2
3
校門を抜けると父が塀に背をもたれて煙草を吸っていた。校門の外で吸っているのは気遣いのつもりかもしれないけれど、いかんせん映りが悪い。高校の前というロケーションも悪い。通行人から投げられる無遠慮な視線が突き刺さりまくっている。
しかし当の本人はどこ吹く風で、僕を見つけると陽気に片手を上げた。携帯灰皿に吸殻を投げ込むと、横に停めている車を顎でしゃくる。
「たまには付き合えよ」
土下座をさせてしまった後ろめたさが僕を助手席へ衝き動かす。
走り出した車の中で大人しく窓を眺めていると、父がおもむろに口を開いた。
「お前なりにあるのか」
「え?」
「理由だよ」
理由。父の頭を下げさせてもいい、理由。
「ないよ」
車は海沿いの広い道を駆けていく。夏になれば海水浴に訪れる人でごった返すエリアで、まだ母親が生きていて僕が幼かった頃に一度だけ家族で来た記憶がある。
父は母が死んでから一度も女性と付き合っていないらしい。本当かどうかは知らないけれど。
「それじゃあ俺は何のために頭を下げたんだ」
「ホントだよ」僕は即答する。
「ばかやろう」と父は笑った。
「なぁ、別にいいんだ。お前が教師を殴ったって悪いとは思わない。むしろちゃんと勝ったことを誇れと言いたい」
「誇れないよ」
「そうだろうな、だけど誇ってほしい。そのためにはお前が何のために喧嘩をしたのかっていう理由が大切なんだ」
「分かるよ」
「ちなみにお父さん的高評価のヒントはな」
そこで一度言葉を切った父は運転しながら器用に煙草を手に持って火を着けた。
僕もそれにならって一服する。
「女のために殴ったってパターン。どうだ?」
吸った煙を全て吐き出す勢いで咳き込む。涙目で咳を続ける僕を見て、父は目を細めた。
ようやく肺の痛みが収まったところで、平静を装って言う。
「当たらずとも遠からずってとこかな」
「おぉ、マジか。お前にも春が来たんだなぁ」
来てないよ、と否定する声はなぜか父には届かない。
「そうだ、俺が母さんと出会ったのはな——」
「前見て、前!」
それからも父は嬉しそうに煙をくゆらせながらハンドルを握った。灰色にうねったそれは踊りながら空気をくすぐって霧散する。しばらくその煙を眺めていると、車は次第に減速していく。
気づけば、潮の香りが車内に吹き込んできていた。
父は近くのパーキングに車を停め、波打ち際を歩こうと提案した。提案すると同時に歩き出してしまった父を追うように、僕も小走りで近付く。
ほとんど南中している太陽の光は波に当たってめちゃくちゃな乱反射を繰り返し、潮風は少しの粘り気を身体に残して、容赦なく体温を奪っていった。
身震いさせつつ、ポケットに手を入れてただ歩いた。不意に眼前の父が言葉を投げる。
「どんな子だ、その子は」
「急だね」
波の音の合間を縫って僕らは会話を続けた。
「気になってな。お前が人を好きになるなんて完全に想定外だ」
「好きだなんて言ってない」ただ、と続ける。「これまで話した人間の中で一番まともだったんだ」
「ってことはその子はまともじゃないんだな」
父は嬉しそうに笑ってその場にしゃがんだ。
「そうだね、浮いてるらしい。彼女と会うのはいつも授業が始まった後の屋上だし」
隣り合ってしゃがむと、妙に気恥ずかしくなってくる。
停学になった日に父と海辺で語り合う。なんとベタなことか。
「その子のこと、何か言われたのか。あの教師に」
「言われたっちゃ言われたかな」
「それで怒って殴った、ってか?」
「先に手を出したのは向こうだよ。何度言っても通じなかったけど」
「あぁ、知ってる。でも殴らずに済ませることもできたはずだろ?」
飄々とした口調のまま、父はこちらを見ずにそう言った。
「耳が痛いよ」
「俺はな、お前のためになんて一ミリも頭を下げたくないんだよ。こんな憎たらしいガキのために、一ミリもな」
酷い言われようだと思った。直後、まぁそうだよな、と納得して黙った。
「だけどお前が守りたかった気持ち。お前が守りたい大切な人。そのためにならいくらでも頭を下げる。頭だけじゃない、なんでも差し出してやる」
それはいわゆる親子の甘えとは違うんだ、と父は続けた。
「それが親だ。分かるか?」
「分かる」
「だからこそお前が何を大切だと思ったか、それが重要なんだよ。お前は、いったい何が大切なんだ?」
タイセツ、たいせつ、大切。そもそも僕には大切という感覚が分からない気がした。
少し考えて、かろうじて思い当たったものを伝える。
「世界の終わりの日に、花びらを降らせたいって言う人がいたんだ。その人が見る花びらの色を守りたい」
「なんだそりゃ」父は呆れを隠そうともせずに言う。
「分からないならいいよ」分かりっこないことは分かっていた。
「ま、なんのこっちゃさっぱり分からないけど、悪くないな」
そう父が笑うので、釣られて僕も笑った。
ようやく車に戻る頃にはすっかり冷えて、もう指先の感覚はなくなっていた。
二人で温かい缶コーヒーを握りしめて、車の中から砂浜を見つめる。
僕も、父も、口には出さないけれど同じ人物を思い浮かべている気がした。
4
家に帰ると、父は仕事に戻ると言い残してそそくさと出ていった。自室でベッドに倒れ込むと、制服のポケットから何かが擦れる音がした。
手を差し込んで取り出したそれは、くしゃくしゃになった紙飛行機。
彼女が帰り際に投げて寄越したことを思い出して、丁寧に押し広げた。
A4の紙には「進路希望調査表」と大きくプリントされていて、記入欄にはミュージシャンやら遺跡探索者やら、相変わらず現実味のない単語が並んでいる。空欄だった第三希望に宗教家と書き足して、気付く。
佐野瑞希。
今日はなんて日なのだろう。彼女の上の名前だけでなく、下の名前も知ってしまった。
さの、みずき。口の中で小さく反芻した。綺麗な響きだった。
プリントを裏返すと、何やら小さく文字が書かれている。
『退学おめでとう。気が向いたら連絡して』
雑に書かれた文字の下には、さらに雑に書かれた十一桁の数列。佐野の携帯番号だった。
彼女のことだ、どうせもう学校には居ないだろうと高を括って電話をかけた。呼び出し音が重なるたび、少しずつ指先に力がこもっていくのを感じる。
『――もしもし?』
聞きなじみのある声が耳元で鳴る。
「明日世界が終わるとしたら、どうしたい?」
『間違い電話ですか?』
「いや、間違ってない。僕だよ」
『どなたです?』
「楠です」
名乗ってから気付く。女は僕の名前を知らないのだから意味がないんじゃないか。耳に当てたスマホから佐野の声は聞こえてこない。一秒過ぎるごとにじわじわと気まずさが満ちていくようだった。
「えっと、佐野さん?」
耐えきれずに僕が呼びかける。
『……ふふ』
「ふふ?」
『ふふふっ』
「何笑ってるんですか?」
『いやぁこうしてからかうのも悪くないなって』
無邪気に響く佐野の声を聞いた途端、ぱぁっと気まずさが晴れていく。これが僕からの電話であることも、僕の名前も、彼女は知っていたらしかった。
『それで、どうしたの?』
そういえば、なぜ電話をかけたんだろう。聞かれて初めて気付く。理由がどこにもないことに。
黙って考えている僕をどこかから見ているのか、お見通しだと言わんばかりに受話器越しの佐野は笑った。
『きみは色々とないものばかりだねぇ』
「だからこそあるものが光るんだ」
『詭弁で飯が食えそうだね』ため息混じりに佐野が言う。もしそうならどれだけ良いか。
「佐野は? 今何してたの」
『ブランコ』
「ブランコ?」半音声が上ずった。
『学校の近くに公園あるでしょ、あそこでブランコしてるの』
言われてみれば、佐野の声の狭間に風切り音が混じっている。
音の大きさからして、割と全力で漕いでいるようだ。
「俺が言えたことじゃないけど、学校はいいの?」
『いいでしょ。きみが退学になるような場所に価値はないよ』
そういうことを平然と言うのがどれほど罪深いことなのか、佐野は分かっていない。
自然と上がる口角を無理やりねじ伏せながら訂正する。
「それなんだけど、退学じゃないんだよ。停学なんだ」
『何が違うの? それ』
「んー」説明しようとして、あまりに無意味だと気付く。「違わないか」
『違わないよ』
それから、僕も佐野も何も言わなかった。無言を伝えるために電波を使っている、この時間が愛おしい。それでも結局、耐えられなくなったのは僕のほうだった。
「やっと屋上に日常が戻るね」
『確かに。新入りが居るせいでおちおちサボって昼寝もできなかった』
「それは悪うござんした」
『でも、それも初めの頃だけ。途中からはきみを気にせず寝てたしね』
「信頼と受け取っていいのかな、それは」
『もしくは試験かも』佐野は悪戯っぽい口調で言った。
「試験は苦手だ。一度も合格したことがない」
『……さて、どうだろうね』
それから僕らは時間を忘れて話し込んだ。
またね、と電話を切ったとき、太陽はとっくに高度を落として空を真っ赤に染め上げていた。
「もうこんな時間か」
帰ってきた格好のまま縋るように電話をしていたことに気付き、ようやく服を着替える。制服を脱ぎ捨てると、やけに身体が軽く感じた。
5
ただ怠惰な日々が続いた。いちおう自宅謹慎という扱いだったから、家から出ることもなく、ぼうっと漫画を読んだり動画を見たりして過ごした。
仮に謹慎でなくとも、外に出ることはなかっただろうけど。
それを伝えると佐野は『学校に通っているときと変わらないじゃん』と呆れていた。
結局、佐野とは毎日電話を続けた。どちらからともなく、暇なタイミングで電話をかけては「世界が終わるとしたらどうしたい?」と質問する。誰が見たって意味の分からない時間が今の僕にとって唯一の世界との接点だったというのに、寂しいとは微塵も思わない。僕にとっての世界は彼女だけで構成されていても問題ないらしかった。
人生は何もしないと長く、また何かを為すには短すぎるとはよく言ったもので、あれよあれよと言う間に時は過ぎた。無為に過ごす時間に転機が訪れたのは、二ヶ月の謹慎も折り返し地点を迎えようという五月のある日。
連休に浮足立つ世間を煽るように雨が降り続き、関係ない僕でさえ横たわっているだけで背中にカビが生えてしまうほど憂鬱な一日の終わり頃、突然スマホが震えた。
夜半を迎えようという時間帯。佐野がこんな時間に連絡してくるのは初めてのことだった。
「もしもし」
『……』
本来であれば『明日世界が終わるとしたらどうしたい?』と続くはずだった佐野の声は、いつまで待っても聞こえてこない。僕の声は確かに届いているはずだったが、不自然なほどの沈黙が続いた。
この街のどこかでスマホを握っているはずの佐野は、無言を電波に乗せることでそのわずかな存在すらかき消してしまおうと、僕に電話をしてきたのだろうか。
『あのさ、私にとっては、きみが来てくれる屋上がもう日常だったよ』
ようやく聞こえてきたのは、弱弱しいかすれ声だった。
佐野の言葉の意味が上手く汲み取れない。ただ事ではないように思えた。
「急にどうしたの」
『……きみが停学になった日に初めて電話で話したこと、覚えてる?』
「もちろん」
『あの時、きみ、屋上に日常が戻るねって言ったんだ』
「うん」
『当時は、あーその通りだなーって思ったんだけど、間違ってたよ』
「――わざわざそれだけを言おうと?」
『そう』
僕は彼女のことを何も知らないことを知っている。
それこそ、名前だって最近になって知ったくらいで、好きなものや嫌いなもの、大切なこととか家族のこととか、そういう彼女の構成要素はまるで知らない。
知らないけど、いま、佐野が言いたいことはこんなことじゃないという確信があった。
耳を澄ますと、微かに水が流れるような音が聞こえる。嫌な予感がした。
「佐野、今どこにいる?」
『遠いところで、ブランコ漕いでる』
「それにしては静かじゃないか」
『じゃあ聞かせてあげようか?』
「つまらないよ佐野、どこにいるんだ」
『急にどうしたの』
言われて気付く。苛立っていた。自分でも驚くほどに。
「いいから、どこにいるのか教えて」縋るような口調で言う。
『……言いたくない。きみは? 何をしてるの?』
「何もしてないよ」どうでもいいことだった。
『そう、良かった』
その言葉に皮肉めいた意味は含まれていない気がした。佐野の声が本当に優しかったから。
続けて佐野が何かを言おうとしたとき、電話越しにガチャリとドアが開くような音が聞こえた。続いて乱暴な足音が侵入してくる。僕と佐野の時間に。それが終わりの合図だった。
『じゃあ、おやすみ』
「おい、佐野―—」
電子音とともに通話が途切れ、佐野のものではない静寂が続いた。僕はしばらくスマホを耳に当てたまま動けずにいた。水音とドアの開く音、足音の主と佐野。呪われたパズルみたいに、何をどう組み合わせても心臓がえぐられそうだった。
佐野はどうして僕に電話を掛けてきたのだろう。
佐野の言葉を反芻する。日常、と言った。僕が屋上にいることが、佐野にとっても日常になっていたという事実。そんな嬉しい仮定を真実だとするなら、先ほどの電話はなおさら合点がいかない。言葉と佐野の態度が、噛み合わない。どれだけ考えても答えは出ないまま、夜が明けた。
その後、何度電話をかけても佐野が電話に出ることはなかった。
翌日は降り続いていた雨も上がり、厚い雲と共に連休が明けた。ずっと休んでいたから五月病には無縁な僕だったが、それより酷い憂鬱が水を吸ったシャツみたいに身体にまとわりついている。一夜明けても、佐野のかすれ声が耳の奥にこびりついて離れない。朝になっても相変わらず佐野は電話に出なかった。
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