第4話-3 【腐った肉と骨の味】

「おごっ、えっ、あが、んんん!!」

 それぞれの手が我先に私の中に入ろうと他を押し退け、握り潰し、腐った血と肉を撒き散らしながら迫って来る。間一髪、閉じた唇に群がる無数の純粋な食欲と悪意。一度口を開けば流れ込んで来る事は明白で、声にならない悲鳴をあげるしかなかった。

 第二関節から先があらぬ方向を向いている人差し指が鼻先を掠め、一際小さい手は他の手に潰され骨が肉を突き破り、尖った骨片で頰に傷を付けた。

 一個の個体でありながら群衆のようでもあり、生きている者を食べるというたった一つの目的がありながら、それぞれが個別の意思を持ち合わせている。目の前にある獲物を美味しく仕上げる為に、ただ貪る為に、選んだ進化の形。この世のものでは無い存在と、ただの人間じゃ生きてる次元が違うのだ。知性の有無は関係無い。

 早く離れなきゃ。

 でもどうやって? 残った左腕まで掴まれればなす術がなくなる。右手を無理矢理引き抜く? それはどれだけの痛みと傷を引き換えに成功可能なのか・・・・・・最悪手首ごと消え去るかも・・・・・・そもそも二人は何してるの? 私を助けてくれるんじゃなかったの?

 生温かい物が頰を伝う。声をあげたくても少しでも口を開けば、それは殆ど死を意味する。そうやって多くの人々が犠牲になったのだから。

 「朱璃ちゃん目を瞑って!!」

 また三嶋さんの声が車内に響く。お願いに反して目線が勝手に反応し、助手席側を見てしまう。

 三嶋さんの手には黄色味がかった紙の束が握られていた。それを蛞蝓の上部に押し当てた。

「おぉぉおうぅぅぅ!! おぉおううぅぅ!!」

 途端に押し当てたその箇所からグジュグジュと蛞蝓が沸騰し、打ち上げられた魚の様にのたうち回り始めた。

 元々腐敗していた皮膚が煮立って、崩れる肉から自らへし折った骨が見え隠れし、その骨さえも黒ずんだ液体に変化してついには蒸発していく。どんどんその範囲は広がり、私を掴んでいた手もその余波に巻き込まれて親指を残し消え去ってしまった。

 蛞蝓も混乱しているのか、まだ私に喰らい付こうとする者と逃げようとする者がいるらしく、後退していくスピードが著しく遅い。

 「これ使って!」

 と、自由だった左手に紙の束が差し出される。この紙の束が何なのかは今はどうでもいい。大事なのはこれがこの化け物に効くという事実。私は乱暴にそれを掴み取り、勢いそのままに蛞蝓に叩きつけた。

「あああぁ・・・・・・!! あおおぉぉう!!」

 紙が触れれば触れる程に体積は着実に減っていく。中には振り払おうとこっちに向かってくるのもいるけれど、そのどれもがことごとく蒸発していく。最初から比べれば既に大きさは半分を切っており、右手を掴む力も段々と弱まってきていた。

 暫く押し当て続けていると見る影もない程の大きさにまで小さくなっていた。辛うじてウィンドウにしがみ付いている手も、軽く紙が触れるだけでその指を離して遠く消え去っていき、残った部分も後は私を掴んでいる部分だけになった。すると、ここで初めて「美味しそう」以外の言葉を発した。私にはそれが断末魔にも怨嗟にもあるいは・・・・・・。

 ・・・・・・車内には最早指の一本も残っておらず、蒸発した際に発生した腐臭のみが漂っていた。

 泥と血と腐肉の匂いが脳を揺さぶり、もういなくなったはずの指が重く犯した。匂いを感じられるのならば、まだ私は生きているという事。それが安堵していい事なのか私には分からなかった。生きる為に死臭を吸う。奇妙な事に、それが今私のすべき事の様に思えた。

「・・・・・・・・・・・・お・・・・・・う・・・・・・・・・・・・はぁ」

「・・・・・・朱璃ちゃん、手を出してくれる?」

 言われるがまま手を差し出す。ダッシュボードに簡単な救急キットが入っていたらしく、消毒の準備をしてくれていた。揺れる車内で上手くことティッシュに染み込ませられず、ドバドバ消毒液が出て滴り落ちている。用意周到なのは物凄く有り難いのだけれど、ただのアルコール消毒なんて効くのかだろうか・・・・・・はあ、帰りたい。

「痛っ」

 治療してくれている右手に針を刺す様な痛みが走る。かなり執念深く掴まれていたからだろうが、赤黒い血が手首をぐるっと一周等間隔に並んでいる。爪が刺さって肉が抉れてしまっているようだ。見ようによっては縛られていた跡にも見える。

「あっ、ごめん・・・・・・こんなつもりじゃなかったんだけど・・・・・・ごめんね、後手後手に回ってばっかり」

「いや、まあ・・・・・・頼る宛ても無いですし・・・・・・結果助けて貰えましたし」

 返答に超困るし、なんで三嶋さんが謝ってるの。違うじゃん、悪いのはあの蛞蝓であって三嶋さんじゃない。そう返してあげたい気持ちはあるのに、胸に突っかかるものがある。解明するのも面倒くさいし、話題を変える事にする。

「さっきのあれは一体何なんですか」

「あれは・・・・・・私も全部を把握出来てる訳じゃないんだけど・・・・・・さっき来た奴は手合烏合って呼んでる。あれは手だけだったけど、他にも足だけのもいれば頭だけのやつもいるって聞いたことがある。見ての通り化け物の類で、山で遭難した人に襲いかかるってのが通説なの。そう・・・・・・通説を信じてこうなってしまった。きちんと目的地に向かっているはずなのに・・・・・・迷ってなんかないのに、現れた。イレギュラーな動きになった別の原因があるのか、それとも通説はただの通説だったのか。でも化け物である以上は、さっきみたいにそれが効きやすい」

 目線で紙の束を示す。

「それには不動明王から賜った真言のうち、慈救呪って呼ばれるものが書かれてる。塩とかお神酒とかで祓えないような、より凶悪な者を力尽くで救おうとする呪文なの。暗闇に落ちた者をそれでも救おうとする慈悲の心故に、不動明王が作られた言葉で、その他にも火界呪、一字呪って呼び名もある。長さによって違うだけなんだけどね」

「言葉って・・・・・・塩とかの方がよっぽど効きそうな感じがするんですけど」

「塩も効かなくもないけど、幽霊相手の方が相性はいいかな。多少清められる程度だけど。悪魔には聖書、化け物には真言、幽霊には光明真言、物の怪には尊勝陀羅尼、ジンにはコーラン。幽霊より自由度は高いとはいえ、彼らも独自のルールで動いてるから、そのルールを崩す力が言葉にはあるの。本当は書くよりもきちんと口にした方が効果が高くて」

「・・・・・・適材適所ってことでいいですか」

「まあ・・・・・・そうだね。今説明したところで何にもならないし」

 そんなに話したかったのなら聞いてあげてもいいんだけど、あからさまにがっかりしている顔を見て、聞く気も失せた。聞いたのは私だとしても、やっぱりどこかおかしいと思う。だってついさっきまで私襲われてたんだよ? 普通に怪我もしてるし、なんならこの後更に襲われる予定。だから予習が必要なのは理解出来るとしても、がっかりってどういう心情なの?

「二人とも、もうすぐ着くよ」

 父も父だ。大丈夫とか掛けられる言葉はいくらでもあるはずなのに、振り向きもしなければ一言も喋らなかった。そういえばこの妖怪も何も喋っていない。父は一体何を考えているのだろう・・・・・・

 敷地内に入るまでの数分の間車内には謎の沈黙が漂い、私は右手に雑に巻かれた包帯を見ながら、この地から帰れない可能性を考えていた。

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