第6話

「俺、畠野のこと、好きなんだ……」

 言った瞬間、畠野の力強い腕が哲史をぎゅっと抱き締めてくる。

 汗臭い体臭に混じって太陽のにおいが微かにして、哲史は、やっぱり自分はこのにおいが好きなんだと実感した。

「畠野は……畠野は俺のこと、どう思ってる?」

 真っ直ぐな哲史の言葉に、畠野は抱き締めていた片手をそっと外し、照れ臭そうに頭をかきむしる。

「聞くなよ、そんなこと」

「……でも、俺は、聞かせてほしいよ」

 畠野の腕の中でもぞもぞと体勢を変えると、哲史はぷぅ、と頬を膨らませる。

「俺は、ちゃんと言ったからな」

 そう言って哲史は畠野の腕の中からするりと抜け出した。

「カバン取ってくるから、ここで待ってろよ」

 そう言い捨てると哲史は、畠野医院までの短い距離を全速力で駆け出す。

 哲史が十字路を越えた直後にトラックが一台、通りを横切っていく。一瞬、哲史の姿はトラックの向こうに消え、すぐにまた走り行く後姿が畠野の目に入ってくる。

 畠野は、一生懸命に走る哲史の後姿を愛しげにただ黙って見つめていたのだった。




 ──言っちゃった。

 走りながら哲史は、もう、後戻りは出来ないのだと自分に言い聞かせていた。

 畠野に自分の正直な気持ちを告げた以上は、彼を裏切るようなことは出来ない。

 今までの自分のように、我儘で自分勝手な自分ではいられないかもしれない。それに、自分も畠野も男なのだ。周囲に知られないように気を付けなければならないだろう。

 畠野医院の裏口をそっと開けると、哲史はこっそりと上がりこんだ。もう診察が始まっているのか、待合室のほうが騒がしい。

 奥の休憩室のドアを開けると、壁にもたせかけるようにして哲史のカバンがそこに置かれていた。畠野先生がわざわざ置いてくれたのだろう。

 哲史の気配に気付いたシロが寄ってきて、ニャア、と鳴いた。足元にすりより、ニャア、ニャアと遊んで欲しそうにしているシロの頭を軽く撫でてやる。それから哲史はカバンを手に持った。

「ありがとう、畠野先生」

 小さな声で呟くと、哲史はまた裏口から外に出る。

 今度は、この前のようにシロが表に出てしまわないように気を付けてドアを潜った。

 参考書の入ったカバンは重かったが、哲史はその重みを心地好く感じていた。

 畠野の待つ場所まではそう時間はかからないのだが、逸る心を抑えきれず、つい、哲史の足は駆け出してしまうのだった。

 ずり落ちそうになるカバンをしっかりと抱えながら、哲史は十字路のすぐ向こうに立つ畠野のところへと走っていく。

「畠野、お待たせ!」

 何とか片手を振って畠野に合図を送ると、哲史は息を切らしながらも走っていく。

 わき目もふらずにまっしぐらに、畠野のほうへと。

 照れ臭そうではあったが、畠野も、手を振り返してくれている。

 あの、照れたような表情が可愛いのだと、哲史はこっそりと心の中で思った。滅多に見せない顔だったけれども、畠野がああいった表情をする時には普段の厳しさというか、よそよそしさも消え、何でも喋ることができるような気がしてしまう。まだ、そんなに親密な会話はしたこともないのだけれど。

「ごめん、荷物が多くて……──」

 息を切らしながら哲史は声を張り上げる。道の向こうで畠野は手を振って何か怒鳴っているようだったが、後方からやってきた車の音がうるさくて哲史には何も聞こえない。

 ──その刹那、ドン、という音と衝撃が哲史の身体を包み込む。

 途切れ途切れに、哲史の意識が分割されていく。

 あ、跳ねられた……そう思った哲史は次の瞬間、まったく別のことを考えている。畠野は、車に注意しろと叫んでいたのだということに思い当たる。跳ねられた瞬間に反射的に目を閉じてから、哲史は暗闇の中にいる。それから、衝撃から立ち直ると痛みがやってくる。全身が痺れたように重く、特に頭が痛い。ずきずきとするが、指一本、動かせないことに気付く。いや、指一本すら動かす気力が残っていないといったほうが正しいだろうか。

 ずっと呼吸を止めていたのか、息をゆっくりと吐き出すのももどかしい。が、空気を吐いて、出して、の行為がやけに難しく感じられる。

「おい、大丈夫か?!」

 不意に、畠野の声がした。

 目を開けようとするが、まぶたまでもが鉛のように重く、ピクリともしない。

「……ぅ……──」

 大丈夫だと畠野に言いたかったが、思ったように言葉が出てこない。哲史は、自分が畠野の腕に抱きかかえられようとしているのに気付いた。

「しっかりしろよ、哲史」

 不安げな畠野の声はしかし、哲史には頼もしく、心強く耳に響いていた。

 哲史──と、呼んでくれたのだ、畠野は。

 知り合って初めて、畠野は哲史のことを名前で呼んでくれた。

 おい、でも、よお、でも、なあ、でも、お前でもなく。『哲史』と。名前で畠野は、呼んでくれたのだ。

「ぁ……畠野……」

 全身の力を振り絞り、哲史はうっすらと目を開ける。

「俺……死ぬのかな……?」




 気が付くと、皆が笑っていた。

 両親がいた。姉がいた。幼馴染の服部と、白井に松本もいる。それから、幼稚園の時に好きだった担任のゆみこ先生。何かと哲史に構いたがる姉の友人たちもいる。短期間だったけれども、塾通いをしていた時の先生もいた。

 なんでだろうと、そう思った時、足元に白いものがすりよってくるのが感じられた。シロだ。

 はっと顔を上げると、畠野先生が優しげな笑みを浮かべていた。

「──畠野は?」

 哲史が尋ねると、不意に、周囲の人たちは煙のように掻き消えていなくなってしまった。

「畠野?」

 哲史が畠野の名を呼ぶと、足元でシロがニャア、と鳴いた。

「シロ、畠野は?」

 そう呟いて、哲史はシロを抱き上げる。

 シロを腕に抱え、哲史はあたりを見回した。

 薄暗い。コンタクトを入れ忘れたときのようだが、それだけではない。全体的に薄暗いのだ、この場所が。皆がいた時にはあんなに明るかったのに、どうして急にこんなに暗くなってしまったのだろうか。

「畠野……畠野!」

 薄暗い中を歩き回り、哲史は畠野の名を呼んでいた。

 畠野だけが、頼り。畠野だけが、自分をこの閉ざされた場所から救ってくれる。畠野がいなければ、自分は駄目になってしまう……ぼんやりと、哲史はそんなことを考えながら歩いた。

 どこまでも、どこまでも。

 あたりは次第に真っ暗になってくる。

 もう、足元さえも見えない。

「シロ……」

 呟きに応えるかのように、シロは哲史を見上げてニャア、と鳴いた。

 その瞬間。

 あたり一面に光が溢れた。

 白くて、眩しい、光。

 光の向こうには、何があるのだろう──哲史はゆっくりと足を踏み出し……そうして、はっと目を覚ました。

 目覚めたところは総合病院の一室だった。

 心配そうな母と姉の顔が、目を開けたすぐのところにあった。

「哲史……哲史!」

 母がぐしゃぐしゃに崩した半泣きの顔で哲史を抱き締める。

「お父さん、哲史が気が付いた!」

 ドアの向こうに姿を消した姉の声が廊下に響き、間もなくして父と姉が病室に入ってきた。

「大丈夫か、哲史」

 皆、それぞれにやつれた顔をしている。姉が日頃から自慢しているピチピチの肌とやらも、今日は目の下に隈ができて青白い顔色をしており、見られたものではない。

「皆……何やってんの、そんな顔して……?」

 哲史は普通に言ったつもりだったが、どうしてだか腹に力が入らず、か弱い、掠れた声になってしまった。





「見舞いに来たぞ、ノリ」

 後日、服部たちが病室にやってきた。

 一日目は麻酔のせいでうつらうつらと過ごした哲史だった。翌日には元の生活に戻れるだろうと安易な考えでいたのだが、実際には、車に跳ねられた時に頭を強打したため、十日間は入院生活を送らなければならなくなっていた。もちろん、検査のためだ。CTスキャンやMRIなどで脳波を調べたり、後から出血が起きたりしていないかを検査するという話だった。

 三日目から面会が可能となり、母と姉が時間を見つけては身の回りのものを持ってきてくれるようになった。

 そして今日、服部たちが見舞いに来てくれた。

 見舞いだと言って、松本と白井は漫画雑誌を数冊、持ってきてくれた。

 服部のほうは、哲史が寝込んでいる間にシロのスケッチをさらに何点か仕上げてくれており、ホームページの更新をしてくれていた。

「すごい頭だな、ノリ」

 怪我人を疲れさせないようにと気を遣って松本と白井が帰ってしまうと、服部はぽつりと言った。

 哲史は笑って、「まあね」とだけ、答えた。頭以外の部分は打ち身ばかりだったのが幸いしたのか、怪我の回復は思ったよりも順調だという話だ。ただし、こめかみのあたりを何針か縫ったために、しばらくは包帯とネットとで頭を保護していなければならない。

「それにしても、よく無事だったな」

 と、服部が言う。

 事故の時のことを覚えていない哲史にはあまり実感がなかったが、聞いた話によると額の傷口からだらだらと血が出て、酷い状態だったらしい。哲史を総合病院に運んでくれたのは畠野先生で、彼の車のシートは哲史の血で真っ赤になっていたという話を、病院に運び込まれてきた時に担当した看護師から聞かされていた。だが、それも自分の目で見て確かめたわけではないから、ピンとこないのだ。

「……あのさ、謙……畠野、どうしてるか知ってる?」

 服部の言葉は無視して、哲史は尋ねた。

 事故の時、側についていてくれたのは畠野だ。看護師の話だと、運転してきた畠野先生とは別にもう一人いて、その少年が哲史を担架に乗せるのを手伝ったということだった。だから、畠野は哲史がここにいることを知っているはずだ。哲史がここに入院していて、面会許可が下りているということも、知っているはずだ。

 それなのに何故、畠野は見舞いに来てくれないのだろうか。

 好きだと言ったのに。

 哲史は、畠野のことが好きだと言った。今度は、畠野からの返事を聞く番だ。

 なのに来てくれない畠野は、何と薄情な男なのだろうか。

 そんなことを考えていると、服部が溜息を吐きつき、妙に重たい口を開いた。

「──…やつなら来てるよ、部屋の前に」

 ぎろり、と服部の眼差しが哲史を睨みつける。

「お前、この間から何か隠し事してるだろ、俺たちに……」

「え、本当? 来てるんだったら、なんで部屋に入ってこないんだよ、もうっ。呼んできてよ、謙」

 服部の言葉を遮って、哲史が言う。仕方ないなとでも言うかのように肩を竦めると、服部は「ごゆっくり」と言い残して部屋を出ていった。

 入れ替わりに、畠野が部屋にのっそりと入ってきた。

「畠野っ!」

 哲史の嬉しそうな表情とは対照的に、畠野の顔は憂鬱そうな色を含んでいた。不安げな、弱々しい眼差しが哲史を見つめる。

「……もう、大丈夫なのか?」

 ベッドの側までやってきたものの、畠野はどことなくよそよそしい。

「うん、もう大丈夫。まだしばらくは検査が続く…け、ど……──」

 哲史が言い終えるよりも先に、畠野のごつごつとした手が哲史の肩をふわりと抱き締めていた。

「どうしたんだよ、畠野?」

 畠野の腕の中で哲史が小さく身動ぐ。

 哲史の肩に置かれた畠野の額を伝って、微かな震動が伝わってくる。もしかして泣いている……の、だろうか?

 哲史がぼんやりと思った瞬間、くぐもった小さな声が聞こえた。

「好きだ、哲史」

 震えるような、畠野の声。

 この男が何かに怯えるような様子を哲史の前で見せるのは、これが初めてのことではないだろうか。

 ゆっくりと、哲史は腕を畠野の肩にまわしていく。ぎゅっと力を込めて抱き締めると、大好きな汗と太陽の入り混じったにおいがふわりと鼻をついた。

「俺も……俺も好きだよ、畠野のことが」

 そう言って、哲史は畠野の頬に指を滑らせる。

 ごつごつとした男らしい輪郭。華奢な哲史の輪郭と違って、精悍なそのラインが、たまらなく愛しい。

「ありがとう、聞かせてくれて」

 哲史の言葉は、次第に小さく消えていった。

 何故なら畠野がその言葉を飲み込むかのように、唇を合わせてきたからだった。



 いくつかの検査を経て何日かすると、哲史は無事に退院することができた。

 二人が出合うきっかけとなったシロは結局、飼い手が見つからず、畠野医院の休憩室で飼われることになった。最初、畠野先生は嫌そうな顔をしていたが、二人が頭を下げて頼み込むと、嫌とは言えずつい頷いてしまったような感じだった。シロにとって家と呼べる場所が出来たということは、ラッキーなことだと思わずにはいられない。

「何だか、落ち着くところに落ち着いた、って感じだね」

 シロの餌やらトイレの砂やらを買い出しに出かけた哲史は、隣で荷物持ちに徹している畠野ににこりと笑って言った。

「まあ……そうかもしれないな」

 ぽりぽりと頭を掻きながら照れ臭そうに言う畠野の表情は、何とはなしに嬉しそうだ。

 気にかけていたシロは義兄の光一に飼ってもらえることになったし、哲史とは相思相愛になれたしで、いいことずくづくめの畠野には、ちょっと信じられないような幸せな日々が続いていた。

「……それよかさぁ」

 そろそろ口にしてもいい頃合かと、畠野は探るような眼差しで哲史に言う。

「この間の続きに、挑戦してみたくねえか?」

 畠野の言葉に一瞬、哲史は怪訝そうな顔をする。

「え? この間って……?」

 考えて思い当たるのは、たった一つだけ。コンピュータ室での、あのキスだけだ。

「あ……えーっと……い、今?」

 赤面しながら返す哲史の言葉に、畠野は小さく笑った。

「オレはいつでもいいぜ。お前さえいいなら、今から来るか、オレの部屋に」

 畠野の笑みに見惚れた哲史はつい、素直に頷いてしまっていた。

「よし、じゃあ、予定変更だな」

 畠野が言い、哲史は赤い頬をさらに赤く染める。

 畠野の幸せ病が伝染してしまったのか、哲史は今、幸せな気分でいっぱいだった。

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