第4話-1 【腐った肉と骨の味】

 私は山の頂上にいて、見渡す限り一面の森。山の頂上には一際大きな岩が鎮座してて、私はその上に座って遠くをじっと眺めてる。眺めているうちに段々景色が霞んで輪郭がぼやけていき、地平線の方から次第に空の青と森の緑が混じって、群青とも柚葉色ともとれる深めの色が私に向かって押し寄せてくる。その波に触れた箇所から森が上下にうねり始め色も黒に変わっていき、変わった箇所からは低い地鳴りの様な音が響いてくる。全てがうねって漆黒に染まり私の元まで地鳴りが来た瞬間、音が鳴り止んで黒と青と静寂が世界を包み込んだ。

 暫くの間遠くを眺めてから、どこまでも深く続く黒い森の海を見下ろす。その淀みない黒は、一切光の届かない深海を地上まで持って来たみたいだった。ふと、例えば小石か何かを投げ入れたい気持ちにかられて、周りを探してみる。右、左、右。そして左向きに後ろを振り返ろうとした時、誰かに背中を押されて小石の代わりに私が落ちていく。その誰かの顔はよく見えなかったけれど、多分笑っていたと思う。「やあよく来たね」とか「おかえり」とかを言う時に浮かべる笑顔。段々と遠ざかって行く誰かは、私の体がとぷんと音を立てて海に呑み込まれる前に、岩の上から姿を消していた。

 私はどんどん落ちていく。あるはずの地面は何処にも無くて、そのままの勢いでただ落下する。前後左右何処を見ても真っ暗で何も見えない。でも不思議と恐怖心は無い。寧ろ安心してこのまま寝てしまいそうなくらい。

 どこからともなく小さな鼓動が聞こえる。耳を澄ますと音は私の下、落下する方から鳴っているらしい。このままいこう。心地良い暗闇に包まれていれば何も怖くない。足を抱えて、私はゆっくりと目を閉じてーーーー


「来ちゃだめ」


 思わず目を開けるとそこに暗闇はなく、不規則に揺れる灰色の壁に変わっていた。

 壁が揺れると一拍遅れて私の身体も上下に揺れる。機械が駆動する音と小石が跳ねる小さい音が、断続的に響いていて頭がガンガンする。狭い、首が痛い、気持ち悪い。一際大きく揺れた拍子に私の体が宙に浮き、高反発の床に叩きつけられてウッと呻き声が漏れる。

「朱璃ちゃん!? 良かった、どこか痛い所は無い? 起きなくていいからじっとしてて。もうすぐ着くから」

 前の座席から黒髪の女の人が心配そうに顔を覗かせる。この人誰だったっけ・・・・・・着くってどこに? 起きなくていいからって言われても横になったままなのもきついし、このままだと絶対吐く自信があるから起き上がらせて頂きますけども。胃の中が空っぽだから嗚咽だけしか出ないか、それはそれでしんどいんだけどね。外の景色でも見ればましになるだろうと、座席の肩を掴んで老人張りの遅さで起き上がる。

 さっきまで建物の中にいたはずなんだけど、窓の外は木、草、岩だらけ。頭上を埋め尽くす杉や檜、背丈よりも高いアワダチソウ。もののけ姫にでも出て来そうな巨大な石灰岩の塊。どこまで続いているか確かめようのない洞窟の数々。

 物理的にも揺れる頭でバラバラになった記憶の回路を一本ずつ繋ぎ合わせていく。延々と続く吐き気と頭痛に違う回路を繋げてしまって、前頭葉あたりから爆発しそう。話によれば記憶喪失の人が突然記憶を取り戻した時、火花が散るとか小規模な爆発が起きた様な衝撃を感じるらしいけど、成る程確かに頭の中でパチンパチンと音がする。

 空港、蒸し暑い空気、吐き気、黒、衝撃、おもちゃ・・・・・・化け物。溢れ出す血。うん、全部思い出せる。

 父さんが死んだのは私の妄想の世界であって、実際には目の前で車を運転している。むせ返る血の臭いも皮膚の焼く炎の熱も、生温かく不快で肉体から零れ落ちる百グラムにも満たない何かも、全て私の頭の中で起きた事。なのに

「・・・・・・二人は何ともないの? 気分が悪いとか怪我とか・・・・・・く、首が痛いとか。頭がおかしくなったと思うかもしれないけど、二人が死んだ夢を見てて・・・・・・夢だって分かってる、分かってるんだけど、その感覚が全身にこびり付いて取れないの。お父さんも13日の金曜日見た事あるでしょ? あんなゴア表現なんか只の演出だって思ってた。でも目の前で父さんと三嶋さんの首が・・・・・・首が落ちて嘘みたいに血が噴き出してた。床だけじゃない、机も壁もそこら中が血だらけで・・・・・・そのすぐ隣でおじさんが燃えてた。髪の毛がチリチリ燃える音も臭いも全部、全部・・・・・・」

「朱璃、大丈夫。夢は只の夢。僕達は無事だから」

 運転したままの父が優しく慰める。

「怖かったよな・・・・・・そんなの見させられて。守るって言っておきながらこんな有様で本当に自分が情けないよ。ごめんな」

 少し低めのトーンに声色を変え、続けて

「何年も前に鎮めたはずなのに、まだ残滓があったなんて・・・・・・あの人形達が反応したのも、苛撫吏が近くに来ているせいと見てまず間違いない。何となく気付いてるとは思うけど、あそこにあった物の殆どが所謂曰く付きでね。その蒐集がおばあちゃんが始めた仕事なんだ。アメリカのウォーレン夫妻をイメージして貰うと早いかな。依頼があれば国内外問わず現地に赴くし、おばあちゃんに直接持って来る人もいる。その中の一つに、九州のとある民家から見つかった人形がある。その民家は一九九八年に全焼して、焼け跡から四人の遺体が見つかり、どの遺体が誰の物か分からない程激しく損傷していたらしい。けど、そこに住んでいる家族は三十代の夫婦と六歳の女の子の三人しか住んでいなかったんだ。内一つは放火した犯人の物。捜査しなくても犯人の遺体がどれかなんて一目瞭然だった。理由は」

「ベッドに手錠で繋がれてたから・・・・・・菊池市一家殺人放火事件だよね?」

「そう。まだ年中組くらいだったと思うんだけど、よく覚えてたね」

 一九九八年四月、熊本県菊池市にある木造三十四年の民家から出火。共に焼死した犯人が灯油を撒き、生きたまま夫婦と子供を焼き殺した事件があった。菊池市一家殺人放火事件。被害者と犯人は古くからの友人で、小学校入学を控えた娘を祝う為の食事会に呼ばれるも、被害者を改造したスタンガンで気絶させた後寝室のベッドに拘束し、意識が戻るのを待って放火したと見られている。直接その光景を目撃した者はいないが、近隣の住民が聞いた叫び声と火の手、それに溶けたスタンガンが遺留品として発見された為そう判断された。犯人の動機についても定かでは無いが、痴情の縺れではないかと言われている。

 そんな中で唯一焼け残った為に事件の象徴として取り上げられていたのが、おもちゃ屋敷に飾られていた熊のぬいぐるみである。偶然かそれとも燃えた後に誰かが置いたのか、女の子の腕の中に収まっていた・・・・・・当時特集が組まれて検証までされていたが、結局謎のまま事件は世間の人々から忘れ去られていった。その後は確か叔母だったかの手に渡ったらしいけど・・・・・・

「なんとなく印象に残ってただけだよ。でも曰く付きだからってさ、幻を見せるなんて理屈が分からないんだけど。普通に人って死ぬじゃん。事件に巻き込まれるとかじゃなくても病気とか老衰とか、理由はどうあれいずれ死ぬでしょ? ならそこら中幽霊だらけになっててもおかしくなくない?」

「ああ、んん・・・・・・そうだな、三嶋さんから説明して貰った方が朱璃も理解し易いか。よろしくお願いします」

「それ私に投げてるだけでしょ。まあ良いや、着くまでの間にチャチャっと基礎だけね」

 継君説明下手だし、と言って笑う三嶋さんの横顔が誰かに似ている気がしたけど、よく思い出せなかった。

「世界には今ざっくり七十億人。一秒に五人が産まれて二人が死んでる。人類史が始まってからだと約千億人がこの地球上で生命の連鎖を繰り返してる訳ね。これも何年か前の論文だから今はもうちょっと増えてるだろうけど、それは一旦置いといて。じゃあその千億もの人が霊魂になってそこら中をうろついているのかって疑問だけど、それは無いと言い切っていい。っていうのも夢も希望も救いも無い話で、人が死んだら魂は天使に導かれて神の御許に行ったりせず、殆どはその場に残って何日かかけて朽ちていくようになってるの」

「それは・・・・・・魂はあるけど天国も地獄も行けないって事ですか?」

「うん、私はこれまでに行った魂を見た事がないかな。誰しも悪い行いをすれば地獄に、善い行いをすれば天国に行けるって信じてるし、悪魔なんてまさに地獄の使者な訳だから、地獄から這い出て私達を拐かすって思うよね。実際には消える前の魂を回収して自分の栄養分にしてるだけ。要は自然の循環の一部なの。3Rで言えばリユースかな。神様仏様も同様に養分にしてはいるけど、大きな違いは死ぬまでに苦痛をもたらすか、安楽をもたらすかどうか。その他の容姿とか手段の差異はあって無いようなもので、根本的な事を言えば神様も悪魔も一緒なのよ。ただ、この事を世間に公表した所で信じてもらえる訳がないし、混乱しか招かないからどの書物にも書かれなかったっていうのが現実の話」

「・・・・・・じゃあ人間なんてその内勝手に死ぬんだし、呪いとか救済とかしなくても特に困らないと思うんですけど」

「ううん」

 わざとらしくゆっくり振り向くと、私の目を見つめて言った。

「魂ってね、震えるの」

「震える・・・・・・?」

「そう。喜びを噛み締め、怒りに飲まれ、悲しみに暮れ、楽しさを味わう時、人の魂はより激しく震えだす。熟した果実は落ちる寸前が美味しいのと同じ様に、蝋燭が燃え尽きる最後の一瞬が煌めくように。震える魂は彼らにとっての最高のご馳走で、彼らの存在を引き延ばす為のエネルギーになる。私がこれまでに出くわした化け物は皆、嬉々として希望を絶望に変えてその甘い蜜を吸い取る事で生き永らえてきた。それが人間よりも上位の存在が、私達をどうにかしようとする理由」

 人類史が始まって以来、無数の宗教が生まれては消え変化してきた。キリスト教もイスラム教も仏教も、その大元になったゾロアスター教も宗派どころか祭神だって変わってる。はたまた、世の中には邪教と呼ばれる宗教もいくつか存在するらしく、時代の価値観に合わない事が主な原因だけど、ちょっと口には出せないものもあるって社会の江村先生が言ってた。

「人類史は言い換えれば、宗教の歴史でもあります。天国への切符を求め、あるいは自分とは異なる者を悪魔だと決めつけて、人の道を外れた行為を平気でしてしまうのが人間です。中世における魔女狩りなんかがそうですね。テロもその一つでしょう。また、仏教では天国ではなく極楽と言いますが、現代では倫理観の問題で禁止されている即身仏を推奨する宗派もありました。生きたままミイラになるという、仏教の中でも他の追随を許さない究極の修行ですね。自分を犠牲に他を極楽へと導くのです。方法は様々ありますが、どの宗教も善や悪、天国と地獄がありその他にも驚くべき教義のものがいくつも存在しますが、授業では教えられないので気になる人は調べるか授業の後、私の所まで来てください。さて、修行と言えば皆さんも普段から勉強と言う名の大変な修行をしているかと思いますが、やはり自分を見つめ直してより高みを目指していかなければなりませんね。では今から抜き打ちでテストをします」

 健康センターでの一件がなければ、話を聞いてないクラスメイトと同じ反応だったかもしれない。「オテヌキ様のお導きによって」だったっけ。どっかの田舎から出て来た姉妹とふざけたくそサイコ信者どもも、確かに善悪と天国地獄を解説してたし、大小関係無しに天国なり地獄を信じてるのは間違いないみたい。

 もしあいつらが死んだ後どこにも行けずに、ただ食べられるんだって知ったらどうなるんだろう。教団が解体されるのか、それとも地肉になるなら本望なのか・・・・・・あいつらなら喜んで後者の方になりそうな感じがする。新興宗教の中でもくそのあいつらはまだしも、既存の宗教じゃきっとそうはいかない。

 ここまで聞いた上で一つ疑問が浮かんだ。魂が消えるか食べられるかの二択なら、幽霊はどうやって生まれるのかということだ。だが、その答えは拍子抜けするくらい、至極簡単なものだった。

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