風船

 秀美は、エコバッグに入った卵、牛乳、マヨネーズをぶら下げて小気味よく歩く。

「今日はどんな表情を見せてくれるのかなぁ?」

 心地いい風が肌にあたり、秀美は上機嫌で独り言をつぶやいた。


「うわーん!いやだよー!えーん!いやー!」

 どこからか子供の泣き声が聞こえる。その声は、こんなにも清々しい陽気の中で、ひときわ激しく響いている。

 秀美はその声の出所を探すように視線を巡らせる。

 少し離れた木陰で、少年が地面に突っ伏している。

 そばではお母さんらしき人が、困り顔で頬に手を当てていた。

 秀美は少し近づきながら、様子をうかがうと、子供の上方にある物体があるものに気が付いた。

「風船……」

 秀美は気が付いたときには理解し、駆け出していた。

 ぐんぐん二人と距離を詰める。

 それに気が付いた母親らしき女性が驚いた顔をする頃には、近くのベンチに片足をかけ思い切り踏み込み、上方へ飛び上がっていた。

 エコバックが空中で重力を失ったあたりで、風船から垂れる紐を強く掴んだ。

 女性も少年も、周辺にいた人たちも、秀美の行動にくぎ付けになった。


「大丈夫ですか?」

 心配そうな表情を見せるのは、小山と名乗る、泣いていた少年の母親であった。

「あはは、お恥ずかしいところをお見せしました」

「おじちゃん大丈夫?」

 泣いていた少年のサトルも心配そうに秀美の顔を覗き込んだ。

「大丈夫だよ。それよりも風船が取れてよかった」

「でも……」秀美の笑顔とは正反対な表情の小山。「その、卵が……」

「小山さん、大丈夫です。サトル君の風船とれてよかったです」

 宙を舞った秀美は、着地を失敗して転倒してしまった。

 空中を舞う際、風船は離さなかったが、エコバックを離してしまった。

 重力を取り戻したエコバッグは万有引力の名のもとに、地球へ叩きつけられた。

 秀美とともに。

「大丈夫です」

 ひびの入った卵を眺めながら、秀美は穏やかな口調で返事をした。

「なんとお礼を言ったらいいのか」

「お礼なんてとんでもないです。気が付いた時には体が勝手に動いてたので」

 サトルの頭に手をやって、秀美は微笑みかける。

「もう離したらだめだよ」

「うん!」サトルも嬉しそうに笑顔を浮かべている。「おじちゃん!今度一緒に遊ぼ!」

 唐突なサトルの申し出に小山があわあわと狼狽える。

「ちょっとサトル、そんなこと言って……もう、すいません」

「あ、私で良ければ……諸事情で割と公園にいますし、お友達もいるので一緒に遊べるかもしれませんよ?」秀美はふと考え直す。「も、もちろんお母さんとサトル君が良ければですが」

 秀美は小山の顔色をうかがう。今日初めて会った人間といきなり子供を遊ばせようと思う親はなかなかいないと秀美は考えたのだ。

「あ、はい、よろしくお願いいたします」

「え」「やったー」

 秀美とサトルの声が重なる。

「春日井さん……ですよね?」

「え、あ、そうですけど」

 秀美は相手の名前を聞いておいて自己紹介がまだであったことに気がついた。と同時に、自分の名前を知っていることに驚いた。

「すみません、自己紹介がまだでした。名前を聞いておきながら」

 秀美が気まずそうに後頭部をかく。

「いえ、実はお顔は知っておりました……春日井さん、この地区の一部ではちょっとした有名人なんですよ?」

「え?有名人ですか?」

 思わぬ言動に今度は秀美が狼狽える。

「ええ……美男美女の夫婦が引っ越してきたって。引っ越してきたころ、やたら声かけられませんでした?」

「……フレンドリーな地区だなとは思っていましたが……」

「みんな、素敵な夫婦に興味津々だったんですよ」

「いえいえ、恐縮です。今感じでしたが、今後ともよろしくお願いします」

「はい、こちらこそよろしくお願いします。春日井さんとお話しできてよかったです」

 小山は小さく会釈をして、サトルの手を引いていった。

 サトルは「バイバーイ」と手を振っている。満面の笑みで。

 秀美は手を振りながら、そのふられた手から風船が離れていかないか心配であった。


「まさか僕が子供と遊ぶ日が来るとは」

 冷たい風がひゅっと肌に当たり、秀美は歩くたびに足首に小さな痛みを感じていた。運動不足を感じ、体力づくりをしようと決意する秀美であった。

 子供がいれば、こんな気分なのかなと秀美は感じる。

「それはもうどうしようもなく、自分のせいなんだよな」

 秀美は少し寂しそうな顔で、冷たい風と足首の痛みに心情を重ねていた。


――子はかすがい……というけど、子供がいない僕たちは――

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