第9話 【再三再四】

 深い森の中を走っている。汗だくになりながら一心不乱に、後ろから迫りくるあれらから逃げている。三匹の巨大な獣が私を狙って執拗に追いかけ、途中何度も下卑た笑いを投げかけて楽しそうにしているのが背中に伝わって来る。

 私が道無き道をかき分け進んで行くのに、なんの苦労もなく着いてくればいいだけの彼らにとって、距離なんてあってない様なもの。けれど、とにかく足を前に進ませなきゃ、あれらに捕まってしまう。

 この感覚どこかで味わった事があるような・・・・・・そもそも私は誰なんだ? 

 思考は出来るけど身体は勝手に動いて、草木をかき分けどうにか身体を前に進ませようと必死な足はとても小さく頼りない。それにちらちらと見えるのは着物だし、手も小さい。

 一つわかっているのは、迫り来るあれらに捕まったら終わりだということ。息が切れる。肺が熱い。足も手も鉛みたいに重い。あと少し行けばいつもの道に出る。そうすればきっと誰かが通るはず、村の誰かが・・・・・・助けてくれるはずだ。

 突然、頭に強い衝撃が走って目の前にチカチカと火花が散る。一瞬遅れて岩肌が私の顔に近付いてきて、顔の前面に衝撃が走る。拳大の石が投げられてそれが頭に直撃したと分かったのは、倒れ伏した岩肌の上の方から血のついた石が私の横を転がり落ちていったからだった。今まで熱かった肺や重い足の感覚はどこかに消えて、じんじんと頭に熱が広がるのを感じる。額から頬に向かって生暖かい物が流れるのを拭おうにも上手く出来ない。

 足音と話し声が近付いてくる。ああ、早く足を動かさないと捕まってしまう。

 早く、早く、早く・・・・・・

「楽しいかな楽しいかな。やはり逃げるモノを追う事こそ狩りの醍醐味よな」

「いやいや兄上、楽しみはまさにこれからでは」

「誠に」

 湿った地面と岩だらけだった視界がぐるりと動いて、深々と生い茂る木々の隙間から赤らんだ空が見えた。赤い絵の具の原液をそのまま空に溶かしたみたいだ。視界に広がるキャンバスに黒い染みが三つ、ぬらりと視界を大きく塞ぐ。三対の目はお互いを見やった後こちらに向き直り、目尻を大きく下に歪ませながら「へへへ」と声を漏らした。傾いた夕陽が木の葉の隙間から差し込み、黒い染みを赤々と照らす。


 着物を着た男が三人、目前に迫っていた。


 そう認識した途端に私の意識がこの身体にストンと落ちてきて、頭から爪の先までが私の物になった。小さくてか細い、吹けば手折れそうな全く肉の無い骨張った身体。元の身体もそこそこに線が細く、胃の容量を超して食べた所で肉は一向に付かなかった。でもこれはそういう次元じゃない。伸ばされた手を振り解こうと破茶滅茶に手足を動かしても、子供と大人、男と女の圧倒的な力の差があった。圧倒的な質量の差があった。咄嗟に小学校で男子の顎を拳で打ち抜き昏倒させた事を思い出して、目の前にいるまげの男の顎目掛けて力の限り振り抜いた。地面に倒れ込んだ状態で体重が乗っていないけれど効果はあったらしく、男の動きがほんの少し、止まった。

 チャンスは今しかない。そう思って身を捩り逃げ出そうとした瞬間だった。

 それまでニヤついていた男がスイッチが入った様に真顔になり、私の顔を殴りつけた。ふざけあっていた小学生男子が、何のきっかけか突然本気の喧嘩になり始めるみたいに。鼻が折れて口の中に折れた歯が刺さっても執拗に何度も何度も顔の形が変わるまで殴り続けた。途中横の男が「程々にしておかねば楽しみが減るぞ」とよく分からない制止を言ったけれど、聞く耳を持っていなかった。

 私が悲鳴をあげなくなった頃、男はすっきりしたのか一つ息を吐いて立ち上がり着物の裾を上げるのが、腫れ上がった瞼の隙間から見えた。更にその下に履いている黄ばんだ物を脱ぎ捨て、私の足元で膝を着く。一切の思考がままならない中で唯一本能だけはこれから起こるであろう事を察して、落ちた蝶がパタパタと羽を動かす様に手足を力なく動かしたけれど、これが私に出来る最後の抵抗だった。

 口に太めの木の枝を噛ませられ、歯茎と唇に折れた枝が突き刺さるやいなや、男の逸物が私の下腹部を貫いた。

 朦朧とする頭が一撃で覚醒するほどの痛みに、私は絶叫した。脳がいくら抵抗しようと信号を発信しても、殴られている最中にどこかの神経がおかしくなったのか緩慢な動きしか出来ない。しかし痛覚だけは何故か残っていて、濡れてもいない体内をかき混ぜられる継続的な痛みは余すところなく全身を駆け巡って行く。どれだけの時間続いたか木々も男達の輪郭も墨に溶け、代わる代わるに私の中で果てているのが最早誰なのかも一切の判別がつかない。ただ、上で動く度に聞こえる息遣いで、人が代わった事だけは判別出来てしまうのが何よりも気持ち悪い。

 暫くして一通り犯すのに満足したのか、伸し掛かっていた重みが消え衣摺れの音が三方から微かに聞こえる。これでやっと終わるんじゃと淡い期待が芽生えたけれどしかしそんな事はなく、唐突に右足の脛を踏み抜いた。筋肉も脂肪も無く脆い骨は耐えられるわけもなく、へし折った手羽先みたいに骨が皮膚を突き破った。両手の指を反対側に曲げられ、左の太ももから下は関節が複数増えていく。私が悲鳴を上げても風が木の葉を荒々しく揺らす音に掻き消され、あとたった数十メートルの距離の人道には届かない。

 恐らく初めに私を殴り付けた男ではない男が折れた足を乱暴に掴んでうつ伏せにさせ、手折った枝数本を泥と血と精液で汚れた股に向かって勢いよく振り下ろした。

 運が良かったなんてとても言えないけれど、突き刺さった瞬間に意識が無くなり痛みを感じなかったのは、人間に備わる機能として優秀だと思った。


 次に目を覚ました時、私は屋敷にいた。あれだけへし折られた身体には怪我の一つもしていなかったけれど、代わりに両手足に鱗の様な物が生えていた。意識がふわふわと宙に浮いている様な感覚は全く同じで、暫くするとストンと意識と身体が一つになるのも全く同じだった。

 周りを見渡してもここが部屋とは信じられなかった。四畳の部屋の隅に頭二つ分程の穴があってそこから公衆トイレの、更に何ヶ月も放置されていた匂いが漂って来る。私が寝かされているのはボロボロでクッション性の欠片もない茣蓙(ござ)だし、何より、目の前には木製の柵がしてある。ここが座敷牢だと分かるのは、この身体の持ち主が記憶しているからだ。きっと意味が無いと分かってはいたけど、柵の隙間から何度も何度も助けを呼んだ。

 夜になり、誰かがやってきて牢の前に何かを置いた。それが粟を水で薄めた食べ物で、自分達で殺す事はしたくないから徐々に私を弱らせるようにする物だった。二日か三日、長ければ四日間隔でしか食事にありつけず、それから食事が十回かそこら運ばれて、粟ですらなくその辺の雑草が数本入れられただけの物に代わった時に私は食べるのを止めた。


 次に目を覚ましたのは、森に掛かる一本の吊り橋の上だった。下に川は流れておらず鬱蒼と茂る針葉樹が遥か下に見えるだけ。

 数分間下だけを映していた視界が少しずつ上に上がって行き、一度周囲を見渡した。深緑の森は遠いどこかで見た景色に似ている気がする。橋の入り口付近から私を、この誰かの名前を叫びながら走って来る人が見えた。あれは以前町の寺子屋で知り合った酒屋の娘だ。

 視線を森に戻し、ゆっくりと下を向いて行く。体が傾いていき上半身に重力を感じた時

「私も!」

 と娘が叫んだ。それを聞いた私は動きを止めその娘が涙ながらに訴える話を聞く。しかし、耳に届いてはいてもまだモヤがかかっていて内容が入って来ない。娘は何やら納得した様子で私の手を掴み、指を絡ませる。隣に立った娘と目が合うと何故か多幸感と充足感に心が包まれて、私自身も心地がいい。この時間が永遠に続けばいいのにと思った次の瞬間、二人して足を踏み出した。

 頭から落下の最中にまたストンと身体に意識が落ちてきた。なんて意地悪なタイミングなんだと思う間も無く目の前に地面が迫る。

 激突するほんの一瞬前、こちらを憎々しげに睨み付ける顔が映り、何とも言えない鈍い音がして真っ暗闇に包まれた。


 次は燃え盛る東屋の一室で目が覚め、その次は典型的なゴミ屋敷だった。真冬のベランダの時もあった。


 私は何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も凄惨な死を繰り返し、そして何度も何度も何処かで目を覚ます。決まって死ぬ直前になってぼんやりとしたいた意識がはっきりしだして、耐えられない痛みや苦しみを味わう事になる。段々と麻痺してくれることも無く、毎回きちんと新鮮に痛い。

 それからまた数えるのを諦める程繰り返し死んで、気付けば元の部屋に立っていた。

 唐突に戻された事が分からず数秒間ただただ立っていたけど、意識がハッキリしていて、十全に私の意識が私の身体に戻ってきているのを認識した。相変わらず金縛りにあったままで動かせるのは首くらいだ。首と共に視線を下げると、これも変わらず赤子がへし曲がった頭でこちらを見ている。

 ・・・・・・無限にも思える時間死に続け、分かった事が二つある。

 一つ目は・・・・・・今分かった所で解決の糸口になりはしない。赤子もこの屋敷に来る道中に出会った蛞蝓も、あのおもちゃ屋敷の一つ一つ、きっと苛撫吏なる化け物も全て誰かの記憶で出来ている、ということだ。人が死ぬ直前に抱える想いが大きければ大きいほどより鮮明に記憶される。頭の中に起こる電気信号の一貫だとしても、でもそこには確実に存在していて、死ぬと同時に外に出る。痛みや苦しみ、憎悪、悲哀や断末魔も本当にあった誰かの記憶で、集まり寄り合い形を成して質量を持ち、目的を持つ。

 殺して、取り込み、更に多くの人間に渦となって巻き込んで、晴らせない想いを無尽蔵に増やす。人間には忘れる機能が備えられているけれど、これらは忘れる事はない。

 もう一つはこの赤子が何であれ、この赤子が私を逃してくれそうに無い事だ。どの死因が理由かは分からないけれどとにかく何度も死ぬ瞬間を味わわせて、お前もこうなるのだと示した後、多分、そのどれかかそれ以上の苦痛を与えるつもりなのだと思う。

 小さい指を私の足にめり込ませ、下半身から千切れた腸を揺らしながらよじ登って来る。赤子と目が合うとまた「子を恨め、他を恨め」と恨み言を吐き出した。

「────逃げて」

 その声が聞こえた途端、体の縛りが解けて脱兎のごとく駆け出した。

 後ろを振り返っている余裕は一切なかったけれど、部屋から抜け出すほんの一瞬、視界の端に声の主が認められた。見間違いじゃなければ、彼女はあの赤子の頭を撫でていた。

 彼らの、彼女達の、あるいはまだ名前すら無かった子供達の記憶をほんの一欠片覗いただけで、全てを知った訳じゃない。だからこうして逃げているんだし、あの子が逃がしてくれたのはその為じゃない。今はただ出口を探して宛てもなく歩き続けるだけ。

 携帯の電池は赤色で叫べど叫べど返事はない。いつの間にかあの赤子が後ろから着いて来ている。あの子だって何時でも助けてくれる訳じゃない。

 開けた襖の奥には混沌とした闇が広がるばかりで、廊下に出ればただ壁が規則的に続いている。一度大きく深呼吸する。古い木と焼けた畳の匂いに混じって、腐った鶏肉と生ゴミの饐えた匂いが辺りには漂っている。出口を探してぐるぐると屋敷の中を彷徨い歩く。いくらイラついてしまったとは言えど、不用意に一人にならなければこんな事にはならなかったのに。外からは化け物が追ってきていて中からはあの赤ん坊がついて来ているし、一体全体どこに逃げれば私は助かるのだろうか。お父さんは私を助けに来てくれるのだろうか。

 ・・・・・・・・・・・・本当に助けに来てくれる?

 今日一回でも助けるって言ってくれたっけ? 起きてただ連れられて島根に来て「すまない」「ごめんな」ばっかりで、原因だけ説明されて、このままだと死ぬって事しか聞いてない。どうしてかって、だって長年親子なんだから助けてくれるって信じるのは当たり前で、もしも父さんや美津樹がピンチになれば私は絶対に駆けつける。じゃあそう出来ない理由はとなると物理的に行けないか精神的に行きたくないか。私が今ここから抜け出せないみたいに、父さんは今物理的に助けに来れない状況なのかもしれない。そう考えるのが一番理屈にあってる。もしそうじゃなかったら・・・・・・いや、その可能性は無い。

 とにかく前に進もう。明けない夜は無いし、明けなくとも死なない様に逃がしてくれたあの子に報いなければ。

 まだ開けていない襖に手を掛け大きく息を吐く。開いた扉の先には携帯のライトが届かないほどの暗闇が黒々と続いていて、後ろからはあの恨み言が輪唱みたく反響して聞こえて来る。怖さは多少消えたけれどここは鼻歌でも歌って陽気に行くのがいい。


 好きだった洋楽と私の体は暗闇に呑み込まれ、すぐに絶叫へと変わった。

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