第2話 【不調】

 天井だ。白地に散らしたワカメみたいな柄のどこにでもありそうな天井。そして私は幾度となくこの天井とご対面しているから、ここが保健室で、私はベッドにいるんだとすぐに分かった。

 五時限目、国語、担当は坂田。題材は森鴎外の高瀬舟、喜助という人物が出て来た辺りの一文について質問された時だった。

「えー、じゃあ榎野。喜助を見た羽田庄兵衛がどうして不思議に思ったか、本文から抜き出して答えて」

「はい」

 と返事して立ち上がった所までは覚えてる。右手で倒れない様に押さえながら椅子を後ろに引いて、教科書を持って立ち上がって。その瞬間頭上から「ズドン!!」と大きく鈍い音がしたと思ったら、目の前が真っ暗になって、次に目を開けたら保健室のベッドで横になっていた。

 ドアが開いているらしく話し声が聞こえる。多分保険医の柴先生だろう。横にいる男性の声は聞いたことがある・・・・・・。まあそれが誰であれ、とりあえず起きたって伝えなきゃ。

 「痛っ・・・・・・」

 起き上がろうとして持ち上げた頭が妙にズキズキする。恐る恐る触ってみると包帯とガーゼがしてあった。気を失ったのは間違いないとして、その時にぶつけたのだろうか。なんだかお尻の方もズキズキする。触るのは勿論、少し動かすだけで痛みが走るくらいだから、机の角とか頭から床にとかそういう感じでぶつけたんじゃないかと思う。まあこれも聞いてみれば分かる事か。

 常にある鈍痛と意地悪くやって来る突き刺す痛みに耐えつつ、ゆっくりベッドから起き上がる。保健室の大きな鏡に写る自分が、笑えるくらい病人らしい動きをしてる。笑ったら笑ったで、待ってましたとばかりに痛みが襲って来るから笑えないけれども。代わる代わる何かを支えにしてのそのそとゆっくり立ち上がり、深く息を吐く。

 昔から体は弱い。それについては自信がある。いや、別に褒められた事ではないけれども、とにかく普通の人よりは断然弱い。二キロメートル以上の持久走は完走した事がないし、典型的なカナヅチ。学校でも市民プールでも海でも、漏れなく誰かに助けられた経験あり。そして生理は激重。かつ子宮内膜症という病気で、これがまた本当死ぬ程痛い。いやもう痛いなんてものじゃない、マジで痛みで気絶するレベル。去年は救急車が呼ばれた。病院に行くまではなかったけれども、その日は死んだ様に保健室のベッドで寝ていたし、起き上がろうものなら包丁でブッ刺された様な痛みが全身を突き抜けてった。ピルを飲み始めてからは少し良くなってはきたけれど、それでもまだ痛い。まあピルのおかげもあってか、スキンケアまで多少気にしなくてよくなったのは本当に良かった。そこまで気にしてたらもう子宮なんか取ってしまった方が楽なんじゃないかと思う。なりたくはないけれども、ある意味で男子が羨ましい。むしろ妬ましい。何の気苦労も無く、ただただバカやってれば生きていけるんだから。

 そういえば、小六の時だったか男子をぶん殴った事があった。長い話なので一旦端折るけれど、初潮を迎えたクラスメイトが「生理菌」とかふざけたあだ名を付けられて、ムカついてボコボコにした、みたいな感じ。

 良くも悪くも私の人生に大きく関わる事件だった。誰しも理解は出来なくても考える事くらい出来るだろうに、何も考えてない生き物なんだなと心底がっかりした。その場で思いついていれば股間を蹴り上げた所だったのに。惜しかった。

 今思えば年齢の面は大きかったし分かってくれる、分かろうとしてくれる奴も中にはいる。勿論、生理がある側でも認識の齟齬は大いにあるから、性別のせいだけじゃない。

 まあとにかく結論として言いたいのは、そんな私の身体の弱さと今日倒れたのは一切関係が無さそうだって事。普通に考えたら立ちくらみとか貧血とかかなと思うけど、何というか、感覚的にそうじゃなさそうな気がする。こんな不確定要素満載で違うなんて言い切れないけど、本能的な部分がそう言ってる、と思う。

 やっとの思いで保健室のドアまで辿り着く。厚手の緑のカーテンを開けると、中庭から差し込む夕日のせいで二人の顔が丁度影になっていた。眩しさも暑さもほんと嫌い。まだ八月にすら入ってないのが信じられない。

 多分柴先生に、目を細めながら起きた事を伝える。

「あ・・・・・・先生さっき起きました。私、どれくらい寝てたんですか?」

「起きたんだね。良かった。一時限分くらいかな、五分前に終わりのチャイムがなったとこ」

 この柔和な声。間違いなく柴先生だ。

「頭打ってちょっと切っちゃったみたいだけど、どう?まだ痛む?」

「動くとズキズキしますけど、我慢出来るくらいです。あの、ホームルームってどうしたら・・・・・・あれ?お父さ・・・・・・何で笑ってんの」

 眩しさに慣れて見えてきたのは、ニヤついた父の顔。いやいや、娘が倒れてたら普通もっと心配するでしょ。

「いやー学校での態度ってそんな感じなんだと思って」

 そういうのやめてくれないかな・・・・・・先生も笑ってるし恥ずかしいんだけど。

「先生、娘を診て頂いてありがとうございました。大事を取って、と言ってももうホームルームだけですが帰らせます。貴重な話もありがとうございました」

「いえ、もう少しこちらでもケアが出来れば良いんですけれど、お力になれずすいません」

「いえいえそんな・・・・・・」

 みたいな堂々巡りは、私が呆れて歩き出したのをきっかけに終了した。


「──急に倒れちゃったんだって?」

 帰り道、もう何度も聞いた全く同じ台詞。車内にはたまに聞くラジオドラマが流れてる。

「まあそんなとこ」

「頭痛く無いか?」

「・・・・・・今はそんなに」

「そうか、なら良かった」

 今日はいつもよりしつこいかな? 柴先生と何やら話してたみたいだったし、色々聞いてくるかもしれない。

 先に否定しておくと、別に父の事が嫌いな訳じゃない。思春期特有のあれだとでも思っていて欲しい。他の家庭よりはわりかしましだと思う。一緒に洗濯しないでとかお風呂は先が良いとか、そういう生理的嫌悪感は特に無い。ただ、最近やたらに体調を心配して難しい顔をしているのがちょっと面倒臭い。確かに今日みたいにぶっ倒れる日が無くもないし、私を大事にしてくれているのは重々伝わってる。でもそれとこれとは話が別、鬱陶しいものは鬱陶しいのだ。

「血が出てきてもヘラヘラしてたらしいけど、そんなに血が好きだったのか?サイコパスの家系じゃないはずなんだけどな」

「・・・・・・知らないよそんなの・・・・・・え、てか私笑ってたの?」

「なんだ覚えてないのか? 美津樹ちゃんが言ってたって柴先生がそう言ってたぞ。一応保健室まで美津樹ちゃんが付き添ってくれてたらしいけど」 

 私の記憶には無い。自分の血を見て笑い出すなんて、正気の沙汰じゃない。実は私には殺人鬼の素質があったのか、いやいやそんな馬鹿な。

「ぜんっぜん覚えてない。気絶する前後で記憶が抜けるとかそういうあれなんじゃない」

「ああ・・・・・・そういうやつかもな。なあ朱璃、学校いつまでだっけ?」

「今月の二十四日だけど?」

「そうか、二十四か・・・・・・」

「何で?」

「ああいや、何でもない。念の為明日から休むって学校には連絡しておくぞ」

「そりゃどーもー」

 そりゃ満員電車に揺られて学校になんか行きたくないし、気絶した翌日に動きたいなんて考えるのは、野球部の田辺くらいだろうな。あいつ、両足骨折した翌日に学校来て「俺! 野球がしたいんすよ! マジで人生賭けてるんで!」とか何とかはしゃいで車椅子から落ちてたし。それで額切って三針縫ったのにはもう先生も苦笑するしかなかった。あれが四月初旬とかだったっけ。先月予選があったんだったかな? ちゃんと田辺は出たんだろうか。田辺、良い奴だったな……。

 そんな懐かしい思い出を振り返っている暇があったら、父の言った言葉をもう少しちゃんと聞いておくべきだった。父は「明日は」じゃなくて「明日から」って言ったんだから。

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