生駒さん

久世 空気

第1話

 大学生の時に運送関係のアルバイトをしていました。そこに「生駒さん」と呼ばれるベテランのおじさんがいました。

 入ったばかりの時は名前かと思っていましたが、本名は全く違っていて驚きました。生駒さんは50歳くらいの社員でしたが、私たちアルバイトの教育係もしていて、とても面倒見が良く気さくで、皆、本名ではなく「生駒さん、生駒さん」と呼んで慕っていました。

 ある日、搬送と搬送の合間に時間があり、汗もかいていたこともあったので生駒さんが銭湯をおごってくれました。

 私が先に脱衣所から風呂場に入り、体を洗っていると生駒さんが後から入ってきました。

「こっちですよ」

 と振り返って声を掛けたとき、初めて生駒さんの体を見て、私は絶句しました。同性であろうが、他人の体をまじまじと見ることは失礼と分かっていましたが、目が離せなくなったのです。生駒さんはぶしつけな私の視線に苦笑いしていました。

「事故ですか?」

 と聞くと

「いや、自業自得だよ」

 とよく分からない返事がありました。

 それから気まずい沈黙の中、体中の汗を流し、湯船にゆったりと浸かり、一息ついたところで、生駒さんは「のぼせそうなら言いな」と前置きをして、ご自分の話をしてくれました。


 生駒さんは奈良のそこそこ良い家に生まれたそうです。家には家政婦さんが通っていて、父親の車は専属の運転手がいたとか。生駒さんも裕福さを享受して育ったものの、反抗期は当然迎え、父親の厳格さや、母親の愛情の深さ、姉の静粛さや、兄の勤勉さ、すべてが嫌になっていました。

 当時、生駒さんは12歳。

 ある日、学校の行事で、奈良公園の近くの寺社に遠足に行きました。奈良の歴史や建築について教えようとする教師にも、それを聞かずに鹿にさわりに行こうとする同級生にもいらついていた生駒さんは、一人、集団を抜け出し境内のあまり人がいない場所を探し、小さな社を見つけました。

 おそらく管理が行き届いているのでしょう。そんな社も気品があり美しく思えたそうです。生駒さんは一瞬そのたたずまいに見とれていました。しかしふと我に返り、名も知られていないような地味な社に惹かれた自分が恥ずかしくなりました。

 そこで生駒さんは、その社に石を投げ込みました。中の装飾も壊れたようでしたが、かまわず投石し、息が切れたところで満足して同級生達の元に戻ろうとしました。

 しかし、振り返ったところで誰かとぶつかり、生駒さんは尻餅をつきました。

 顔を上げると、立派な角を生やした鹿がいました。体は他の鹿より一回りも大きく、色も茶色と言うより黒に近く、それが生駒さんを見下ろしていたんです。

「ビィィィィィ」

 鹿の鳴き声が頭の中で響き、生駒さんは動けなくなりました。

 鹿は生駒さんの胸のあたりに前足を乗せました。そして腹に掛けて、蹄を押し当てひっかいてきたんです。服は裂け、ゴリゴリという骨の音と皮膚が破れ肉がむき出しになった痛みで生駒さんは絶叫しました。その声を聞いた教師が何か良いながら向かってきたのが分かりましたが、生駒さんは気を失いました。

「ビィィィィィ」

 その瞬間、鹿がもうひと鳴きしました。聞き慣れているはずのそれは、何故か嘲笑しているように聞こえたそうです。

 生駒さんが次に目を覚ますと、実家の居間に寝かされていました。両親も、兄弟も、遠くに住んでいる祖父母や従兄弟もいて、全員自分を囲って泣いていていたんです。

 生駒さんが起きたのに気付くと、父親は黙って生駒さんを車に乗せて出発しました。生駒さんが何を言っても、車に乗ることを抵抗しても、誰も助けてくれないし、鳴くだけで誰も一言も発しません。

 車の中で、生駒さんは甚平に着替えさせられていることに気付きました。胸元から体を見ると、鹿に引っかかれた場所はえぐられたように陥没していましたが、すっかり乾いて痛みはありませんでした。

 父親の車は生駒山を越えて、東大阪のある工場の前に止りました。生駒さんは始めてきた場所でしたが、名前は父親の口から何度か聞いたことがある会社でした。

 車から降ろされ、生駒さんはそのままそこの工場の社長夫婦の養子になりました。

 それきり父親には会っていないし、奈良の実家にも帰っていません。

 いや、帰れない、言った方が正しいかもしれません。

 生駒さんが大阪から奈良に入ろうとすると奈良の方向から強い視線を感じるそうです。さらに進もうとすると、蹄の傷跡がまるでヒルのように動き、体力を吸い取っていき、終いには気を失うほどの痛みを感じ、奈良にははいれないんだそうです。


 生駒山を越えられないから、生駒さん。

 そういう人間は実はちらほらいると生駒さんは教えてくれました。

「何をしたか知らないが、そういう人間はお互い見たら分かるよ。他に京都から奈良には入れない人は『平城山ならやまさん』なんて呼ばれたりしてる」

 脱衣所で服を着ながら、

「神様が怒ってるとか、そういうことでしょうか」

 と私は何となく呟きました。でも生駒さんは強い口調で否定しました。

「そういう生やさしいことじゃない。自分の行いで、神から、土地から、血縁から見捨てられたんだよ。もう、あちらに行けない、異物なんだ」

 生駒さんは悲しそうにTシャツの上から大きな蹄の傷を撫でた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生駒さん 久世 空気 @kuze-kuuki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ