頬にかけての大きな傷を見てそう言った。


「その傷は頭痛の原因でもあれば取り出したい、と思ってナイフで傷つけたんでしょ?」

「そうだ。よくわかったな。」

「わかるよ。痛みを紛らわせたくて、足を傷つけるたりもしたんじゃない。」

「ああ。本当に治してくれるのならおれの財産を全部やってもいい。その代わり治せなかったときに10ペーニヒ払って欲しいんだ。」

「いいよ。」


おれは拍子抜けした顔をした。


「でも全財産は悪いな。1000ペーニヒでいいよ。」

「おれの資産はざっと660ペーニヒぐらいだ。」

「あれっそうなの?じゃあ全財産もらっとこう。」

「……」

「どうせ金に価値なんて見出してないでしょ?」


その通りだ。

金なんてほしがるのは人生に価値を見出してる人間だけだ。

おれはおれの人生に価値を感じていない。


「じゃあ今からやるね」

「ええっ!?今?」


おれは驚いて思わず腰を浮かせた。

準備がいるから数日後にするとか、満月の夜にするとか、せめて道具を持ってくるだとか……。

そういう神秘的な手続きはいらないのか。


「鍋か棒を貸して。」

「棒?」

「まっすぐに立って。」

「え?おい……まさか……。」


扉のつっかえ棒を渡すと、ジナがそれを構えてこちらを見すえた。


「動かないで。」

「おい!殴る気じゃないだろうな!?」

「殴る。」


ハッと気づいた。

妥当な条件を提示したつもりでおれは、「おれになにをしても10ペーニヒ払えば許してもらえる権利」を与えたのではないか。


「やめろ!いいか!人は痛みに慣れたりしない!おれは毎晩、きちんと苦しんでいる!!」

「そうなのか。そうだろうね。」

「10ペーニヒを払えばなにをしてもいいと言ったつもりはない!殴られる趣味もない!」

「これは治療だよ。たぶん一度でおわる。協力してくれないと二度殴る必要が出るかも。」

「……本気で言ってるのか?殴れば治ると?」

「上手に殴れば。」


おれはジナの顔をじっと見た。

相変わらずなにを映してるのかわからない目。

おれより年上にも、まだ子どものようにも見える。


”別にいいんじゃないか。”


夜のおれの声がする。


”それはおれには日常のことだぜ。おまえも少しは痛みを知れ。”


夜のおれは楽しそうに嗤っていた。

おれは覚悟を決めて目を閉じた。


突然白い光が目を覆った。

おれはくぐもった声を出しながら腰を曲げ、背を丸めた。

棒を床に置くために屈んだジナが視界に映った。


「ぐ……ううぅ……。」

「治ってなかったら教えて。10ペーニヒ払うから。この村には三日いるよ。」


そう言ってジナは出ていこうとした。

おれはなにか言おうとして、なにも言う必要はないことに気づき、出ていく彼女を見送った。


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いつ来るかわからぬ痛みを思って座って待つ。

外はもう真っ暗だ。


寝床をもう一度整えた。

シーツの皺は伸ばせないが、手でさするうちに皺が薄くはなる。


「おかしいな。」


おれは独り言をつぶやいた。

いつまでも痛みが襲ってこない。


だれかが死んだとして、その死が確実なものになるのはどれだけの時間で決まるのだろう。

おれは待った。

じっと待った。

痛みのない状態で待つことは苦行どころか、今まで生きてきた中で一番楽しい時間であった。


夜のおれは死んだ。

おれはあいつの死を悼もうとしたが、聖書の一文も浮かんでこない。


待てよ。

一晩だけかもしれないではないか。

たった一晩、たまたま夜が来なかっただけかもしれぬ。


おれは660ペーニヒを揃えた。

これは祈りだ。

おれはこれを必ず払うことになる。

そうに決まっている。


おれが外に出ると、朝日が露に反射してキラキラと光っていた。

……はやく夜の時間にならないだろうか。

本当に夜のおれが死んだのか、早く知りたかった。


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「なんだか人が変わったみたいね。」


ミモラがおれを見て笑った。


「そうなんだ。なにをしても楽しいんだ。戸惑うほどに。」

「いいじゃない。」


ミモラはニコニコとおれを見守っている。

おれはミモラに手を伸ばしてみた。


「なあに?」

「君に触れたくなった。今日の夜会えないかな?」

「まあ。そんな人だったなんて思わなかったわ。」


手を握るおれをミモラは拒まなかった。


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聖書にうっすら埃が積もっていることに気づいたのは一月後だった。

おれは聖書の埃を払って引き出しにしまった。

読もうという気持ちにはなれなかった。

だが、夜の時間は一人で過ごすには長すぎる。


おれはミモラに会いたくなった。

ミモラは応じてくれるだろうか。

彼女はとても優しいが、おれの退屈しのぎに付き合わせていいような関係ではないような気がする。

おれはだれかを求めて外へ出た。


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おれに苦しみを相談していた者がぱったりと来なくなった。

あの妊婦はどうなったのだろう。

なんとなく外に出ると、神父が歩いてくるのが見えた。


「こんばんは。」

「おお、元気そうですね。すばらしい。」


神父は初め、おれを祝福してくれた。

これまでの苦痛に耐えてきたおれを、神は祝福したのでしょうと言った。

その後はおれを見るたびに、もうあなたを悩ませるものはないんですね、ああすばらしい、と言いやがる。


なんだそれは。

まるで死人に対する言葉ではないか。

神父は夜のおれだけを愛していたのか。

凡人ならもう愛する価値はないとでもいうのか、聖職者がそれでいいのか。

おれは鼻白んで神父を罵った。


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「あなたは変わったわ。」


ミモラが言った。

笑ってはいたが声の響きは軽くなかった。


「そうさ。前よりずっと前向きになっただろう。」

「前向き……。うーん、そうかしら。なんて表現したらいいのかしら。」

「ちょっと我儘になったかな。」

「そうね、あとしつこくなったわ。」


ミモラの目は、おれに一切興味がないと物語っていた。


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おれは無性にジナに会いたくなった。

むろん痛みを求めてではない。

夜のおれを甦らせる気は少しもないが、ただ彼女の言葉が聞きたかった。

ジナは今のおれを見て、なんと言うだろう。

我儘でしつこくなったと言うだろうか。


旅人を泊める宿へ行ってみると、おかみが座って編み物をしていた。


「ああジナね。三日世話したら出て行ったよ。旅人は三日もてなすという決まりだからね。」

「何か言っていたか?」

「人を探してるとか言って、似顔絵を見せられたね。知らない顔だと言ったら、そうだろうねって。それだけさ。」


オレは肩を下した。

おかみは気の毒そうな顔をしていたが、思い出したように奥に向かった。


「そうそう、あんたに手紙を預かってたよ。」


手紙!

おれは驚いて手を出した。

震える手で畳まれた紙を開く。

なんと書いてあるのだろう。

頭痛が再開したとき訪れるべき場所でも書いてあるのだろうか。

それは困る……痛いのは嫌だ……。


”君の頭痛は頭と首の骨のゆがみからくるものだった。私が治した。”


それだけだった。

おれは裏返したり透かしたりしてそれ以上のものを探したが、徒労におわった。

骨のゆがみ?

そんなものにおれは何十年も苦しまされたのか?

そんなもので神父はおれを尊敬したのか?

あまりにもつまらない答えに、おかみの前でおれは呆然と立ち尽くした。


じゃあ……今後はどうなる?

おれはミモラから尊重されるために奔走しなければいけないのか。

ミモラの機嫌を取り、褒めたたえ、ミモラの情けを求めねばならないのか。

神父から尊敬されるために、なにか手に入れなければならないのか。

なにか立派なことをして見せねばならないのか。

夜一人で寂しいときに心を満たすなにかを探さねばならないのか。


ぞっとする。

世界中の人がそんなものを探して生きているのだろうか。

だとしたらそれはなんて険しい道のりだろうか。


おれを世界から守ってくれていた薄い膜が一枚、剥がれ落ちたような気分になった。

おかみがおれの顔を覗き込んだ。

おれはどんな顔をしていたのだろう。


あー!あー!あー!あー!


ゆっくりと沈んでいく夕日を窓から浴びていると、どこからか生まれたばかりの赤ん坊の声が聞こえた。

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