第5話-1 【回想 美津樹】

 私は当時クラスメイトの女の子からいじめを受けていた。始まったのは確か五年生に上がってすぐだったと思う。五、六人くらいのグループで、その主犯が美津樹だった。理由としてはよく体育やら運動会やらを休んでいて、それが気に食わなかったとかそんな感じだった。初めはよそよそしく次第にあからさまに私を避ける様になって、物を隠したり呼び出されて罵倒と雑巾を絞った後の水を浴びせられる、典型的ないじめに変わっていった。

 今も昔もインドアで、更に昔は内気な性格で誰よりも初潮を迎えるのが早かった。こんな体なんかあるからいじめられるんだと思った。どうしてこんな思いをしてまで学校に行かなければいけないんだろうか、確かに私はよく休むけれどいずれ他の子もそうなるかもしれないのに。何で私だけなんだろうか。死にたいという発想に至っていなかったのは、私がまだ子供だったからだと思う。

 私は窓側の席が好きだった。二階から小さく見えるサッカーゴールや滑り台、遠くに浮かぶ雲を眺めていれば何も考えずに一日を過ごせた。クラスではふた月に一回席替えがあって、なんの偶然かいつも窓側の席を引く事が出来たから嬉しかった。

 美津樹はいつも廊下側の席にいた。

小学校六年の六月一日、恒例の席替えによって私は窓側を離れて中央付近の席になった。更に運悪く美津樹が隣の席になってしまった。

 終わったと思った。これから最低でも二ヶ月間は逃げられない。もう学校に行きたくない。そうだ家で勉強すればいい、そうしようと決意した矢先。丁度休み時間で先生がいない十分の間、事件が起きた。

「うわーーーーー!きーたねーー!!こいつ生理だーー!!」

 美津樹の後ろに座る男子が声を張り上げた。見ると、美津樹が履いている黄色いスカートのお尻のあたりが赤黒く染まっていた。生理が来ていたら何かしら対処していると思うから、初潮なんだとすぐに分かった。

 次に頭に浮かんだのは、もしかしたらいじめも収まるんじゃないかってことだった。これから先、私みたいに痛みと一緒に生きていかなくちゃならなくなる訳だし、淡い希望が芽生えたのを覚えている。

「せーいーり菌!せーいーり菌!」

 最初に発見した男子がコールを始めた。ガヤガヤと見に来た野次馬の男子達も、汚れてしまったスカートを指差してコールに混ざり大声を上げる。美津樹は今にも泣き出しそうな真っ赤になった顔で、自分の服の裾をぎゅっと握り締めていた。男子の声がどんどん大きくなる。

 美津樹が私を見た。綺麗に手入れされた触角ヘアの間から、今にもこぼれ落ちそうな涙を溜めた目が覗いていた。いつもの蔑んだ様な目は何処にもなくて、助けを求める、謝罪を込めた目だった。それに気付いた瞬間、自分でも抑えきれない怒りが込み上げて来た。

 なんで自分の時だけ助けを求めるの? 虫が良すぎるにも程がある。自業自得だ。ざまあみろ。私には関係の無い事なんだからさっさとこの場を離れてしまおう。後の事は知らない。そう思って席を立ったのに。

 いつも美津樹の側にいる子達が、離れて笑っていた。

 蔑んでいるその醜い顔が目に入って、私は自分が恥ずかしかった。このまま去ったら私もあいつらと同じになるんじゃないか。例え私をいじめていたとしても、見捨てていくのは違う気がする。生理をきちんと知らなかっただけかもしれない。ならチャンスをあげてもいいんじゃないか? もしダメなら学校に行かなければいい。私がここで動かなきゃいけないんだ。


 私はくるりと身を翻して、最初にコールを始めた男子の顔面に右ストレートをぶち込んでいた。近づく私に向かって「生理菌が移る」って言った瞬間には、反射的に拳を振りかぶっていた。殴られた勢いのまま背中から倒れこんだその男子に、私は馬乗りになってもう一度殴った。抵抗しようと服を掴まれたから振り払って、今度は左手で顎の辺りを思いっきり振り抜いた。打ち所が悪かった、いや良かったらしく、その男の子は白目を剥いてピクピクと痙攣して動かなくなった。

 ・・・・・・胸が苦しい。心臓の鼓動もやけに大きく聞こえる。何か大きな塊が喉につっかえて体の内側を圧迫してるみたい。違うか、立ち上がってからずっと息止めたままなんだ。

「・・・・・・はっはっ、はっ・・・・・・はっ・・・・・・ふぅ」

 怒りで我を忘れるなんてよく言ったものだ、私なんか息するのも忘れてた。もう一度大きく深呼吸してゆっくり立ち上がる。手の甲がジンジンして改めて人の骨って硬いんだなって感じたのと、二回殴った右手より左手の方が痛くて少し不思議だった。利き手じゃなかったからかもしれない。

 まだ鼓動が聞こえる。倒れている男子を一瞥して周りを見渡す。鼓動が大きく聞こえる原因は、教室中の誰もが呆然と立ち尽くして一言も漏らさず私を見ていたからだった。コールに加わった男子は口をポカンと開けていて、美津樹を笑った女子達は「い」の口のまま引き攣っていた。同じ顔で立ち並ぶクラスメイトに対して、怒りを通り越して失望と侮蔑の感情を抱き、スッと口から言葉が溢れていた。

「次馬鹿にした奴は殺す」

 しんと静まり返った教室に私の声が小さく反響し、外からの喧騒ですぐに掻き消された。

 誰も何も言わなかった。私もそれ以上話す必要は無かったから、教室の後ろ側のドアに向かう。途中に居た何人かの男子は私が目の前に来ると目を伏せて、体を横にずらして道を空けた。


 廊下に出て教室内から完全に私の姿が見えなくなった所で、授業開始を告げるチャイムが鳴る。途端にガタガタ騒ぐ音と、殴り倒した男子を呼ぶ声が後方から聞こえ出す。手すりに手を添え、段数を数えながら階段を降りる。夜になると段数が変わってその段を踏むと消えるって怪談があるけど、それは踊り場を数えるかどうかで変化するだけの話。今回は十三段。一階に降りると「やばいやばいやばい」と小さく漏らしながら、一斉に教室に駆け込む生徒達とすれ違う。昇降口には慌てて入れ損なった運動靴が、簀子と靴箱の間に挟まっている。

「榎野、何してるんだ? 授業は?」

 振り返ると三年担任の先生が出席簿とスクリーンを持って廊下に立っている。

「体調が悪くなったので保健室に行きます」

「そうか、先生には伝えたのか?」

「はい、伝えました」

「一人か、付き添いはいるか?」

「いえ大丈夫です、もうそこなので。ありがとうございます」

 先生が教室に入るのを確認して、私は自分の靴を取り出す。入っている砂を出そうと靴を逆さまにすると、砂に混じって光る物が落ちて簀子に当たりカツっと乾いた音がした。先の錆びた画鋲だった。

 緩んだ靴紐を結び直して昇降口を出る。錆びの上から塗装して表面が凸凹になった滑り台、最近新しくなったばかりのシーソー。撤去されずに残っている地面に突き刺さった鉄柱。角が破けたゴールネット。誰も居ない運動場。開け放たれた正門の柵。

 教科書もカバンも全部置いたまま、その日私は学校をサボった。

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