第5話

 ……これは、夢だ。

 夢なんだ。

 自分は夢を見ているのだということが、哲史のりひとにはすぐにわかった。

 昼間の出来事を自分に都合よく微妙な部分を細工して、夢の中で再現しているのだ。

 現実は、思い通りにいかないから。

 だから、幻想空間のネットの世界で遊ぶのと同じように自分に都合のいいことだけを取り出し、心の底に潜む妄想や欲望を加味しているのだ──夢を見ながらも哲史は、そんなことを考えていた。




 人気のないコンピュータ室。

 放課後なのだろうか、校庭のほうからは微かなざわめきが聞こえてくるが、廊下を通る人の気配はない。

 いちばん後ろのボックス席に、哲史は座っている。手馴れた動きでキーボードに指を走らせ、マウスを握る。

 すぐ側に、彼がいた。

 彼──白猫のように勝手気ままな、畠野が。

 畠野の腕が、哲史の肘に軽く触れ、そのまま密着する。哲史はその瞬間、体温が急上昇するのを感じる。くっついた場所がじわりと疼き、その部分から全身へと熱が駆け巡る。恋という名の知恵熱は、哲史の頬をほんのりと緋色に染め上げた。

「暑いな、ここ」

 畠野が呟く。

「う…うん、そうだね」

 どきどきと打ち響く胸の鼓動を聞かれやしまいかと心配しながら哲史は言葉を返した。

 マウスを握る手がじんわりと汗ばみ……ぎこちなくダブルクリックをすると同時に画面が凍りつき、カーソルの動きがその場で停止してしまった。

「あ、フリーズ……」

 慌ててマウスを動かすが、カーソルは微動だにしない。小さく呻いてキーボードに手を伸ばすと、画面を覗き込んでいる畠野の体とさらに密着度が高まった。

 もつれる指でキーボードを叩くが、画面上には何の変化も現れない。

「なぁ、これ、壊れちまったのかよ?」

 尋ねかける畠野の顔が目の前に迫る。

 焦る気持ちを宥めつつ、哲史はキーボードを押し続ける。

「おかしいな、なんでだろ……」

 呟く哲史の声が、妙に張り詰めた緊張感のせいで掠れた。

「なぁ、おい」

 畠野の手が哲史の肩を掴む。ぐい、と引っ張られて哲史は畠野と向き合うような格好になった。

「──……畠野」

 ゆっくりと、畠野の唇が近付いてくる。

 哲史は小さく「ああ」と溜息を吐くと、目を閉じた。

「哲史……」

 畠野の唇は、何もかも奪い取ってしまいそうな勢いで哲史の唇に吸い付いてきた。舌先で哲史の下唇を潤し、その合間に畠野は小さく囁いた。

「口、開けてみな」

 哲史が口を軽く開けると、すかさず畠野の舌が口内に侵入してきた。舌先で歯の裏側を順にくすぐり、哲史の舌に絡みつく。たっぷりと畠野の唾液を飲み込まされ、哲史は唇に畠野のピアスが擦れるのを感じた。慌てて哲史は後ろへ身を引こうとした。が、狭いボックス席では腰が机につかえて逃げることもままならない。

「ぁっ……んんっ」

 鼻にかかった声が喉の奥から洩れ、恥ずかしさに哲史は身を捩った。

 後ろ手に机に手をつくと、キーボードに指が当たる。

 畠野に体重をかけられた哲史が手の位置をわずかにずらした途端、エラーを告げるBEEP音が鳴りだした。

 早く止めなければと思うのだが、哲史の体は畠野の体重を受けて動かすことも適わない。手の位置を変えただけで、そのまま後方へとそっくり返ってしまうのではないかと心配になるほど畠野の唇は攻撃的だった。

「止めないと──」

 息継ぎの合間に哲史がそう言うと、畠野は一言、「構やしない」とだけ、返した。

 そして、再び畠野の唇が近付いてきて……──

『哲史、目覚まし鳴ってるわよ!』

 姉のけたたましい怒鳴り声で、哲史はようやく妄想だらけの夢から目覚めることが出来たのだった。




 一限目を放棄して、二限目から哲史は授業に出た。

 あんな夢を見たせいか、それとも前日に泣きすぎたせいか、目は腫れぼったく、朝からコンタクトをつけることができなかったのも遅刻の一因である。あまり好きではない眼鏡は細身のフレームで、不機嫌な顔をしているものだから、いつもよりとっつき難い印象を周囲に与えている。

「おー、珍しいな、妹尾」

 松本がポン、と哲史の頭を小突く。

「どうしたんだよ、眼鏡なんてかけて」

 と、白井。

 普段は仲のいい友人たちだ。沈みがちの時には二人のおかげで随分と力づけられることがあったが、今回はそううまくいかないようだ。二人に声をかけられても、くしゃくしゃと髪を掻き混ぜられても、哲史の心は湿っぽく沈みがちだ。

「何かあったのか、ノリ」

 一人になったところを待って、こっそりと幼馴染の服部が尋ねかけたが、哲史は答え難そうに俯くことしかできなかった。

 畠野とキスをしたなんてことは口が裂けたって言えないだろうし、言う気もない。誰にも、何も言えないままに憂鬱な一日を何とか乗り切り、やっと下校時刻がやってくる。待ちに待った、下校時刻だ。

 今日一日、何の授業があって、どんなことをしたか、なんて事は哲史の頭の中にはひとかけらも残ってはいない。授業中だけでなく休み時間の間もずっと、哲史は別のことを考えていた。

 昨日の、畠野との事をただひたすらに考えていたのだから。

 機械的に授業をこなし終えた哲史は、半分上の空の状態ではあったが、それでも畠野医院へと向かった。足が覚えてしまった道程だ。自然とそちらのほうへと行ってしまうのだ。

 行けば、嫌でも畠野と顔を合わせるだろう事はわかっていたが、行かずにはいられない。何よりも哲史自身が心の中で、そう望んでいるのだから仕方がない。

 きりりと唇を噛み締めて、哲史は畠野医院の裏口を開けたのだった。




「やあ、妹尾君」

 ドアを開けた瞬間、畠野先生と目が合ってしまった。

 猫用のトイレと砂袋を持っているところを見ると、どうやら畠野はシロのトイレの砂を交換しているところだったようだ。

 目が合った瞬間、畠野先生と畠野は全然似ていないな、と哲史は思う。眉のあたりから鼻筋にかけては、畠野のほうが彫りが深く、鋭利だ。義理の兄弟だという話だから当然かもしれない。

「こんにちは、先生」

 無愛想に哲史が返すと、畠野先生はおや、と軽く首を傾げて尋ねた。

「目、悪かったっけ、君」

「……いつもはコンタクトしてるんだよ」

 と、哲史。

「ああ、そうなんだ。眼鏡しているところを見るのは初めてだから、驚いたよ。別人かと思った」

 畠野先生の言葉に、哲史はむっとして返した。

「別にどうでもいいだろ。あんたに関係ないことなんだから」

 投げやりな哲史の様子に、畠野先生は小さく苦笑する。

 口元に苦笑いを残したままで猫用トイレにトイレの砂を入れていく。

「君は……面白いほど、よく表情が変るね」

 何気なく畠野先生が言う。

「いや、雰囲気が、かな。そんな風にしていて疲れないのかと思う時があるよ」

 突然の言葉に、哲史は少しばかりたじろいだ。

 そんなに親しいわけでもないこの男に、何故、そんなことがわかるのだろうかと奇妙な気持ちになってしまう。

 だけど……。

 そんな自分を、哲史は心の中では認めている。服部や白井たちのように誰に対しても裏表のない態度を取ることは、自分には決してできないだろうことを、哲史はもう随分と以前から理解していた。

 何でもそつなくこなす、自分。要領よく、適当に大人たちの顔色を窺って、だけどそんなことはおくびにも出さない、狡猾な自分。そんな自分に嫌気がさすこともあったが、いまさら変えることなんて、できやしない。自分は、自分。狡賢くて悪知恵の働く、これが、妹尾哲史本人なのだから。

「……関係ないだろ」

 ぽつりと、哲史は呟いた。

「関係ないだろ、あんたには」

 睨み上げる哲史の目は、鋭い眼光を放っている。いつもは当り障りのないことしか口にしないあの哲史が、畠野先生が口にした言葉の何が悪かったのか、本気で怒っているようだった。

「他人のあんたに、何がわかるんだよ? 俺のこと、なんにも知らないくせにさ!」

 握り締めた哲史の拳は、微かに震えている。

 眼鏡のレンズの向こう側で一瞬、何かがきらりと光ってみえる。

「あ、あ……ごめん……──」

 驚いたように畠野先生は哲史を見下ろしている。それでいてどこか困ったような、何ともいえないその顔付きに、哲史は言い様のない苛立ちを感じた。

「あんたなんかに……あんたなんかに、俺の何がわかるっていうんだ!」

 哲史が勢いよく怒鳴り声を張り上げたところに、裏口のドアが開く。

「あ……」

「ああ、おかえり、ひろし

 何事もなかったかのような素知らぬ様子で畠野先生は、声をかける。

 今日は学校に行っていないのだろうか、ドアのところには私服姿の畠野が立ち尽くしていた。畠野の私服姿を哲史は、初めて見た。白いシャツにジーンズ姿の畠野は、学生服の時よりも大人びて見えた。

 哲史と目が合うと畠野は、わずかに驚いたような表情をした。それから次いで、怒ったような顔になる。むっつりと顔をしかめると畠野は、目の前に佇む二人を上から下までぎろりと睨みつける。それから閉じかけたドアを再び開けると、表へ出ようと体の向きを変えた。

「──逃げるなよ」

 ぽそりと哲史が口の中で呟くと同時に、ドアはパタンと閉じられた。まるで哲史を拒絶するかのように、固く固く、貝のように。

 哲史はぎゅっと握った拳を開き、またすぐにきつく握り締めた。まだ肩にかけたままの荷物をその場に下ろすと、根が生えたように重くなった足をなんとか動かしドアへと向かった。

 ドアを開けると、学校とは反対の方向へと歩いていく畠野の後姿がぼんやりと、眼鏡のレンズ越しに見えていた。




 哲史は猛ダッシュで畠野の後を追った。

「畠野……待てよ、畠野……逃げるな!」

 息を切らしながらも哲史は畠野を追って走っていく。

 このままだと、自分自身が可哀想だと哲史には思えてならなかった。昨日から宙ぶらりんになったままの自分の気持ちは、いったいどうなってしまうのだろうか、と。

 周囲の大人たちの目に映る要領よくなんでもこなしていく自分は本当の自分ではないのだということを、畠野先生をも含めたすべての人たちに、証明してみせたかった。

 自分は、こんなにずるいのだ。

 こんなにも自己中心的なのだと、今ならはっきりと、言える。

 そう、畠野にだって。

 畠野にだって、ちゃんと言える。

 自分が何を望んでいるのか。

 昨日、放課後の教室で畠野にどんな言葉をかけてもらいたかったのかを、今の哲史はちゃんと伝えられる。

 ほしかった言葉をかけてもらうために、哲史は何がなんでも畠野に追いつくつもりだった。もしかしたらもう、遅いかもしれない。もしかしたら昨日、哲史が逃げ出した時に……いや、それ以前からも畠野は、哲史のことなど何とも思っていなかったかもしれない。それを考えると、頭の中がぐるぐると回り始めて目頭がじんわりと痺れたようになってきた。

 それでも哲史は、走り続ける。

「畠野……畠野、待って!」

 常にない哲史の様子に、躊躇いがちに畠野が立ち止まって振り返る。

「畠野!」

 やっとのことで畠野に追いついた哲史は、息を切らしながら畠野の袖口にしがみついた。

 膝の上に片手をやり、中腰になって畠野はを見上げると、彼は無表情に哲史を見下ろしている。

「俺……畠野、俺……──」

 なんと言えばいいだろうかと哲史は逡巡した。どうやって謝ればいいのだろう? 何と言って、昨日のことを畠野に謝ればいいのだろうか。

「畠野……あのさ、畠野……」

 何度も言いかけるのだが、なかなか思うように言葉が出てこない。最後に言いかけて哲史は、それから気付いた。畠野が、自分を睨みつけているということに。

「俺……──」

 哲史の呼吸はまだ、整っていない。それでも哲史が思い切って口を開いた瞬間、畠野口の端を引きつらせたどこか無理のある 弱々しい笑みを浮かべた。

「昨日のことか?」

 尋ねられ、哲史は大きく頷く。

「あのさ、俺……」

「おい、あんまり近付くな」

 哲史の言葉を遮って、思い出したように畠野が言った。

「あんまり側に寄られると、また、昨日みたいなことしたくなるからよ」

 突き放すような言葉の中に、微かな甘苦い痛みの香りがして、哲史は何だか少し嬉しくなった。

「いいよ」

 とだけ、哲史は返した。

 その言葉を口にしてしまうと、心の中で燻っていたもやもやとしていたものが霧散して、消えていくのが感じられた。さっきまで胸の中でああでもない、こうでもないと考えていたことなど、どこかへ押しやられてしまったかのようだ。

 頬を上気させた哲史は淡い笑みを浮かべると、掠れた声で告げた。

「俺、畠野のこと、好きなんだ……」

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