第4話

 畠野医院では午後の診察時間が始まっていた。

 いつもならこの時間になると、常連の年取った患者さんたちで診察室は賑わっているのだが、幸い、今日は雨のためか訪れる人はまだいない。

 哲史のりひとを休憩室に連れ込んだ畠野は一旦、部屋を後にした。すぐに戻ってきた畠野の手には、どこで物色してきたのか、大判のタオルが握られている。

「そんな格好のままだと風邪引くぞ」

 言いながら畠野は、哲史にタオルを投げつける。腕にかけていたほうのタオルを畠野は、自分の頭を拭くのに使った。畠野がごしごしと髪を拭くのを見て、あまりの雑さに哲史はこっそりと顔をしかめた。

「先にシャワーかかってこいよ。オレはこいつにエサやってるからさ」

 と、畠野。

 風呂場は、トイレの向かいにある。哲史自身がシャワーを使うのは初めてだったが、猫を洗うために何度か使ったことはあった。

「うん……それよりもさ、大丈夫? その……殴られたところ」

 気遣わしげに哲史が尋ねると、畠野はにやりと笑った。

「アホか、お前。オレがこれしきのことで参るわけねぇだろ」

 哲史はほっとしたように小さく頷くと、タオルを持って部屋から出た。

 ドアを閉める時、シロがキャットフードの箱に飛びついていくのが隙間から見えた。畠野のナップサックに入っていたおかげでシロは、露ほども濡れていない。それどころか餌を欲しがって先程からうるさいぐらいに鳴いている。

 ほっとすると同時に、何となく気恥ずかしい思いを哲史は感じていた。




 シャワーのコックを捻ると、熱めの湯が勢いよく飛び出してくる。

 頭から湯に打たれながら、哲史はきつくきつく目を閉じた。

 なんでこんなにも、畠野のことが……彼の一挙一動が、気になるのだろう。なんでこんなにも、彼と言葉を交わすことができただけで嬉しく感じるのだろう。

 なんで……なんで、なんでなのだろう。

 もしかしたら、畠野のことが好きなのかもしれない。

 幼馴染の服部は、哲史に「好きなやつでもできたか」と尋ねた。

 そう……なのだろうか?

 自分は畠野が好き──なのだろうか?

 粗野で乱暴で、不良の畠野のことが自分は、好きなのだろうか。

 ──本当に?

 考えれば考えるほど、頭の中は混乱していく。

 好きかどうかなんて、解らない。

 何も解らないけれど、答えなんてどこにも見当たらないけれど、ひとつだけ解っていることがある。

 それは、哲史が一度、畠野のことを考え始めると他のことは何も考えられなくなるということだ。何も手付かずの状態になってしまい、ただもうぼんやりと、畠野のことだけを考えてどっぷりと一人の世界に浸りこんでしまうのだ。

 畠野が笑うと、自分もそれだけであたたかな、優しい気持ちになる。それに、畠野とずっと一緒にいたいと……そんな風に思い始めてもいる。

 この思いは、嘘ではない。

 心のどこかで畠野のことを蔑んでいた自分は、いつの間にかなりを潜めている。それだけでなく、畠野のことを好ましく思う自分が、そこにはいた。

 なんでだろう。

 なんで、畠野なのだろう。

「──なんでなんだよ?」

 思い通りにならない自分の気持ちにもどかしさを感じてか、哲史はダン、とタイル張りの壁に手をついた。

 考えても考えても、思いは堂々巡りをして元の場所へと戻ってくる。

 そのうちに畠野の笑顔が頭の中いっぱいに広がって……哲史はそれを振り払うかのようにさらにシャワーの温度を高くして、力任せに頭をかきむしったのだった。




 学校のコンピュータ室で哲史は、ホームページの出来栄えを畠野に見てもらっていた。

 放課後のことだ。

 コンピュータ室は通常使っている教室とは別の棟のいちばん端に位置しており、廊下を通り行く生徒や教師もほとんどいない。あまりの静けさに哲史は、畠野と二人でいることに対する微かな背徳感を感じてもいた。また畠野と二人だけで教室にいるのだと思うと、それだけで自然と頬が火照ってくるような気がするのだった。

 畠野はいちいち哲史の言葉に感動していて、取るに足りない些細な言葉であっても「ほお」とか「おお」とか「すげえ」を連呼している。それしか言葉を知らないのかと思うほど、畠野はこれらの言葉を続けざまに口にしていた。

「ツイッターやフェイスブックには結構書き込みがあるんだけどね」

 と、哲史が呟く。

「そうだな」

 と、答える畠野の肘が、哲史の腕に軽く触れてくる。

「……そうだ、それよかさぁ、さっきのページもっぺん見せてくれよ」

「え? どこのページ?」

 ディスプレイ上の一点でカーソルをクリックして画面をトップページに戻すと、哲史は尋ねる。

 間近で見る畠野の右の眉の端には、うっすらと傷跡がついている。彼の体温は、小さな子供のように高い。体臭は、哲史のものよりもきついようで、汗のにおいと天日のにおいとが入り混じったようなにおいがしている。

「ほら、たくさん絵のある……」

 哲史はすかさずカーソルを『シロの一日』と表記された部分に合わせ、マウスをクリックする。

 画像ばかりのページのためか、全画像が表示されるまでには少しばかり時間がかかった。服部に頼み込んだだけのことはあって、生き生きとしたシロの表情が手にとるように解る。

「すげぇな、これ。全部お前が描いたんか?」

 感心したように畠野が尋ねるのに、哲史は首を横に振った。

「謙に頼んだんだ。あいつ、絵がめちゃくちゃうまいからさ、嫌だって言うのを無理やり頼み込んで描いてもらったんだ」

 哲史が返すと、畠野は小さく目を細めた。

「謙って?」

 哲史には解らないようにこっそりと鼻白んで、畠野。

「あ、そういえば話してなかったっけ。服部だよ、これ描いたの。いつも俺と一緒にいる連中の一人。ちょっと大人しい感じの……」

「ああ、アイツか」

 ぶっきらぼうに畠野は答える。

「……たまにデジカメでシロの写真を撮っておくんだ。それで、家に帰ってから謙宛にメールしておくと、謙がいいと思う構図のものだけ適当に絵にしてくれる。謙はスキャナーを持っているから、出来上がった絵をパソコンに取り込んでもらって、メールで返してもらう。俺には絵心はないけど、謙は絵が巧い。シロのページは、謙がいなかったらできなかったかもしれないよ」

 調子に乗って哲史は言葉を続けた。畠野のほうは、それに反比例するかのように次第に不機嫌さを露わにしていく。

「──……お前、ソイツと一緒にいるほうが楽しいのか?」

 堪えきれなくなったのか畠野は、苦々しい口調で非難するようにぽつりと尋ねた。

「え?」

 哲史はついと顔を上げて畠野のほうを見上げる。

 いつになく真剣な畠野の表情に、哲史は不安を覚えた。

 畠野の気分を害するようなことを口にしてしまったのだと思うと同時に、しまったと哲史は口をつぐんだ。

「服部と一緒にいるほうが楽しいんだろって訊いてんだよ、ええ?」

 まなじりを吊り上げて畠野は問いかける。

「そんなこと……」

「本当か?」

 畳みかけるように畠野が尋ねるのに、哲史はこくりと頷く。

 畠野の鋭い眼差しから逃れようとそのまま俯くと、彼の大きな手が顎を捉えた。

「オレと……オレと一緒にいるのと、服部たちと一緒にいるのと、どっちが楽しい?」

 低く唸るような畠野の声は、哲史を怯えさせた。ついさっきまでの楽しい気持ちが、急速的に冷えていく。

「そんなの……」

 言いながら哲史は、視線を逸らす。

 服部とは幼い頃から親友づきあいをしていて、一緒にいるのが当たり前のようになってしまっている。ちょうど親友と兄弟の中間のような関係だ。

 だけど、畠野は。

 畠野は、違う。

 どんな風に違うのか、哲史にはまだ、説明することができない。言葉にしようとすると酷く難しくて、うまく言い表すことができないのだが……多分、いちばん適切な表現は、好きになり始めている──だ。

 黙りこくる哲史に苛々としてか、畠野はぐい、と顎を掴んだ手に力をこめた。

「あっ……ぅんっ……」

 不意に畠野の唇が哲史の唇に押し付けられた。




 名残惜しそうに畠野の唇が離れていく。

 哲史はいつの間にか、畠野の肩口にしっかりと両手でしがみつき、つかまっていた。

「畠野……──」

 突然のことに哲史は、言うべき言葉を見つけることができない。ただただ、唇を手で覆うことしかできなかった。

「あ……悪ぃ……」

 今にも泣き出しそうな哲史の表情に、畠野は後頭部を鈍器で殴られたような大きな衝撃を受けた。

 自分が哲史にこんな表情をさせてしまったのだと思うと、後悔と悲しみと、それから幾ばくかの苛立ちを感じた。その苛立ちは、自分に対してのものでもあったし、哲史に対してのものでもあった。

 哲史の目尻にじんわりと熱いものが滲み上がり……何か言わなくてはと必死にぼんやりとした頭を回転させようとするのだが、どうしても考えがまとまらない。

「──…馬鹿っ!」

 哲史は小さく叫ぶと、力いっぱい畠野を突き飛ばした。

「あっ、おいっ……!」

 畠野は引きとめようとしたが、それよりも早く哲史は彼の懐をするりと抜け出し、教室のドアのところに辿り着いていた。

「悪いって……悪いって、何だよ? なんでそんなこと言えるんだよ? 期待させるだけ期待させておいてそんなこと言うなんて……!」

 ドアのところで振り向きざまに哲史は言い放ち、そうして、その場から逃げ出した。後方で畠野の制止の声が聞こえたが、哲史は耳を貸さなかった。

 人気のない廊下を走っていると、涙が次から次へと溢れては零れ落ちた。

 胸の奥がちくちくとして痛かった。

 あの時、哲史は一瞬、期待をした。畠野ももしかしたら、自分を好いていてくれるのだろうかと、そんな風に淡い期待を持ったのだ。

 それなのに畠野は「悪ぃ」と言って、自身の行為を否定した。哲史に好意を抱いているわけではないのだと、暗にそう、示したのだ。

 なんてことだと、哲史は泣きながら思った。

 自分だけの一人相撲に恥ずかしさが押し寄せてきて、今は居たたまれない気持ちでいっぱいの、惨めな自分。

 なんであんなやつを好きになったのだろうかと、後悔の念が込み上げてくる。

 畠野のようなやつを好きになるのは、初めから無理なことだったのだ。

 どのみち自分は、畠野を嫌っていた。口に出して言ったことはなくても、心の中ではあんなにも不良、不良と蔑んでいた報いなのかもしれない、もしかしたら。

 きっと……。

 そうだ、きっと罰が当たったのだ。

 今まで畠野のことを馬鹿にしていたから、神様は、哲史に罰を当てたのだ。

 そうに違いない。

 でなければ、こんなに悲しい思いをするはずがない。

 悲しくて悲しくて、心が壊れてしまいそうな感じがする。今すぐにでも、どうにかなってしまいそうな、そんな感じがしている。

 畠野のことをこんなにも好きになり始めていたのだ、哲史は。

 そうでなければ、こんなにも心が痛むはずは、ない……──

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