ジナはまじなう
@kamekamu
蝮の子 上
「つわりが辛いんです。誰もわかってくれなくて。」
女はそう言って、うかがうようにおれを見た。
おれは表情を顔に出したくなくて、少しの間目を閉じた。
なぜそんな相談をよりにもよっておれにするのか。
妊婦の身でありながら男の家に来るとは何事か。
そういった言葉がおれの脳に浮かんできたが、出た言葉はそれとは違った。
「痛みというのは分かち合えないものだから。」
「そうよね。そうなんです。」
女はエプロンの裾を引きずり出して、目をぬぐった。
「わかってるんです、そんなことは。孤独だってことは。」
「おれと話せば楽になると思ったのかもしれないが、おれにそんな力はない。」
「わかってるつもりだったのですが、つい……。」
女は鼻をすすった。
「あなたには人の苦しみがちっぽけなものに見えるんでしょうね。」
「どうだろうな。人に思いを馳せたことがないからわからない。」
「ああ……。」
無言の時間が続いたので、おれはコップに水を入れてやった。
「どうして私があなたに会いたかったのか、わかった気がします。」
「おれにはちっともわからない。」
「いいんです、ありがとうございます。」
女は懐から、布にくるまれた何かを取り出した。
「あの……これ、お礼に。干し肉はお好きですか?」
「必要ない。子どものためにあなたが食うべきだろう」
「ああ、そんな。いえ、はい。ありがとうございました。」
礼の言葉を4つも重ねて、女は帰っていった。
おれは立ち上がりコップを片付けた。
さすがに名前も言わずに帰るやつは少ないが、急な訪問者自体は珍しくない。
おれと話すだけで勝手に癒される人がいることに気づいたのは、もっと昔のことだ。
10歳になるころには聖職者に手を握られ、それを額に押し付けられていたのだから。
おれはふと思い立って外の路地まで出た。
夕焼けがまだ刈り入れには遠い麦の穂を照らす。
子どもの笑い声と馬のいななく声が遠くから聞こえた。
女が家に着くまでに倒れでもしたら大変だと思って出てきたが、まだ人通りがあるようだ。
おれは家に戻ろうと踵を返した。
「アルフ。」
神父が目ざとくおれを見つけて声をかけてきた。
皺だらけで目だけくぼんだ顔には、えくぼが刻まれている。
この地区の神父は、聖書を読むよりよく散歩をする人だった。
「こんばんは。」
「体調はどうですか。」
「相変わらずですよ。大丈夫です、死ぬほどではありません。」
「おお……。耐える者よ。」
神父が十字を切った。
「また教会にいらしてください。お嫌でなければ。」
「お嫌でも嬉しくもないもので。」
「ええ、ええ。そうでしょうね。それでもあなたを知る者はいますから。」
教会に来なくても、おれは立派な信徒だと認められていた。
いたって平凡な家柄の男なのに。
適当に会話を切り上げて、おれは家に戻った。
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おれは寝床を整える。
聖書を机に置いた。
日が沈むとおれは急に、思弁者の振る舞いを始める。
聖書を開くことはなく、ただ思いついた一文を口にした。
「蝮の子らよ。差し迫った神の怒りから免れると、だれが教えたのか。」
初めのうちは聖書をめくって出た言葉を唱えていたが、やがて紙をめくり字をなぞることに飽いてやめた。
暗記したわけではない。
なんとなく覚えたいくつかの言葉だけで、おれには充分なのだ。
窓を見やると雲に隠れた月が姿を現した。
麦の穂が少しだけ光っている。
と気づいた時には始まっていた。
痛い。
額を締め付けられるような鈍い痛み。
いや鈍いなどと表現できるものか。
鈍い痛みなどというものがあるはずもない!
痛みはすべて耐え難いから痛みなのだ。
「痛い。痛い。痛い。痛い。」
おれはうずくまり、声を出して痛がった。
声を出そうが出すまいが、痛みは少しも変わらない。
ならばまだ出したほうがマシだと思えるので出す。
音を発生させるというのは世界に繋がりを持つということだ。
痛みの共鳴を求めるということだ。
求めることをするかしないかでいうと、したほうが人らしくはあるまいか。
「痛いよ。だれか助けてくれ。頭が痛い。頭だ。頭のどこかだ。こめかみの中。」
昼のおれを思う。
痛みを知らないおれ。
一個体としての人が連続性を持っていると信じられる人の、なんと陽気なことか。
おれには断絶がある。
痛みを忘れて暮らす昼のおれと、痛みだけを与えられた夜のおれ。
おれは昼のおれを呪っている。
おれに痛みのすべてを預けて、素知らぬ顔で人を癒すおれ。
「痛い。痛い。痛い……。」
これほど苦しんでいる人を忘れて、だれかに優しく振舞うおれは嘘のおれだ。
昼のおれは、痛くて苦しいと言ってくれない。
昼のおれは、おれの何がわかるのだと叫んでくれない。
昼のおれは、夜のおれを忘れている。
あいつは夜のおれを切り離すことで、人からの尊敬を勝手に浴びているのだ。
おれはあいつを殺してやりたいと思う。
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痛みは半刻ほどで潮のように引いていった。
はぁはぁと肩で息をする。
布団は皺でくしゃくしゃだ。
夜にだけ起きるこの頭痛は、物心ついた頃からあった。
最初母親は夜に泣き叫ぶおれを殴ったが、半刻で泣き止むことに気づいてからは怒らなくなった。
それどころか痛みのことを知ると、頭を撫でてくれるようになった。
おれの頭痛は少しも軽くならなかった。
少しも治らないので、頭を撫でてもらう必要はないと説いた。
結局のところ、二人でいようが三人でいようがおれは独りなのだ。
母親が再婚してどこかへ行ってしまったが、どうでもよかった。
母親がおれを幸せにできないのなら、おれが母親を幸せにできなくても仕方のないことだ。
頭痛がある限りおれに安らぎはなかった。
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「あなたってチャーミングね。」
ミモラは変わった女だ。
「そうか。」
「うふふ。ほらやっぱりかわいい。」
「なにが?」
「普通は、そんなことないとか、君のほうが魅力的だとか言うもんでしょう?」
「次はそう言えるよう努力するよ」
そう答えるとミモラは子どものように大口を開けて笑った。
ミモラの歯は犬歯の隣が一本抜けている。
笑うとその空洞がちらりと見えるところがいいなとおれは思った。
さっきそれを言ってやればよかったのかもしれない。
「わたし、結婚するの。」
「そうなのか。いつ?」
「嘘よ嘘!あなたってほしい反応をくれないんだから。」
ミモラはおれをからかって喜ぶ。
おれから情欲を引き出したいのか、情欲がないことを確認したいのかどちらなんだろうか。
「アルフは結婚しないの?」
「しない。夜にだれかと居たくない。」
「そうよね……。」
ミモラは悲しそうな顔をして、おれの手を握った。
一度どうしてもと言うので家に連れていったことがある。
おれはあらかじめ断っていた通り、彼女に指一本触れずにただ苦しんだ。
それ以来、ミモラにとっておれは特別な人になったらしい。
「あら、馬車だわ。今の時期に珍しいわね。」
この村が慌ただしくなるのは刈り入れの直後だけだ。
それ以外の時期に来客が来るのはまれだった。
たてがみの手入れされてない馬の後から、荷車がきしんだ音を立てた。
おれたちの前で馬が止まり、馬車もぎぃと音を立てて止まった。
「あなたがアルフさん?」
呪い師のような格好の女が顔を覗かせた。
馬のたてがみよりぼさぼさの赤毛で、しかもナイフで切ったように長さがバラバラだった。
おれより年上のようにも見えるし、ずっと若い子どもにも見えた。
「わたしの名前はジナ。あなたに会いたくて来たの。」
「おれに?そうかい。奇特なやつだな」
ミモラの腕がおれの腕に絡みついた。
ミモラにも心を開いてないおれが、誰かに取られるわけがないだろうに。
たしかに物珍しさからおれに接触したがる人がいないわけではない。
とくに聖職者や呪い師はなぜだかおれに会いたくなるらしい。
ジナとかいうこの女も、きっとその手だろう。
「頭痛で悩んでるんだって?」
「ああ。」
「夜毎、だいたい決まった時間起こる頭痛?」
「そうだ。」
ジナはニコリともせずこう言い放った。
「わたしそれ治せるよ。」
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