第3話-1 【始まりはいつも静けさと共に】

「ーーーー。ーーーー。」

目を閉じて、心地良い暗闇の中に

「朱璃、起きてー」

 閉じていた目を細く開ける。知らないおじさんが目の前にいる。これも夢か、よし、寝よう。

「こらこら、明らかに今目を開けただろ。父さんですよー、起きてくださーい」

 トウサン? お金が足りなくなって会社が隣の建物を倒しちゃうやつだっけ?

「物理的に建物を壊すんじゃない。とにかく起きて」

「・・・・・・何? 今何時?」

「朝の五時半」

「・・・・・・五時半!? は~・・・・・・ちょっと・・・・・・何でそんな時間に意味もなく起こされなきゃいけないの? しかも勝手に入ってくるとかどんだけ無神経なの?」

「あと一時間で家を出るから、荷物まとめとくように」

「なんて?」

「あと、一時間で、おうちを、出ます」

「は? 何? どういう事? そんないきなり言われてもさ、どこに行くの? 何で行くのかも教えてもらってないけど」

「そうだなあ・・・・・・黙ってついて来てくれたら」

 そう言って後ろ手に持っていた物を私の目の前に差し出す。水色で洋形長の封筒? 封筒には黒い丸に、それより少し小さな黒い丸が二つくっ付いているマーク。私の重く錆び付いている頭が、ギイギイ音を立てながら急速に回転を始める。震える手で封筒を受け取って、溢れ出そうな生唾をゴクンと飲み込んで。入っていたのは一枚の紙。書かれているのは「二パーク年間パスポート引換券」の文字・・・・・・年間パスポート!? 

「えっえっえっえっ、嘘嘘嘘!!」

 ディズニーランドとシーの年パスじゃん! 十万くらいするのに、一体全体どんな心境の変化があったらそんな高価なものを・・・・・・。日頃の感謝とか? ご機嫌取り? 思春期の娘を持つ親は大変だなあ。なんてその他自分に都合の良い理屈をあれこれ考えているうちに、私の手からサッと券が奪い取られてしまった。

「ええー! くれるんじゃなかったの!?」

「誰もやるとは一言も言ってない。黙ってついて来たらって言ったんだ。誕生日でも無いのにそんなひょいひょい渡す筈がないだろ」

「いやでも急について来いって言われてもさ・・・・・・大体どこ行くの? 行かないって言ったらどうするの」

「その時は俺が使う、プリンセスに会って来る」

 プリンセスに囲まれてニヤニヤしている父を想像してみる。結構気持ち悪いなぁ。喋ると面倒だから鼻で笑うだけにしておこう。

 ジト目で睨んでるのは一旦放っておくとして、私をどこに連れて行って、そして何をさせる気なんだろうか。そういう時は往々にして労働を強いられるか、何か悪い事態のどちらかだと思う。しかもこんな朝早くに起こして連れて行こうって話だから相当なものに違いない。私の勘では気絶しちゃったが昨日で、しかも学校を休ませてまで連れて行くんだから、労働では無い。となると残るは良くない事になる。

 良くない事か・・・・・・私の体調かな。一ヶ月前にCTだったかMRIだったかをとったけど、その時は異常は無いって診断だった。実はそれが嘘で、父さんか医師が神妙な顔で「落ち着いて聞いて欲しいことがある。君の余命はあと半年しかないんだ」なんて伝える為に病院に行くのかもしれない。うん、その可能性は結構高そうだ。体感ではあるけど、私の体調は年々悪くなってってる。昨日みたいに気絶まではいかなくても、起き上がれなくなる日が増えてきたのは事実だ。

 しかし本当に余命幾ばくも無いとしてこんな風な伝え方をするかな。

「ねえ、それって良いこと? 悪いこと?」

 数秒の沈黙があって

「それは・・・・・・とても難しい質問だな・・・・・・捉えようによっては良いことだけど、悪い側面もある。いや何も言葉遊びをしようってわけじゃ無いんだけどね。現地に行かないと説明出来ない部分が多すぎて。正直な所、知らないなら知らない方が良いって場合も多いにあるんだ。もしかしたらその方がかえって良い方向に転ぶかもしれない。朱璃にとって不都合な事もあるし。俺としても普通の学校生活を送ってもらえればそれだけで満足なんだ。普通に笑って遊んで誰かと恋をしたり、たまには泣いたり。ただーー」

 急に真面目な顔になっちゃって、こっちがちょっと怖気付くじゃんか。そして言い直す。

「ただ、一緒に行けばあらゆる意味で人生が変わる、それこそ良くも悪くもね。本当は巻き込みたくなかったし、こんな卑怯な物言いなんかしたくは無かったんだけれど、もう、あまり時間が無くて」

 こういう、回りくどくて、なんだか少し他人行儀で、限りなく薄いガラスを触るような、そういう態度。決まって大事な話なんだけど、私がそれに気付いてからというもの、どこと無くーー遠い。

「分かった」

 いやいや、誘ったのはそっちなのにそんな目を見開かなくても。

「行けばいいんでしょ。なんかよく知らないけど、私にとって大事なことなんでしょ?」

「そうだね・・・・・・とっても、大事なことだ」


 父は嬉しいとも悲しいともつかない曖昧な顔で、私の部屋を出て行った。


 今朝、強制的に五時半に起床させられてから本当に一時間で家を留守にした。なんか逃避行みたいでちょっと楽しんでる自分がいるのは分かって欲しい。逃避行に親が付いてきてたら意味ないけど。なんだよ、親同伴の逃避行って。何から逃げてるんだそれは。とにかく、学校を休んで知らない土地に行くっていうのは結構ウキウキする。みんなが机に向かって一生懸命シャーペンを動かしてる間、私は島根に向かう飛行機の中にいた。


 自宅のある吉祥寺を出発してから井の頭通りを通って首都高に入る。新宿に行くのかと思ったけど、新国立競技場付近で右折してそのまま道なりに真っ直ぐ進んでる。渋谷目黒、もうすぐで新馬場。止まりそうな気配は一向に無い。このまま進むとあるのは

「羽田? これ羽田に向かってるよね?」

「そうだ、島根に行く」

「・・・・・・島根?」

「そう、島根県。美味しいものが沢山あるんだ、出雲そばとか」

「へー」

 蕎麦の情報はありがたく受け流すとして、島根か。わざわざ飛行機で一時間かけて島根にねえ。

「まああまり興味ないか。そんな渋いもの好んで食べないよな、ごめんな」

 ・・・・・・そういう顔で不必要に謝らないでよ。

 それから搭乗するまでの二時間の間私とろくに会話せず、父は会社とか学校とかそんな所だろうと思うけど、何本か電話に向かってペコペコしていた。ああいうの見ると大人になりたくないなって思う。

 家を出てからずっと眉間に皺寄せちゃってさ、こっちの方が気が滅入っちゃうよほんと。ロビーで待ってる間も一言も喋らないし、声掛けたら声掛けたで「ああ、うん」とか返事も素っ気無い。普段の明るさは何処にやったんだか。

 搭乗してからも凄く事務的な会話が二、三回あっただけで、私は窓側を、父は廊下側を見つめてだんまりを決め込んでいた。酔い止めを飲み忘れてかなりグロッキーになっていたから、ある意味ありがたかった。

 窓の外を流れる雲は物凄く厚くて、きっとこの下では梅雨独特のジメッとした雨が降り続いてる。そんな様子なんか一切見せずに、飛び乗って欲しそうに浮かんでる。確かドラえもんに雲を固めて何でも作れる秘密道具があって、幼稚園のころあれが欲しくて父に泣きついてたっけ。自分だけの秘密基地を作ってそこに住む、子供の笑っちゃう夢をあの頃は本気で信じてた。


 飛行機に揺られること一時間、機内アナウンスが流れ無事に出雲縁結び空港に到着した。ふらふらになりながら発着口を降り、父の後ろをゾンビの如く付いていく。走るゾンビじゃなくてゆっくり歩いてくる古めかしい方のゾンビって感じ。頭痛に腹痛と吐き気のトリプルパンチに苦悶の声を漏らすと、余計にゾンビらしさが増す。ただし襲う際には、自分の腹の中の物を口から吐き出すっていう斬新な攻撃方法を取るだろうけどね。


 トイレに駆け込むより外の空気を吸った方が楽になるかなと、安易にタクシー乗り場まで付いていったのは明らかに間違いだった。

 梅雨は冗談でした! 今日から夏、これからどんどん暑くなっていこうぜ! って気合い入れてる太陽が容赦なく照りつけてきやがる。飛行機から見た雲は何処へやら。いや本当とにかく暑い、暑すぎる。昼前なのにこの気温。今年の夏は去年を越す勢いで最高気温を更新しまくっていると、昨日見たテレビで報道していた。去年の夏はあまりの暑さに寝ている間に脱水症状を起こして亡くなった人が老若男女問わず出ていたし、冷感スイーツを露店で販売しそれに行列が出来てしまい日射病に罹る人が続出。結果、緊急搬送されるという何とも本末転倒な事態も全国各地で起きていた。私はそもそも並ぶのが嫌いだし、かなりのインドア派なお陰もあって特に救急車にお世話にはならなかった。むしろ冷房病に罹って頭痛を引き起こしてしまう様なのがこの私。その私がこの炎天下に出ている。それはもう地獄の炎にでも焼かれている気分を味わっており、三〇秒を待たずして日陰に引っ込んだ。吸血鬼って大変だなと要らぬ同情をしてキンキンに冷えたベンチに横たわる。タクシーを待つのは父に任せて、数少ない友人である美津樹にラインで昨日の礼と到着の報告をする。

「おはよう、昨日は保健室までありがとう。島根に着いたよ」

 古文担当の中原の授業を受けてる(多分寝てる)から気づくのはきっと昼休み。さぞかし驚くだろうな、気絶した奴が学校休んで島根にいるなんて知ったら。

 トゥルン、と短く着信が鳴る。バナーには美津樹の名前。あいつ授業中のくせによく返信する暇があったな。

「は?どゆこと?」

「父さんと島根の空港にいる」

「何でわざわざそんな田舎に?」

「理由聞いても全然教えてくれないって言うか聞かずについて来てくれって言われて」

「全然意味わかんないねそれ。昨日気絶した癖にそれを口実に旅行行くなんてほんと不可解な親子。前にもそんな事あったよね」

「あったっけ?」

「ほら小五の冬くらいにさ、図工の授業中倒れた事あったじゃん」

「ああ、いじめてたあの時期ねはいはい」

「ごめんて」

「(ウサギが切れてるスタンプ)」

「とにかくほら、その後何日か学校来なかったでしょ。あの時どっか行ってたって」

「そうだっけ? 多分病院だと思うよ、よく行ってたし。今回もなんかその気絶に関係してるっぽいけどそれも教えてくれないんだよね。悪い事には違いないんだろうけど」

「ほんと体弱いんだから、死んだら灰は東京湾で良かったっけ」

「良くない良くない。でも代わりに年パス貰っちゃった」

「年パス? 何の?」

「ディズニーランドとシーの年パス」


 ・・・・・・あれ?既読が付いたのに返信が無い。ドヤ顔をしているウサギのスタンプを送りつける。今度は既読が付かない。まだ授業中だしもうすぐ昼休みになるから、もう少ししたら返信してくれるかな。携帯をスリープにしてから、ベンチにへたり込んでぼやっと乗り場の方を見る。父はまだ外でタクシーを待っている。こんな炎天下で一台も停まってないとか不運過ぎる。結局美津樹からの返信は夕方まで来ず、理由を聞くと年パスのくだりで声を出してしまって先生に呼び出されてしまったらしい。流石に驚くよね、誕生日プレゼントだとしてもなかなか高い買い物だし、私が美津樹の立場でも絶対驚く。まあ私は声を出すなんて真似絶対にしないけど。

 体感で十五分くらい経ったかなという頃、ミントカラーのラパンが入ってきた。ラパンは私の中で結構評価が高くて、特に今目の前にある何とかミントって色が可愛いと思う。私も免許を取ったらあんな感じの車に乗って、毎週末はどこか観光地に出掛けて美味しい物を沢山食べたい。美味しい物か・・・・・・出雲蕎麦ってどんなんだろ。あ、だめだ、まだ食べ物のこと考えちゃ。胃液が出てくる、盛大に。

 薬を無理やり水で流し込んで、鳩尾か肺の付近に意識を集中させ戻さないよう格闘する内に、いつの間にか父の目の前にさっきのラパンが止まっていた。人を呼んでるんだったら先に教えてくれればいいのに。まあいいか、呼ばれるまでここで待っていよう。

 運転席のドアが開いて、真っ黒な髪がルーフ越しに現れた。髪の長さはボブ、身長は大体百六十センチくらい。後方を確認しているのか髪が左右に揺れて、陽の光を反射してキラキラと光った。

 真っ黒なノースリーブのワンピース、柄までは分からないけど腰から裾までカラフルで大きなスリットが入っている。履いているのも真っ黒なブーツ。日焼けを一切していないのか、太陽を反射して肌は更に白い。

 ゆったりとした足取りで父に近づいて行く。挨拶、にしてはにこやかな表情じゃなくて照れでもない。昔の恋人だったりして。まあ父の表情はこっちからは見えないから、完全に想像だけど。お? 右手で左肘付近を持って俯いてる。ちょっと頰が緩んでる所から察するに、父があの女性を「相変わらず綺麗だね」とか褒めたんだろう。

 話が展開して私を紹介したのか、その女性はしきりに私の様子を伺っている。ここは気付かないフリをして、宙空に焦点を合わせておこうかな。純粋に体調も悪いし会釈するのも割としんどいし。視線が外れたので二人の観察を再開する。

「え? 何で泣いてるのあの人」

 視線を戻したら女性が泣いていた。汗かと思ったけど目尻をハンカチで抑えて口を一文字に閉じているから、やっぱり泣いているみたいだった。おいおい、何泣かせてるんだよ、しかも何するでもなく淡々と話してるし。女性が口パクだけど「そうだね」って言ったのは分かった。一体あの二人はどういう関係性なんだ。

 父が自動ドアに向かってくるから話がひと段落ついたらしい。てことはここから動かなきゃいけないな。

 自動ドアが開いて湿気を帯びた熱風が入り込んで、冷たいロビー内の空気をかき混ぜる。

「朱璃、知り合いが迎えに来てくれてる。動けそうか?」

「ぼちぼちかな、朝ごはん食べてたら多分アウトだった」

 軽く息を吐いて吸いながら体を起こす。

「あの人とはどういう関係なの? なんか泣かせたみたいだけど」

「なんだ見てたのか」

 そりゃここに座ってればどう足掻いたって視界に入るでしょうよ。

「父さんも泣かせるつもりじゃなかったんだけど、昔に色々あってね。まあ、古い友人ってとこかな。これからご飯でも食べに行こうかって話になったんだけど、食べられそうか?」

「多分食べないけどいいよ、別にどこでも。飛行機乗ってた時よりはましだから」

 外はさっき感じた通りの蒸し暑さで、どこか遠くから蝉の鳴く声が響いてる。雲一つ無い透き通った水色の空の下で佇む真っ黒な女性。色のコントラストも含めて絵になるなあ、映画のワンシーンみたい。

「朱璃、この人は友人の鳴海さん。詳しくは後で説明するけど父さんが中学の時に知り合って、それからちょくちょく仕事も手伝ってくれてる」

「三嶋鳴海です。手伝ってるのは継君の方なんだけどね。とにかく外は暑いしオススメの和食屋があるからそっちに移動しましょうか」

「あ、えっとはい、よろしくお願いします」

 私が慌ててお辞儀をすると、鳴海さんは一瞬目線を右下に向けてから私に優しく微笑んだ。

「今日はよろしくね朱璃ちゃん」

 三嶋さんから風に乗ってほのかに檜の香りがした。

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