第3話

「お前……好きなやつでもできたか」

 幼馴染の服部が、哲史のりひとに言った。

「え?」

 一瞬、哲史の頭の中が真っ白になり……それから不意に、畠野の顔が脳裏を過ぎる。

「えええええええぇぇーっ?!」

 叫ぶと同時に、自分の考えを否定するかのように哲史はバン、と机に手をつき、豆が弾けるような勢いで立ち上がった。

 我に返ると、クラスの皆が自分を見ていた。

「バーカ」

 服部だけが呆れ顔で、哲史を見つめている。

「──……謙……」

「お前、その今にも死にそうな顔で授業に出るのだけはやめといたほうがいいぞ」

 と、服部。

「えっ……なななな、なんで……何言ってんだよ、謙っ…──」

 普段の哲史からは思いもつかないような弱気な声。

 ……それから。

「行けよ。早退したって担任には言っといてやるから」

 何もかも知っているかのような親友の優しい声と少しばかりの後押しを受けて、哲史はカバンも持たずに教室を飛び出した。

 行き先は、一つしか思い付かなかった──




 休み時間も終わりに近付いた廊下を、哲史は走った。

 今、謝らなければという思いだけが、哲史の頭の中をぐるぐると回っている。

 畠野は今日はまだ、登校してきていない。ならば、畠野医院に行けば会えるかもしれないと思ったのだ。

 あの日から三日しか経っていないが、畠野と顔を合わさなければ合わさないで、気になって仕方がない。

 もっとも、哲史のほうが最悪なことを口走ってしまったのだから、会いたいと思っても合す顔がなく、畠野の姿が目の端にひょいと入ってくると、それだけで哲史は彼のほうを見ないように顔を逸らしたり、わざわざ遠回りをして鉢合わせることのないようにしていたのだが。

 哲史が謝ったら畠野は、何と言うだろう。

 怒るだろうか?

 いや、怒って当然だろう。

 きっと……きっと、散々殴られてボロ雑巾のようにぐったりなってしまうまで殴って殴って殴り倒され、下手をしたら酷い怪我をして病院の世話になるようなことになるかもしれない。

 もしかしたら……と、堂堂巡りの輪の中に捕らえられそうになりながらも何とか昇降口で靴を履き替え、冊子戸を開ける。

 雨は小降りだが風が強く、哲史が戸を開けた瞬間、横殴りの雨がさぁっと校舎の中に吹き込んできた。

 ここまで来て傘のないことに気付いたが、哲史はそのまま校舎を後にしようとする。

 吹き付ける雨の滴を振り払うように勢いよく顔を上げ……そこで、気付いた。

「あっ……」

「ようっ!」

 哲史が小さく声を上げるのと、相手がにやりと小さく笑って手を上げるのとは同時だった。

 哲史の目の前に立っていたのは畠野だった。

「帰るのか?」

 この間のことなど気にもしていないような、いつもの声で彼は尋ねる。

「う……うん……」

 哲史は俯き加減に頷くと、そのまま屋根の下から出ようとする。雨に濡れたって、構わない。畠野とこのまま会話を続けるよりも、雨の中でずぶ濡れになることのほうがずっと容易いことだ。哲史は無言でその場を立ち去ろうとした。

「あ、おい」

 そのまま表に出ようとした哲史の肩をぐい、と引き、畠野は言った。

「持ってけよ、傘」

 まだ開いたままのビニール傘を哲史に手渡すと、畠野はいつになく優しい眼差しで見下ろした。

「風邪引くぞ、そんなんで帰ったら」

「え、でも……」

 握らされた傘を突き返そうとすると、畠野の大きな手がそれを押し留める。

「いいから持ってけよ。オレはどうせアホだからな、風邪なんか引きやしないんだよ」

 おどけた調子でそう言うと、畠野はふらふらと教室へと向かい始める。

 哲史は三日間もあの時のことを引きずっていたというのに、畠野は鼻にもかけていなかったのだろうか? あんなにもあれこれと悩んだ自分が、馬鹿馬鹿しい。

 だけど。

 素直に謝るには、哲史の心は頑なすぎて。

 廊下の向こうに小さくなる畠野の背に向かって、心の中で囁くのがやっとだった。

「迷惑しているだなんて言って、ごめん──」




 畠野のビニール傘をさして、哲史は畠野医院へと向かった。

 とりあえず当初の目的──畠野と会って、言葉を交わすという目的──を果たした哲史は、心にかかっていた霧が薄れてきたような感じがしていた。

 現金なものだな、と我ながら思う。

 自分が口にした言葉をあんなにも悔やんでいたくせに、それなのに、面と向かって顔を合わせるとなると怖くて怖くて、夜も眠れなかった。起きている時には溜息の連続で、何も手につかない始末。かと言って、自分から行動を起こそうと踏ん切りをつけることもできない。

 自分は何と、意志の弱い人間なのだろう。

 こんなにも後悔するぐらいなら、口にしなければよかったのだ。

 しかも、顔を合せても自分からは何も言い出せず、結局、何もなかったようにそ知らぬふりをしてくれる畠野の好意に甘えるように、ぶすくれたままあの場は別れてしまった。

 なんて酷い人間なのだろう、自分は。

 なんて、冷たい人間なのだろう。

 せっかく畠野のほうから話かけてきてくれたというのに、謝るチャンスを無駄にした自分は、大馬鹿者だ。

 最低の人間だ。

 畠野医院の裏口を開けると、何だかわからないが白っぽいものが目の前を横切り、ドアの隙間をすり抜けていく。一瞬のことなので、哲史はあまり気にも留めなかった。それに、もしかしたら気のせいだったのかもしれない。鬱陶しい天気の日には、こういうことがたまにあるのだ。

 それに。

 今日はコンタクトを入れていないからか、全体的に周囲がぼんやりとぼやけて見える。実際に悪いのは左のほうだけだが、左の目にコンタクトが入っていない時にはあまりよく見えない。しまったな、と思いつつも、哲史はドアを閉める。

「こんにちは、畠野先生」

 勝手に上がるのも何だし、とりあえず声をかけてから哲史は、休憩室へと足を向けた。

 診察前の畠野先生は、休憩室にいることが多い。猫がいるからということもあるのだろうが、たいていの場合、彼は休憩室で寛いでいる。

 今日はしかし、廊下の奥の休憩室はドアが開けっ放しになっていた。

「こんにちは」

 ひとまず声をかけてから中を覗くが、誰もいない。

「あれ……先生……?」

 診察室のほうへ行ったが、そちらも無人だった。

 誰もいないのだ、病院の中に。

 静かだった。

 しんと静まり返った建物の中には自分一人しかいないのだと思うと、嫌な感じがした。

 勝手に上がりこんで自分は、何をしているのだろう。

 シロの……猫の面倒を見るという、どうでもいいような名目を振りかざして、よく知りもしない人の仕事場へ勝手に上がりこんでいる、自分。

 いったいいつから自分は、こんなにも礼儀知らずで行儀のないことをするようになったのだろうか。

 ぼんやりとその場に佇んでいると、表のドアが開いて、スリッパのペタペタという音がした。畠野先生だ。畠野はスリッパを履かないしドタドタと乱雑に歩くから、すぐにわかる。畠野先生は往診に行っていたのだろうか、それとも表で休憩を取っていたのだろうか。どちらにしても、ここの主が帰ってきたのだ。哲史はほっとして、肩の力を抜いた。

「こんにちは、畠野先生」

 哲史が声をかけると畠野先生は驚いたように目を見開いた。それから、まじまじと穴が開くのではないかと思うほどに哲史を上から下までじっくりと眺め、訊ねた。

「や、妹尾君、三日ぶりだね。大との喧嘩は終結したのかな?」

 哲史は一瞬むっとして眉間に皺を寄せたが、そのままそ知らぬふりを通すことでその言葉をやり過ごした。

「アンタには関係ないだろ。それよりもさ、シロは?」

 さっきから静かだと感じられたのは、シロがうるさくまとわりついてこないからだったのだと、哲史はあたりを見回した。天候のせいで普段以上に見えにくい目でシロを探すが、どこにも姿が見当たらない。

「シロなら休憩室だろ」

 と、畠野先生。

「休憩室? でも、俺がここに来た時には休憩室のドアは開いてた……」

 両手をだらりと垂らして立ち尽くす自分は、さぞかし間抜けな顔をしていることだろうと哲史は思った。

 自分が口にした言葉で、哲史は何となく悟ったのだ。もしかしたら、ここに来た時にドアの隙間から外へ出て行ったような気がしたあの白いぼんやりとしたものが、シロだったのではないか、と。

 シロはどこにもいなかった。

 休憩室に始まり、診察室やら、施錠された部屋の隅々までも二人がかりで探してみたが、どこにも白猫はいなかったのだ。

 あちこちを見て回った後に、哲史がここに来た時に白い塊のようなものがドアをすり抜けていったような気がしたと言い出すと、畠野先生もそう言えば休憩室のドアを開け放ったまま表へ出ていたような気がすると言い出だす始末。

 診察の時間が近付くと畠野先生は猫にかまけていられなくなり、仕事に戻っていった。

 哲史は一人で雨の中へ飛び出した。

 畠野の可愛がっていた猫がいなくなったのだ。おそらくきっと、自分のせいだ。なんとしても探し出さなければと、哲史は傘も持たずに白猫を探して走り出した。




 雨脚は次第に強くなってきている。

 横殴りの風が頬に叩きつける。傘を持たない哲史はあっという間に濡れ鼠になってしまった。制服は重く、冷たかった。まるで、後悔と自責の念とで大きく膨れ上がった哲史の心の中のように。

「シロ……シロ!」

 電柱の後ろやら、ゴミの収拾場所、木立の影を探した。それに、よその家の軒下も。

 思いついて、畠野医院から五分とかからないところにある神社にも行ってみた。蜘蛛の巣と、たまに遊びにやってくる子供たちの残していくゴミでいっぱいの縁の下を片っ端から覗いて回ったが、哲史の探す白猫はどこにも見当たらない。

 畠野医院にやって来てからのシロは、ずっと屋内で生活をしていた。

 外に出て、迷子になってしまったのかもしれない。

 悲壮な顔をして哲史が暗くなり始めた道を走っていると、服部とすれ違った。

「ノリ……おい、どうしたんだ、こんな時間に」

 てっきり家に帰ったものだと思っていたのにと、服部は口の中で呟く。学校帰りの服部は片手にカバン、もう一方の手に傘を持ち、ずぶ濡れの哲史を目を丸くして見つめている。

「どうしよう、謙……」

 気の強い哲史が半泣きになりながら、服部に縋りついていった。

「どうしよう、って……いったい何があったんだ?」

 宥めるように服部は、空いているほうの手で哲史の肩を抱き寄せる。傘の下に入った哲史はほんのりとした温かさを感じ取り、安堵の息を吐いた。

「いなくなったんだ……白猫が。畠野の飼ってる猫で……僕の不注意で、逃がしちゃったみたいで……」

 言いながら哲史は、目の端にじんわりと涙が込み上げてきたことに気付いた。髪の先に下りてきた雨の滴を振り払うように哲史は首を横に振ると、唇を噛み締める。これで少しは泣いているのが誤魔化せるだろうか。それとも目ざとい服部のことだから、哲史が泣いていることなどとっくにお見通しなのだろうか。

「仕方がないな。一緒に探してやるから、お前は一旦、家に帰って着替えて来い」

 溜息を吐き吐き、服部が言う。彼は持っていた傘をぐい、と哲史に押し付け、カバンの中から予備の折り畳み傘を取り出した。

「ほら、ちゃんと傘持って。あ、それから……とりあえず頭だけでも拭いとけよ」

 と、ハンカチが手渡され、哲史はおざなりな様子で顔と頭、それから腕を拭く。ハンカチはあっという間にびしょびしょになってしまったが、哲史はそれをぎゅっと絞って手に持った。

「猫がいなくなった場所まで一緒に行ってくれるか?」

 服部が言うと、哲史は黙って先に立って歩き始める。普通に歩くと畠野医院までは十分ほどで到着した。シロを探して歩いた時には三十分以上かかった距離が、あっという間だ。

「じゃあ俺は、お前が戻ってくるまでこの辺を探してるから──」

「おい、何やってんだ」

 服部の言葉が終わるか終わらないかのうちに畠野の声がかかった。

 ついさっき、学校の昇降口で哲史に傘を押し付けてきた時とは別人のような低く不機嫌そうな声をしているのは、畠野が傘を持たずにずぶ濡れだからというだけではないようだ。

 畠野の声に哲史はびくりと肩を震わせた。

「……畠野」

 畠野の声に刺激されたのか、服部が腹の底から搾り出すような声で短く吠える。

「畠野、お前…──!」

 持っていた傘を道端に放り出すと服部は、畠野のほうへと殴りかかっていく。

 驚いたことに畠野は服部の拳を避けようとしなかった。仁王立ちの姿勢を保ち、服部の拳に殴られるに任せた。

 ガッ、という鈍い音が、哲史の耳にも届いたような気がした。

「畠野っ……畠野、大丈夫か?」

 殴られた畠野はじっとその場に立ち尽くし、服部を凝視している。

 哲史は畠野の側に駆け寄ると、傘を差し出した。畠野は傘を傾けてくる哲史の手を鬱陶しそうに払いのけた。

「いきなり殴りかかってきて無事で済むとは思うなよ」

 雨が、服部と畠野を濡らしていく。

 服部と畠野の間に割って入るだけの勇気は、哲史にはない。哲史はただ黙って、おろおろするばかりだった。

「お前の飼い猫がいなくなった、って、ノリはあちこち探し回ってたんだ。それなのにお前は……」

 服部が、拳をぶるぶると震わせながら言った。

「……ごめん、畠野。俺、ぼーっとしてて、休憩室のドアが開けっ放しになってるの知らなくて……それで、そのまま裏口のドア開けちゃって……その時は気付かなかったんだけど、隙間からシロが表に出て行ったみたいで……その……」

 哲史がしどろもどろになりながら事の次第を話そうとすると、畠野は物知り顔で呟いた。

「なんだ、それでか……」

 畠野は肩にかけたナップサックの中に手を突っ込むと、かなり無造作な様子で中に入っているものを取り出した。

「ニャア」

 白猫が甘えた声で一声、鳴く。

「あっ、シロ!」

 と、哲史。

「さっき、学校の側で見かけたから連れて帰ってきたぜ」

 服部に殴られた頬を親指で擦りながら、畠野は言った。

 そうだったのだ、と、哲史は思った。

 服部が殴りかかっていった時に畠野が避けなかったのは、ナップサックの中にシロがいたからだ。

 哲史はシロの姿を目にして気が抜けたのか、それとも親友が一方的に畠野に殴られるのを見ずに済んだからか、この雨の中、よろよろと自べたに座り込んでしまった。

「あ、おい、馬鹿か、お前。こんなところに座り込むんじゃねぇ!」

 畠野が苛々と怒鳴る。

 服部は殴ったほうの手を庇うようにしてその場に立ち尽くしていたが、哲史の様子を見てふと、呟いた。

「……アホらし」

 思い出したように泥だらけになったカバンと傘を手にすると、服部は無言のままその場を立ち去った。




 雨の中に座り込んだ哲史に、畠野は手を差し伸べた。

「いつまでもそんなとこに座ってると、本当に風邪引くぞ」

 哲史は畠野を見上げ、小さく口を開いた。

「──……」

「あぁ? 何だよ、はっきり言え!」

 怒ったような声で畠野が言うのにも、今はもう、それほどの怖さを感じない。哲史は何度か口をぱくぱくさせると、最後にようやくこう言った。

「……ごめん」

 掠れて、震える声だった。寒さと、シロが見付かったことで脱力していたのと……とにかく、一度にあれやこれやが重なって、哲史の口からは小さな声しか出なかったのだ。

「はぁ? 何言ってんだ、てめぇ。さっさと立てっつってんだよ!」

 どことなく照れたような眼差しで、畠野は凄んでみせた。それから哲史の腕を取ると、片手で力任せに引き上げる。一瞬のうちに哲史は立たされていた。

「畠野、俺……──」

 哲史は、三日前のことを謝ろうとして再び口を開いた。

「おら、さっさと中へ入れ」

 畠野はそんな哲史の気持ちを知ってか知らずしてか、首根っこのあたりを乱暴に掴み上げ、畠野医院の入り口へと引きずっていく。まるでシロに対するのと同じ扱いだ。

「お前が風邪引くと、俺が光一に言われんだよ、色々と」

 ドアの内側へ哲史を引きずり込んだ畠野は、そう言いながらドアを蹴飛ばす。

 バタン、と音が響き、ドアは悲鳴をあげて閉まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る