6


 その朝、僕は初めて自分の意思で規則に反抗した。

 教師を殴ったことも謝らなかったことも自分が下した選択だったから、その結果がどうなっても従うつもりでいた。

 でも、本当は従う理由も意味も見出せていない。

 僕の目には、どこかの知らない人が僕に無許可で作った規則や規範が、どうにか僕を縛り付けようと手を尽くし、言葉を尽くし、僕が僕であることを違反だなんだと叫んで取り締まろうとしているだけに見えた。

 それでも僕はその規則や規範に従いたいと思っていた。

 今回もそうだ。誰もが幸福になるためなら、誰かを不幸にしないためなら、我慢も苦ではなかった。

 でもその前提が崩れてしまえば、僕の我慢に意味なんてない。

 自分の意思で、僕は初めて不良になった。

 つまり、学校へ向かったのだった。


 すでに授業が始まっている校内は相変わらず静かで、廊下を歩く影はひとつもない。なるべく足音を立てないように屋上へ向かっていると、階段を降りる足音が聞こえた。屋上に繋がるだけの最後の階段、この上はもう屋上だった。付近に教室はないから、生徒や教師でもないだろう。となると、足音の主は限られている。

 足音はゆっくりと、確実に、こちらへ近付いてくる。踊り場を凝視する。手すりにかかっている指が見えた。次の瞬間、見慣れた顔が僕を捉え、僕もその顔を捉えた。

 佐野、ではない。やつれた男の顔。先月僕が殴ったあの教師だった。

 どうしてここに、とお互いに思ったのだろう。共に目を丸くした数瞬の邂逅。先に正気を取り戻したのは、僕ではなかった。

「楠、お前どうしてここにいるんだ? 謹慎処分はまだ終わってないはずだろ?」

 一番見つかりたくない相手だった。踊り場の窓から差し込む光が影を作り、こちらを見下ろす教師の表情は分からない。暗闇が言葉を発しているようだった。

「答えろ、どうしてここにいる。もう停学じゃ済まないぞ?」

 水を得た魚のようにイキイキとした声音で、暗闇はこちらへにじり寄る。いや、そんなことはどうでもいい。

 どうしてこいつが屋上から?

 佐野は?

「あんた、屋上に何の用だ?」

「話を逸らすな」

「そもそも話す気がないんだ。そっちも話す気がないならそれでいい。そこを退け」

「お前、誰に向かって口を利いてんだ?」

「その言葉、そっくりそのまま返すよ。また恥かかせてやろうか?」

 暗闇は歯噛みしながら呪詛のような何かを呟いた。このまま張っ倒してでも屋上へ行こう。そう決めて一歩を踏み出した。暗闇が少し晴れた。

 教師は意外にも余裕そうな表情を浮かべていた。さらに近付く。眼前、息がかかる距離まで。目の奥にはようやく恐怖が浮かんでいた。何かを待っているのか、それとも——。

 瞬間、屋上のドアが開き、慌ただしい足音が聞こえた。

 教師はほっとしたような顔で上を見上げる。釣られて僕も見上げると、顔を上気させた佐野と目が合う。たった一ヶ月しか経っていないのに、随分久しぶりに顔を見た気がする。

 ようやくの再開だというのに、佐野は僕を睨め付けていた。

「なにしてんの、あんた」

「それはこっちが言いたいよ。佐野こそなにしてんの」

「なにって……」

 佐野の視線が一瞬だけ揺らぐ。揺らいだ視線の先を見逃さなかった。

 僕の隣、余裕を取り戻した様子の教師。

 まばたき一つ分の時間で充分だった。

 突き刺すように腕を伸ばし、教師の首を掴むとそのまま力任せに壁に叩きつけた。頭蓋骨が鉄にぶつかる鈍い音が辺りにこだまする。

 昨夜の佐野の電話。

 屋上に僕が来るのが日常だったと伝えた意味。

 水音とドアの音と足音。全てがリフレインする。全てこいつが元凶だった。

「楠やめて!」

 佐野がパタパタと駆け降りてくる。もう何も気にならない。ただ一つのことを除いて。

「あんた、なにをしたんだ?」

 逃げようともがく教師。

 さらに手に力を込め、もう一度壁に叩きつけた。

 観念する素振りも見せないまま教師は絶叫する。

「離せ! お前に説明する義理はない!」

「だから作ってんだろ、喋る理由を」

 教師は微かに身体を震わせた。

「お、お前は、何を言ってる……? 頭おかしんじゃないのか!」

「そうかもな。だからなおさら早く喋ったほうがいい」

 ノーモーションでがら空きの横腹に膝を蹴りこむ。

 あばらの真下めがけて飛び込んだ膝の皿が、教師の横隔膜にめり込む。

 教師の口からコヒュッと空気が漏れる。呼吸がままならない状況で教師は苦しそうに叫んだ。

「そんなの、俺じゃなくてそいつに聞けばいいだろ!」

 教師が僕の背後に視線を向ける。振り返ると、佐野が僕にしがみついていた。何かを叫びながら。

 佐野は僕を引きはがそうとしているらしかった。

 そこまで気付いて、佐野の声が意味を持ち始める。

「——ろ、やめろ! そんなことしたら、ホントに退学になっちゃう」

「やめた、やめたよ」佐野の言葉に従って首から手を離す。「ほら」

 教師はその場で咳き込みながら崩れ落ちた。

 四つん這いになりながら酸素を求めて口をパクパクさせている。

「なんで来ちゃったんだよ……」

 力なく僕の制服の裾を掴んだ佐野が言う。

「あんな風に電話を切られたら気になるよ」非難の意を込めて言う。「電話にも出ないし」

「そういうことじゃない」佐野は力なく頭を振る。「きみ、退学になるよ?」

「さっきから退学退学ってうるさいな、いったいそれは誰が決めるんだよ」

「……それは」

 ようやく酸素と冷静さを取り戻した教師がふらふらと立ち上がった。

「お前も、可哀そうな奴だよなぁ、楠」

 今さら気づいたのか。そう返した僕の言葉を無視して教師は続けた。

「その女、佐野な。もう汚れてるよ」教師は厭な笑みを浮かべる。「何度も、何度もな」

 指を差された佐野は、心臓を撫でられたようにビクンと跳ねる。

 断罪されるのを待つ咎人か、はたまた奴隷か、いずれにせよその目に浮かんでいるのは諦観で、佐野の中の何かは壊れているのかも知れなかった。

 想定していたものの、改めて口に出されると気分が悪くなる。それでも、一応聞いておくことにした。

「お前、自分が何をしたのか分かってんのか?」

「分かっているとも。だからなんだ?」あっけらかんとした顔で教師は言う。

「なんだ、って……捕まって仕事も失うってのに、ずいぶん余裕なんだな」

「捕まる? 仕事を失う? 何言ってんだお前」

「は……?」この男が何を言っているのか、理解ができなかった。

「それはその女がチクった場合の話だろ? お前に話したのは、お前の話なんてもう誰も信じないからだよ。警察や学校に告発したって、因縁のある教師を貶めるためにホラを吹いてるって誰もが思うからな」

「そうかもしれないけど、そもそも佐野がチクればお前は終わりだ」

 僕は佐野に向き直り、「佐野、行こう」と手を取った。

「……」

 彼女は下を向いたまま、その場から動かない。

「佐野……?」

 垂れ幕のような髪に隠れて佐野の表情は見えない。僕らが初めて屋上で出会った日を思い出す。

 佐野が動かず、何も言わない理由は分からなかったけれど、彼女がきゅっと握りこんだスカートの中に今なお色濃く残っているのだろう。

「ごめん、楠。今は言えない」佐野は震える声を絞り出して言った。

「そうだよなぁ。言えないよなぁ」

 教師は怯える佐野と戸惑う僕を見て、満足げに嗤う。

 佐野の手が小刻みに震えた。そっと包むように握ると、初雪が溶けるような速度で僕の体温が伝わっていく。

 震えが収まるまでそうしていたかったけれど、佐野はそれを拒んだ。

 手を解き、僕に向き直り、言う。

「楠、もう帰りなよ。大丈夫だから」

「……なにが?」

「もう全部、大丈夫だってこと。今日のことも昨日の電話も気にしなくていいから」

 意味が分からない。佐野は何を言っている?

 黙りこくる僕を見かねた佐野がぐいと背中を押した。

 力そのものは弱いのに、僕はそれに抗えない。

 僕の身体を押しながら、佐野は僕にしか聞こえない声量で唱える。

「そのまま聞いて」

「……わかった」

「今日ね、私の誕生日なんだ」

 あまりに唐突な告白だと思った。

「夜、学校に忍び込む。屋上で会おう」パーティーに誘うような口ぶりで言う。「鍵は開けておくから」

 だから、と佐野は続けた。

「一つだけ誕生日プレゼントをねだってもいい?」

「用意できるものなら、なんでも」

「ありがとう。私さ、花束が欲しい。それもたくさん」

 待ってるよ、と言い残して佐野は僕を押す力を弱めた。

 背中から手が離れる。

 振り返ると、佐野はもう背を向けて歩き出していた。

 彼女が彼女でいるためのものは、もうほとんど壊れてしまっていた。きっと僕も同じだ。

 小さく強い彼女の背中を見送りながら、きっと出会った頃の佐野にはもう会えないのだと、悟った。


 7


 街にはぽつぽつと明かりが灯り始めていた。僕はあれから花屋という花屋を巡り、用意できる限りの花束を手に街を徘徊している。夕暮れ時の街は帰りを急ぐ人でごった返していたけれど、大量の花束を持っているだけでみんなが道を開けてくれた。

 人間も捨てたものじゃない。そんなのは当たり前で、先に捨てられているのは僕の方だったと思い出したその時、目当てのお店に辿り着いた。ここが最後の一軒だった。

「あの、花束が欲しいんですけど」

「はいはい……あらま、お花屋さんかと思いましたよ」

 気の良さそうな初老の女性が朗らかに言う。

「ちょっと入用で。今からお願いできますか?」

「訳アリなのね。大丈夫、わざわざ花屋で花を買う男性なんてほとんどが訳アリなんだから」

 それから彼女は閉店間際にも関わらず、嫌な顔一つしないで僕を店内へ招き入れて注文を聞いた。と言っても僕は花のことなんて何も分からないから、ただ「綺麗な花束を」と注文するだけ。花の選別や包み方には言及せず、プロに丸投げした。

 女性が淹れてくれた温かいお茶を飲みながら、丸椅子に腰掛ける。丁寧に花束を作る所作はどこか官能的で、美しい。僕の視線に気づいた女性が微笑んだ。

「見たところ高校生ね。これから告白?」

「まさか……僕にそんな資格はありません。今だって自宅謹慎の期間中なんですから」

「あらら。悪い子なのねぇ」

「そうですよ。悪そうでしょう?」

 女性はくすくすと上品に笑った。

「とっても。花が霞むくらいにね。お相手は女性?」

「ええ、そのはずです」

「好きな色とか、花の指定とかってないのかしら?」

 そんな話を佐野としていたとしたら、僕と佐野はもうとっくに付き合っていたんじゃないだろうか。かぶりを振って否定の意を伝えると、女性は眉根に皺を寄せた。

「あなた、彼女のこと何も知らないのね」

「そうなんです。でも、彼女について知らなくちゃいけないことだけは全部知っています」

「いいわね、例えば?」

「明日世界が終わるとしたら、どうしたいですか?」

「なぞなぞ?」

「いえ、質問ですよ」

「そうね……」女性は少し考えて「このお店にある全ての花を店先で配りたいかな」と言った。

「その心は?」

「みんなが一本ずつ花を持っていたら、世界が終わる瞬間に無理やりにでも誰かに渡したくなるんじゃないかって。思いつく相手が近くにいない人だって、普段使うコンビニの店員さんとか、お隣さんとか。そうやってせめて少しでも孤独じゃないままお祭りに参加して欲しいなって……ちょっと恥ずかしい質問ね」

「素敵な答えですよ、本当に。彼女好みかも」きっと嘘だ。彼女は好まない。

「へぇ、彼女さんはなんて答えたの?」

「世界に花びらを降らせたい、って言ってました」

「そっちの方がロマンチックかも。ねぇ、どうでもいいことなんだけど一つだけ聞いてもいいかしら?」

「はい?」

「この花束って彼女さんからの注文?」

「そうですね」

「今日が誕生日とか?」

「……なんで分かったんですか?」

「簡単よ」女性は笑って「花屋なんて、誕生日か謝罪の時くらいにしか使われないものなの」と呟いた。ケーキ屋と一緒よ、と付け足して。

 女性は視線を花束に落とす。少しだけ迷ったあと、小ぶりな紫の花を一本だけ追加してから包み上げた。財布を出そうとする僕を制止して言う。

「これは私からのプレゼント。彼女のことあんまり待たせないでね」

 頑なにお代を受け取らないので、後日必ず渡しに来ますと約束をして店を出る。とうに閉店時間は過ぎているはずで、日が落ちた商店街は既にほとんどの店が閉まり、人通りも減ってがらんとしていた。

 振り返ると、女性は店の外に歩み出て僕に手を振っていた。両手が埋まっていて手を振り返せなかったので、首を傾けるだけのお辞儀を返す。そのまま大量の花束と一緒に、学校へ向かった。

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