第8話 【回廊】

 「ふぅーっ、危なかったー」

 決壊寸前、マジで漏らす所だった。ゲロだけに飽きたらず、おしっこの世話までは流石にさせられない。ただの深窓の令嬢系女の子から、撒き散らす系女の子になってしまうのだけは避けなければ。まあ、窓は窓でも安いステンレス製の窓だけど。

 水洗トイレじゃなくてそのまま下に落とすタイプだったから、するかどうか迷ったんだけど、背に腹はかえられない。

 手洗い場を出て囲炉裏があった部屋に戻ろうとして、私はあることに気が付いた。

「どっちから来たっけ・・・・・・そもそもトイレの場所聞いたっけ?」

 どうやって探し出せたのか思い出せない。右を見ても左を見ても襖しかないのに、迷った記憶が無い。いや、探した記憶すらないのはおかしい。トイレに行きた過ぎて覚えてないとか、そういう次元の話じゃない。

 どんどん焦りが募っていく。適当に進んでいいのか?

「・・・・・・おと、お父さーん?」

 呼びかけは長い廊下に吸い込まれて、沈黙のみが返ってくる。

 いや、まずはさっきの縁側を探そう。そこに出さえすればすんなり戻れると思う。困ったらそこから玄関に行ってもいいし、電話も掛けられる。

 選択肢は真っ直ぐか左か。左・・・・・・よし、左だ。確信は無いけど、とりあえず進んでみよう。

 しばらく廊下に沿って真っ直ぐ進むと壁に突き当たった。丁字路だから次は右か左か。覗き込んで確認しても、全く同じにしか見えない部屋が続くだけ。右に曲がってまた真っ直ぐ進んでいく。途中右に入れる所もあったけど、そこは無視していく。

 また丁字路だ。うーん、右に行ったらトイレから真っ直ぐ行く方に繋がるから、ここは左かな?

 歩けど歩けど同じ景色が延々続く。

 ・・・・・・そうだ、屋敷に入った時から感じていた違和感。ずっとモヤモヤしていたけど、やっと分かった。この屋敷、どこにも窓が無いんだ。こんなサイズの家になんて入った経験が無かったから、すぐには気づけなかった。外の景色と見比べてどの辺かの判断が付けられず、かつ、全く同じ部屋が連続しているから余計に分からなくなる。

「あれ・・・・・・またトイレ?」

 目の前にはトイレが現れた。これだけ広い家だから同じ形のトイレが複数あっても、なんら不思議は無い。でも、あれは・・・・・・。

「・・・・・・ど、どういう事?」

私はどうやら手洗い場に携帯を置き忘れてしまっていたらしい。でもどうして目の前にあるのか理解が出来ない。

 ・・・・・・左、右、左。頭で復唱し、更には口に出して宙空に指でその軌跡をなぞる。あり得ない。途中で廊下がカーブしていない限り、絶対にここに戻ってくる訳がない。

 恐る恐る携帯を手に取って確認しても、間違いなく私の物だとしか言えない。

 何かが私の身に起きている。一気に焦りが溢れてくる。

「お、お父さーん! 三嶋さーん!」

 叫んでも廊下は無音を返してくるだけだ。

 マズイマズイマズイ! そうだ! 電話すればどうにかなるはず!

 そう思って電話を掛けてみたが

「お掛けになった電話は、現在電波の届かない所にいるか、電源が・・・・・・」

 さっきまで通じたのにどうして!? 圏外!? 

 もう一度電話してみるが、やはり繋がらない。縁側にも辿り着けないし、見回しても目印になりそうな物が何も・・・・・・何も見えない。


 気付けば急に視力を奪われたかのように目の前が真っ暗で、携帯の画面からの光で辛うじて柱や襖が視認出来る程度。もっと明るかったはずなのに・・・・・・いや、違う。そもそも明るかった事自体が最初からおかしい。

 だってこの屋敷には窓の一つも無ければ、電気も通っていなかったんだから。


 携帯のライトを付け壁にぶちあたるまでとにかく進んだ。右に、左に、戻ってもみた。走りもしたし、大声を上げたり血が出るまで壁を殴ってもみた。中から格子状に組まれた竹が現れて、それ以上は進めなかった。全て無駄だった。トイレの中も勿論調べてみたけど、手がかりになりそうな物もないし、あの穴から蛞蝓が這い出してくるかもしれないと想像してからは見もしなくなった。唯一していない事といえば、無数にある襖を開ける事くらいだ。開けたい衝動に何度も駆られたけど、三嶋さん曰く「忌世穢物が蒐集してある部屋」が存在しているらしいから、開けたくても開けられない。開けた瞬間に化け物が飛び出してきはしまいか、ただそこにあるだけの何も無い部屋なのではないか・・・・・・


 時間にしてどれくらい経ったろうか。これも考えるだけ無駄だと分かってはいる。携帯の画面の時刻表が見る度に違う時刻を指しているからだ。体感でつい五分前に見たと思ったら、半日は先の時間を表示したりする。充電だけはきちんと順当に減っているみたいで、もう残りが一割を切っている。それがまた焦りに拍車をかけた。


 ・・・・・・とうとう廊下以外の景色であったトイレですら見掛けなくなった。


 だから、本当に最後の手段だと思っていた襖を開けてみようと思った。もしかしたら、この無限に続く廊下から簡単に抜け出して、父さん達のいる場所へと一発で導いてくれるかもしれない。淡い期待なのは重々承知しているが、縋らずにはいられなかった。

 それに、今開けられなければ、ずるずると開けられなくなりそうだった。

「大丈夫、大丈夫。これはただの襖・・・・・・これはただの襖」

 目に付いた襖の取っ手に手をかけ、迷いを断ち切る意味を込めて一気に開く。

「っ・・・・・・・・・・・・ん・・・・・・」

 開けた先の光景は、良い意味でも悪い意味でも二重に私を裏切った。良い意味の方は一枚板の机や掛け軸がしてある、どこにでもありそうな屋敷の部屋だった。いつ振りかの、ちゃんと物のある景色だった。悪いのは、父さん達がいる部屋でもなんでもなかった事。ちゃんとした部屋だと分かったところで、進展でもなんでもない。むしろ辿り着けない証明になってしまう。

 絶望がどんどん心を侵食していくのを、私は為す術なく感じるしかなかった。

 このままどこにも行けず、誰にも看取られず、骨すら拾われず、ここで死ぬしかないのだ。そんな妄想すら信じ始めていた。


カチャッ


 どこからか音が聞こえた。誰かに見つけて欲しくて聞こえた幻聴だと思った。でも、そうじゃなかった。掛け軸の女性が見つめるその先、ただの壁でしかなかったその一面が独りでに開いていく。途端に周囲の温度が低下し吐く息は白く、肌がピリつく奇妙な感覚によって筋肉が緊張と弛緩を繰り返し小刻みに全身が揺れ始める。それは隙間の広がりと共に大きくなり、壁がキュイッと小動物を捻った様な音を立てて止まるまで続いた。十秒かそこらしか経っていないはずなのにぐっちょりと汗をかいていて、中は携帯のライトですら飲み込む程暗くて、暗闇そのものが口を開けているみたいだった。

 入ってはいけない、関わってはいけない、決して部屋の中の物に触れてはいけない。危険を避ける為に生まれつき備えられた本能が、頭の中でけたたましく警鐘を鳴らす。それなのに抗えば抗うほど足は一歩前へと踏み出し、理性と本能の両方が止まれと指示しているにも関わらず、身体だけが条件反射的に目に見えそうな程淀んだ空間へと突き進んでいく。

 殆ど効力を為していない携帯のライトに照らされたその部屋には、ポツンと中心に配置された正方形の机と布に包まれた箱らしき物以外には何も無い。何も無いからこそまるでこの部屋がそれらを配置する為だけに造られたと言わんばかりで、初めからこの部屋を造る事を前提としてこの屋敷が建てられたんじゃないかと想像を掻き立てた。しかも簡単には分からない隠し扉まで拵えてると来れば余計に。

 どれもこれも化け物のせいなのと問い掛けようにも口が開かなければ聞く人もいない。自然と零れる涙を拭こうにも身体は言うことを聞いてくれない。歩かされる私に出来るのはせいぜい目を動かして周囲を見る事ぐらいで、机の前に立たされてもそれは変わらなかった。


 ・・・・・・したっ


 気付くか気付かないか際どい速度で視界の端にある布が静かに動いた。あまりに自然で緩慢な動きに全く気付けず、初めからそうだったみたいにいつの間にか結び目が一つ解けていた。また注意していても見逃すほど、自然に結び目が解けていく。まるで生気を無くした花がゆっくりと葉を地に落として腐りかけの子房を剥き出しにする様に、一枚、また一枚とその中身を曝け出していく。中から現れたのは二十センチ四方くらいの古びた箱。私をここまで呼んだのは間違いなくこれだ。近くにいるだけで全身に痺れる様な悪寒が走る。続けてパチパチと音を立てて箱の輪郭が膨らんでは萎みを繰り返し、ほどなくして音と共に止まった。これは私にだって分かる。誰だって次が読めてしまうくらいお決まりの。ほら、箱の蓋が開いていく。なみなみと入った底なしの沼みたいに真っ黒な液体が、石を投げ入れた時に出来る波紋を浮かべて、その波紋の中心から無数の小さい手が生えて来た。どれもこれも産まれたてばかりの赤ちゃんのよりも小さく、不揃い。それらがぐるぐると複雑に絡み合って繋がって、一つの手になった。そこから腕、胴がだんだんと出来上がっていく。不完全なのかそういう仕様なのか箱から乗り出してきたその体には下半身が無く、手だけを使って不恰好に移動して私に向かって来る。


 机から落下して頭を床に打ち付けて、首があらぬ方向に曲がっても全く意に介さず進む。違うか。そもそも液状だったものがただ赤ん坊の形をしているだけなんだから、痛みとか首がとかそういう次元じゃない。私が知っている限りの法則なんてこいつらには通用しないって事、いい加減に私は学んだ方が良さそうだ、そのチャンスがあれば。

「た・・・・・・め・・・・・・を、め」

 何かぼそぼそと呟きながら足元に這い寄ってくる。

「・・・・・・を恨め・・・・・・子を・・・・・・め」

 もう、二、三歩。あと一歩。


「他を恨め。子を恨め」


 赤子の手が私の足に触れたその瞬間、私は深い森の中にいた。

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