花降る空に不滅の歌を

淡園オリハ

1

「明日世界が終わるとしたら、どうしたい?」

 彼女にとっての「おはよう」はかの有名な起業家の名言と同じだった。僕も出会った直後には驚いたものだ。

 彼女はいつだって同じ姿勢で屋上に寝そべって、その瞳に映る空や街や人を好きにいじくり回しては理想的な世界の終わりを空想していた。

 高校二年生の夏を迎えようという時期になっても、部活や進路、恋愛といった青春の構成要素には一切手を出す様子がない彼女の頭の中には、いつも世界の終わりがありありと浮かんでいた。

 その時が来たら何をするのが正解なのかを一心不乱に探している。

 だから、今朝もいつものように投げられた彼女の素っ頓狂な問いかけに、僕は真面目な顔で答える。

「リンゴの木を植えるかな」

「またそれ?」彼女は肩をすくめる。「意味なさ過ぎ」

「意味のなさがいいんじゃないか」

 彼女の隣に腰を下ろし、そのまま寝転ぶ。

「その通りだね」

 二人しかいない屋上を春風が吹き抜けていく。

 当然ながら他の生徒たちは真面目に授業を受けている時間帯だった。教鞭を振るう教師とすり減るチョーク、ぼうっと窓の外を眺めて夢想する同級生の姿をスクリーンみたいな青空に投影する。

 下らなさを煮詰めて蒸発させて丁寧に作り上げた煮凝りみたいなその光景が優しく僕の首を締める。卒業後に大都会へ繰り出したって、自分を自分たらしめる記憶は田舎育ちの人間たちが見せる鬱屈とした表情や鬱蒼とした野山が占める。そりゃ鬱にもなる。

 今まさに遠くに見える山々は僕を外界から切り離そうと不必要なまでに高くそびえ立ち、乾燥した冬の外気が北国特有の物悲しさで肺を蝕んだ。

 みんなと僕の違いがあるとすれば、今すぐに死のうとしたときに選べる選択肢がロマンチックかそうでないか、というただ一つに尽きた。

 つまり僕は屋上から制服で飛び降りて数瞬の浪漫飛行に興じながら幕を閉じられるのに、みんなは顎に万力を込めて舌を噛み切り、出血多量で死ぬしかないのだということ。でもこうして並べてみると、結局まったく違いがない。残るのはどうせ血溜まりだ。

 彼女はいつの間にか上体を起こし、こちらを見ていた。

「教室、戻る?」

 もちろん彼女にも僕にもそんな気はさらさらない。

「戻るって言うのやめてくれる?」

 戻るという言葉が嫌いだった。言葉一つでこの時間の正当性が失われてしまう。

 彼女は空を見上げ「じゃあ、向かう?」と言い直した。そう言われると、どちらでも構わなかった。

「きみは?」

「どっちでもいいなって、そんな気分」

「気が合うね」

「ご冗談を」

 核心をついていた。僕も彼女も一ヶ月はこうして毎日顔を突き合わせているのに、お互いの名前さえ知らない。唯一知っていることは、明日世界が終わるとしたらどうしたいかってことだけ。

「そういえば、きみは? 明日世界が終わるとしたらどうしたいの?」

 人には平然と訊ねるくせに、自分の答えは用意していなかったらしい。彼女は顎に手を当てて俯く。

 無言が続いた。長くなりそうな予感が僕の左手をジャケットの裏ポケットへ誘い、そのまま煙草に火を着けた。

 ちょうど一本吸い終わる頃になって、彼女はようやく口を開く。

「今は、世界に花びらを降らせたいかな」

 僕とさほど変わらない無意味な空想だった。

「意味なさ過ぎ」

「うるせー」

 彼女はせっかく起こした身体をもう一度地面に投げた。

「でも、それ、悪くないな」紛れもない本心だった。

「でっしょ?」

 揃った白い歯が流れ星のようにきらりと光る。

 ところで、彼女はどうやって花を降らせるつもりなのだろう。聞くと、意外なほどあっさりと具体的なプランを教えてくれた。

「実際はあれかな。くす玉に花びらを詰め込んで、くす玉を大量の風船に括りつけるの。なっがーい紐を持って地上で待ってさ、世界が終わる瞬間に一気に紐を引く!」

 ジェスチャー付きで解説してくれた彼女は、上体を起こしながら紐を引いた。何を思ったか、そのまま腹筋運動を始める。

「で、成層圏から降る花びらの雨を私が見る最後の景色にするの」

 そう言って腹筋運動を止め、街を見下ろした。

 屋上から望む街並みはジオラマのようで、全て作り物だと言われても疑いようがない。

「なんか現実的だね」

「だね。だから面白くない」

「言えてる」

 吸い終わった煙草を地面に擦りつけて火を消した。

「うわ、それ不良っぽい」

「そう思われるのにも慣れたよ」

「うわ、それもっと不良っぽい」

 彼女は丁寧に言葉を扱う人だった。不良だ、ではなく不良っぽいと表現させたのは紛れもなく彼女が持つ知性の賜物で、彼女は行為と人格の間にある透明な壁が見える稀有な人間だった。

「不良は一言で意味が伝わるのに、逆に不良じゃない人を良って呼んでも伝わらないのはなんでなんだろう」

 春風が運んだ気まぐれな疑問にも彼女は笑って答えた。

「簡単なことじゃん。人は呪われてるから」

 予想していなかった答えに僕は思わず聞き返す。

「呪われてる?」

「良いものが分からない呪いだよ。でも良くなさそうなものだけは分かる。だから良くなさそうなものを集めて、比較して、ようやく形が分かった気になるの」

「ときどき思うんだけど」僕は一息に言う。「きみの吸っている酸素は地球産じゃないみたいだ」

「宇宙人だって言いたいの?」

「いや。宇宙人っぽいだけだよ」

「そう思われることにも慣れた」

「だろうね。なかなか生きづらそうだ」

「その言葉そっくりそのままお返しします」

「謹んでお返しします」

 そのときチャイムが鳴った。

 授業の終わりを告げる機械音。それを合図に徐々に校内が騒がしくなっていく。

 さっきまでの静寂と僕らのやり取りが嘘だったかのように、周波数が合わないラジオみたいな現実が押し寄せてくる。

 体重以上に重くなった腰を上げた。

「向かうの?」

「出席日数が足りないんだ」

「うわ、良っぽい」

「ほっとけ」

 彼女はまだここに残ると言うので一人で屋上を後にした。

 振り返ると、彼女はいつかの日と同じ佇まいで屋上からの景色を眺めていた。この狂人と初めて出会ったのは、春雨が降る肌寒い昼下りのことだった。


   1


 今から一ヶ月ほど前、新年度に校内が浮足立つ始業式の日。教室は顔見知りとの距離をいち早く縮めようと躍起になる生徒たちが生み出すいつもより大きな喧騒に包まれていた。

 ホームルームまでの限られた時間も有効活用して、少しでもアドバンテージを稼ごうという作戦なのだろうか。だとすれば、僕はそもそも不戦敗だった。

 友人が一人もいない教室で気まずさの輪郭をなぞるのにも飽きて、人がいない場所へ向かおうと教室を後にした。

 雨の湿気を吸ったリノリウムの床は、靴底が撫でるたびにファンシーな音を響かせる。一歩、また一歩と踏み出す度に喧騒が遠ざかっていくのにつれて自我を取り戻していく。美術室や情報処理室といった特殊な教室が並ぶ東校舎に足を踏み入れると、いよいよ誰の声も聞こえなくなった。

 無人の廊下や階段を迷いなく進み、ようやくたどり着いた屋上へ繋がる鉄製の扉を開ける。

 ——誰も居ないはずのそこに、傘を差して立ち尽くす女子生徒の姿があった。

 同時に、チャイムが鳴る。

 始業式後のホームルームの始まりを告げる鐘の音にも全く反応せず、彼女は一心に街を見下ろしていた。

 年度が始まる日にも関わらずの堂々たるサボり。しかも傘を持参しての計画的犯行。タダ者じゃない。僕だけの空間だと思っていた屋上に先客がいたのは初めてだったし、あまりに異質なその光景に言葉を失った。

 宇宙人と交信しているようにも、雨が止むよう天に祈っているようにも見えるその光景をどれくらい眺めていただろう。

 彼女は突然こちらを振り向くと、僕を見て小さく悲鳴を上げた。

 今さら引き返すのはさらに不審で、逆効果だ。

 観念した僕は雨の降る屋上へ足を踏み出した。

「あの、どうも……何してたんですか?」

「……きみこそ。サボりに来たの?」

「ええ。そっちは?」

「見てのとおりだよ」

 どれだけ見ても何をしているのかさっぱり分からないままの彼女は、それきり口を開かなかった。神託を受け取った信徒のような真剣な面持ちで、じっと街を見下ろす作業へ戻っている。

 なんとなく、僕もそうしてみた。

 朝から降り続く雨は止むことを知らず、強まる一方。普段は上から落ちてくるだけの水滴を高い場所から眺めるのは変な気分がした。雨脚が強まれば強まるほど、世界を呑み込まんとする神々しさすら感じる。

 俯瞰がもたらす唯一にして絶対の効果は何事をも他人事にできることだけど、そんなことに価値を感じ始めた時点で既に終わり始めているのかもしれない。

 ついには行き過ぎた俯瞰が、遠くに霞む山脈の尾根をバケツの縁に、この街を大きなバケツの底に錯覚させる。この雨で平地が全て沈んでしまえば良い。

「不思議ですね。こんなに水が降り注いでるのに、全然水が貯まらない」

 自然と言葉が漏れた。

 傘に隠れて彼女の横顔は見えない。でも、きっと笑っていた。

 彼女はさっきより温度のある声で言う。

「――ねぇ、これが水じゃなければいいって思ったことは?」

「槍とか?」

「それもいいけど、もっときれいなものがいい」

「なんだろうな。花とか?」

 相変わらず傘の影に隠れている彼女は、今度こそ間違いなく笑っていた。雨音に乗せられた彼女の笑い声がやけにクリアに聞こえる。

 彼女は傘を傾けて真っ直ぐに僕を見上げた。

 儚さと芯の強さを感じさせる雪のような瞳。その中心に僕が映っているのがはっきりと見えた。

「ねぇ、明日世界が終わるとしたら、どうしたい?」

 それが僕と彼女の出会い。

 屋上で昼寝をするだけだった僕の日常に、一つの異質物が混ざり込んだ瞬間だった。


  2


 休み時間に差し掛かったばかりの教室は騒がしい。これ幸いと喧噪に紛れ、静かに自席へ座った。

 クラスメイト達は重役出勤をしてきた僕に何の興味もないようで、話しかけてくる者は一人も居ない。透明人間のようだと思った。そして、本当に透明人間だったら良かった。

 さっきまで授業をしていた社会科の教師が目ざとく僕を見つけて歩み寄ってきた。

 いちいち絡んでくる、面倒な男だった。

「おい楠。お前どこほっつき歩いてたんだ?」

「歩いてませんよ、寝てました」

「なんだ、寝坊か?」

 フランクとヘラヘラの違いが分からない様子の教師は笑いながら僕の左肩に手を置いた。

「そんなとこですね」さりげなく肩に置かれた手を払いのける。

 教師は分かりやすく目の色を変えた。

「知ってるんだよ、お前が屋上でサボってることはな。佐野も一緒だろ?」

「佐野って誰ですか」

 とぼけるな、と真面目な顔で言われてようやく彼女のことだと合点がいった。

「佐野とはあれか、付き合ってるのか?」

 僕らがそんな話をしたことは一度もなかった。改めて考えてみても、する必要を感じない。

「見た目はピカイチだもんなぁ」教師は顎を擦って言う。

「いいえ。名前も今知りましたんで。あとそれセクハラですよ」

 こちらの言葉を綺麗に無視して、教師は続ける。

「まぁお前じゃ相手にしてもらえないか……でも俺はさ、お似合いだと思うんだよ。お前と佐野」

「参考までに、どのへんが?」

「浮いたもん同士だろ、お前ら。だから気が合うんじゃないかってな」

 目に嗜虐的な色が浮かんでいるのが見えた。手を払われたのがよほど気に食わなかったのだろう。

「俺が浮いてるのは認めますけど、あいつはどうなんでしょうね」

「何が言いたい?」楽しそうに教師が言う。

「あいつが浮いてるんじゃなく、周りがあいつから浮いてるんじゃないですかね。レベルが低すぎて」

 教師の乾いた笑いが教室に響く。

 はたからは僕と彼が談笑しているように見えるのだろう。めまいがした。

「そういうのをなんていうか知ってるか? 内集団バイアスって言うんだよ。自分のいる集団を贔屓したくなるんだ、負けてる奴ほどな」

「だとしたら彼女を浮いていると言う先生も、彼女を避けてコソコソ言ってる連中も、負けを認めちゃったからそのなんちゃらバイアスでうわ言を言ってるんですか」

 教師の目から嗜虐の色が消えた。

「お前、あんまり調子に乗ってると痛い目に遭うぞ」

「へぇ。具体的にどんな?」

「出席のカウントがギリギリなんだよ。このままいけば留年だな。なにより俺がこの臭いの元凶に手を伸ばせば、停学にだってできるんだよ。もちろんお前も、佐野もな」

「だから彼女は関係ないんですって」

「それを決めるのはお前じゃないんだよ。バカだなぁ、楠」

「先生、無理にフランクなフリするよりそういうキャラの方が合ってますよ」

「キャラ?」きょとんとした顔で言う。

「立場を使って優越感に浸るザコキャラ」

 言うや否や、今度は先ほどよりも力強く肩に手を置かれた。いや、掴まれた。

 教師はもうフランクでもヘラヘラでもなく、憤った一匹の動物として僕を睨みつけていた。

 そうこなくちゃ、面白くない。

「汚ぇ手で触んなって、言わなきゃ分かんねぇのかな」

「力ずくで退かせられないから言って分かってほしいんだろ? そういうところがガキなんだよ、お前も佐野もな」

 安い挑発だと分かっていても、口より先に身体が動いた。

 教師の右手を軽くはたいて手が肩から離れた一瞬、弾かれたように立ち上がる。

 僕の左肩に伸びる教師の右腕に沿って左腕を差し出し、巻くように絡ませた。

 肘の関節を極めると、不意に腕を巻き取られた教師はバランスを崩す。重心が前方へ動いたのを見てから、すかさず右手で首元を押し込んで軽く投げる。

 綺麗にひっくり返った教師の身体が机を巻き込み、金属がぶつかる音がした。

 大きな音が、クラスメイトの視線を僕と教師に集める。

「どうしたんですか先生、急に転んで。大丈夫ですか?」

 出来る限り優しい声音で右手を差し出す。これで終わりにしてほしいと心から願ったが、願いもむなしくキレた様子の教師が僕に飛び掛かってくる。

「ふざけるなよお前ぇ!」

 腰の入っていない拳が僕の頬を捉えた。骨と骨がぶつかり、軋む音が脳に響く。

 懐かしい音。口の中が切れて、鉄の味が口内に広がる。

 懐かしい味。そっちがその気なら、もう仕方がない。

「どうした、かかって来いよ楠ぃ!」

 結果は火を見るよりも明らかで、ぞろぞろと他の教師が止めに来た頃には教師は床に伸びていた。

 先に手を出したのは教師だと何度伝えようとも意味はなく、取り押さえに来た別の教師によって胸ポケットの煙草が没収される。どうしてこのタイミングで煙草を没収されたのかを考えて、すぐに答えに行きついた。

 わざとらしい挑発と威勢の良い啖呵。堂々と手を出してきたことと、最初の脅しめいた注意。もともと仕組まれていたとしか思えなかった。

 僕のことはどの教師も問題視しているようだったから、おおかたこの社会科教師が「矢面に立って煙草やサボりを注意してきます」とでも宣言していたのだろう。これが喧嘩なら、相手が倒れて僕だけが立っていることに価値があるけれど、この場合は最悪のシチュエーションだ。逆上した僕が教師に手を上げたと捉えられておしまいだろう。

 クラスメイトの証言も期待はできない。となると、ハナからこの喧嘩に勝ち目はない。僕は心の中で白旗を振った。

 その後、別室で説教されている時には退学になるだろうと告げられていたけれど、四月にも関わらず汗だくになって駆け付けた父の土下座によって、僕は停学に減刑されたらしい。

 実のところ、それすら僕にとってはどうでも良かった。

 あの男が僕に手を出したことも、何故か僕だけが罰を受けることも、どうでもいい。

 ただ僕のせいで佐野が貶められたことだけが心の真ん中で蠢いていた。それと、あの教師に頭を下げた父を思うとほんの少しだけ心が痛んだ。


 今日はそのまま帰って停学の通知を待つように、とのことだったので、大人しく家に帰ろうと玄関をくぐって、校舎を振り返る。ふと屋上を見ると、見慣れた彼女が手を振っているのが見えた。

 ふわり、と彼女が屋上から何かを投げた。

 随分軽そうな、白いなにか。

 それが近くに来てから、ようやく紙飛行機だと気付く。

 追いついてキャッチすると、彼女は笑顔でグッドサインを浮かべてその場に寝転んだ。もうここからでは姿が見えない。

 これから当分会えないのに随分あっけない別れだ、とは思わなかった。

 なにせ僕はあの男に言われるまで、彼女の名前さえ知らなかったのだから。

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