《十月十日》

〜〇〇大学学長の長男変死 殺人か〜

 安っぽい地方紙の三面記事を読みながら、姫路ひめじ圭太郎けいたろうは息を吐いた。普段から新聞を読むことはないが、昨晩の地方ニュースで数十秒だけ流れたこの事件の記事だけは読みたくて、ついホームの売店で買ってきてしまった。

「あら……圭太郎くんが新聞を読んでるなんて、珍しいわね」

 ぼんやりとテレビを眺めていた妻の恭子きょうこが、夫に話しかけた。

「ああ、うん……。この記事が気になってさ」

「〇〇大学学長の長男が変死……?」

 事件の概要は以下の通りだ。

 昨日の早朝、市内にある廃アパートの一室で、若い男の死体が発見された。第一発見者は、市からアパートの取り壊しを依頼されていた解体業者の男性二名で、腐敗臭のようなものが気になって部屋を覗いたところ、死体を発見したとのこと。死体の身元は、数日前から行方が判らなくなっていた〇〇大学の学長である天王寺てんのうじ宗春そうしゅん氏の長男、達秋たつあき氏と判明。死体の首には布状の物で強く絞めたと思われる痕が残されており、明らかな事件性が認められる……。

 たった十行弱の、短い記事だ。

「ふぅん……で、これがどうかしたの?」

「この殺された天王寺達秋って男、実は俺の大学時代の同期なのさ」

「へぇーっ。もしかして知り合いとか?」

 彼女はほんの少しだけ驚いたような顔をして、姫路、というよりも彼の手元を見た。

「まあ、ちょっとね。本当に顔見知りってくらいなんだけど。それで、昨晩のニュースで名前を見つけたから驚いちゃってさ。つい柄にも無く新聞なんて買ってきちゃったよ」

「そうなんだ。犯人、すぐに捕まるといいわね……」

「ああ、まあ……そうだな」

 当たり障りのない妻の回答に、姫路は何とも複雑そうな顔をして、言葉を曖昧に濁した。


 特に話は膨らまないまま、恭子はドラマが始まると言って慌ててお茶とお茶請けを用意し、テレビに釘付けになってしまった。恭子は、火曜の午後九時から放送しているサスペンスドラマがお気に入りらしい。姫路にしてみれば、人が死ぬような話の何が面白いのかとんと理解出来ないが……。

 姫路は一人、寝室に戻ってベッドに寝転がった。そして、ぼんやりと事件について考えを巡らせる。

 天王寺達秋……。一見すると愛想の良い男であったが、付き合ってみると中身は最悪で、評判の散々な男だった。

 親が学長であることを活かして、自由気まま、好き勝手に行動をしていた。金欠の奴には金を貸したり、あるいは親の所有するマンションの一室まで無料で住まわせていたり……。羽振りが良く、初めのうちは人気者だったが、その実、法外な利子を付けて、払えなければ大学を辞めさせられて強制労働させられたり、店に売られるなんて噂まであった。そしてその噂は殆ど事実として語られている。

 兎にも角にも、碌でもない男であったことは間違いない。仮にどこかで恨みを買っていて、誰かに殺されたとして、何の不思議もないのだ。

 姫路個人としては奴一人殺されたところで何の感慨も、増してや後悔や同情がある訳もなく、寧ろざまあみろという気分だ。しかし生憎、日本は法治国家である。まず間違いなく警察の捜査によって犯人は特定され、逮捕に至るだろう。ご愁傷様だ。……思案をしていると、傍らのスマートフォンが小さく唸った。

 これまた何の気なしに画面を確認すると、大学時代の二学年後輩である兵頭ひょうどう貴志たかしからメッセージが届いていた。

『近く、久々に会いませんか?』

 姫路と兵頭は大学時代に同じサークルに所属していて、親しくしていた。卒業して既に五年は経過した現在でも偶に会って相談に乗ったり、遊んだりする仲であった。

 そういえば、兵頭も過去に天王寺から金を借りて酷い目に遭ったことがあると聞いたことがある。だったら、今日のニュースは酒の肴に丁度いい。あいつも胸が空く思いだろう。

 姫路は思わず漏れた笑みを抑えながら、数日後なら予定が空いていると、兵頭に返答をした。


《十月十一日》

 貴志は、数日前の出来事を思い返していた。

 一人の人間の命の灯を、自らの手で消した。キリキリと絞め上げられる首の嫌な軟らかさに、潰れた蛙のような声……。全て、この手に、耳に、こびり付いて離れない。それでも貴志は、微塵も後悔をしていなかった。

 家族、友達、仕事、全て失った。何もかもあの男のせいだ。それこそ、殺しでもしてやらなければ気が済まなかった。だから、自分が間違っていたとは決して思っていない。

 しかし、怒りに身を任せる時間は終わりだ。

 カチ、カチと、腕時計の針が時を刻む。

 あの男を殺したくらいで、警察に捕まり刑罰を受けるのは御免だ。逃げ切らなければならない。さっさと行動しなければ。

 貴志は携帯を手に、考えを巡らせた。

 さて、次にするべきことは……。


《十月十二日》

 姫路は違和感を覚えていた。

 勤め先の入ったビルを出て、駅に向かって歩いていた。時刻は七時近く、辺りは既に暗い。しかし、先程から影がチラつく。足音が二重に聞こえる……。誰かがつけてきている?

 立ち止まって周囲を見回してみたが、この時間帯は人も多く、周囲の喧騒に紛れて不自然な足音の主など判る筈もなかった。

 気のせいか……。

 立ち止まっては、自らにそう言い聞かせる。その繰り返しだった。気味が悪い。理由は解らないが自身の神経が昂っているのだろうか?

 駅前のカフェの辺りで何度目かの確認を行った時、不意に声を掛けられた。

「すみません」

 小太りの男だ。

「姫路圭太郎さん……ですね?」

「え、ええ……」

 姫路は驚いたが、周囲を歩く人々がいたからか、声は出なかった。

「私、こういう者ですが……」

 男は黒い手帳を胸の裏ポケットから取り出し、ちらりと見せた。姫路は手帳に見覚えがあった。そう、妻の見るドラマでよく見る……警察手帳?

「け、警察の方ですか」

「はい。ご帰宅中申し訳ありませんが……ちょっとそこで、話をお聞かせ願えますかな」

「俺に何か用ですか。……俺、何もしていません」

「何をそんなに慌てているんです。別に取って食おうとしているわけじゃあ、ありませんよ……。〇〇大学学長の長男、天王寺達秋氏が殺された事件については知っていますか? あなたのご学友なのですが……」

 天王寺達秋の事件……。つい数日前に、興味を抱いた事件だ。当然、鮮明に覚えていた。

「まあ……」

「そうですか。それなら話は早い。実を言うとね、その事件について意見をお伺いしたく、失礼を承知で声を掛けさせて頂きました。そこのカフェで話をしましょう」

 有無を言わせぬ強引さで刑事が姫路の腕を引く。そして、傍らのカフェの扉を潜った。ベルの音が響く……。

 刑事は途中で名乗った筈だが、姫路の耳には届かなかった。ただただ、粘っこく不快な声色だけが耳に残った。

 二人が隅の目立たない席に着くと、カフェのマスターが注文を取りに来た。

「コーヒーを二つ。あなたもそれで構いませんね? 私はブラック、あなたは……ええ、では二つともブラックで」

 ゆっくりとした調子で、姫路の分まで注文を済ませてしまった。

「ちょっと、刑事さん」

「ああ、お代は私が出しますよ。ご心配なく」

「あのですね、そんなことを心配している訳ではなくて……」

「こっちの話ですかな」

 どうやら、姫路の目の前に座る小太りの刑事は、人を小馬鹿にする悪癖があるらしい。ニヤニヤと不愉快極まりない笑みを浮かべながら、焦らすように懐から写真を取り出した。写っているのは、如何にも底意地の悪そうな男の顔……。

「数日前、殺害された天王寺達秋氏です。御存じですな」

「はあ……。刑事さんが先程言っていた通り大学時代の同級生ですから、知ってはいます。ですが、話と言っても、僕は何を話せばいいんですか。同級生というだけで、彼について詳しい訳ではありませんよ」

 姫路は幾分か落ち着きを取り戻してきた。

「ご安心ください。今日お訊ねしたいのは天王寺のことというよりも、あなたについてですから」

「僕について、ですか」

 何故か、嫌な予感が姫路の頭を掠めた。

「はい。天王寺の人となりに関しては、もう充分調査が進んでいます。殺されても文句の言えない人格の持ち主だったようですね」

 殺されても文句の言えない人格の持ち主……。姫路にとって確かに事実であり、まかり間違っても天王寺に好感を抱いていたなどということ無く、百歩譲ってみたところで絶対に有り得ない発想だが、それにしたって警察官の言うことではない。

「……それで、僕に訊ねたいこととは」

「天王寺が殺害された日の夜。あなたは、現場のアパートから三十分程の距離にある居酒屋でご友人達と飲んでいたようですね」

「はあ……。天王寺君が殺された日の夜というと、いつのことでしょうか。新聞記事しか読んでいないもので、そこまで詳しいことはあまり……」

「十月六日の夜です」

 十月六日……。つい五日前の出来事だから、鮮明に思い出せた。確かにその日、大学時代の友人達と飲んでいた。

「はい、刑事さんの仰る通りです。民田たみだ宰原さいはら……友人達の名前ですが……僕も含めて、三人で飲んでいました」

 民田道保みちやす、宰原絵那えな。嘘偽りなく、現在も度々会う姫路の友人達であった。

「なるほどですね。では、当日のことを覚えていますか。例えば、居酒屋に何時間居て、いつ誰が席を外したか、などです」

「ちょ、ちょっと待ってください。酒も入っていたし、そんなことは覚えていませんよ。というよりも、どういう意味の質問ですか」

「覚えていませんか……。ですが、代わりにあなたのご友人達が覚えていてくれたようですよ。午後の九時頃から日を跨いで零時過ぎまで、大体三時間程度飲んでいましたね」

 姫路の問いには答えず、刑事は話を進めていく。

「そこで話を聞きました。民田さんや宰原さんはお手洗いや電話で時折席を外したようですが、長くても五分から十分くらいとのことでした。しかし、あなたは十時半頃から十一時過ぎまでの三、四十分もの間、席を外した時間があった。しかも、店外に出たようだ。店の前の通りに監視カメラが付いていて、あなたの姿がしっかりと映っていました。これは、一体どういう事情でしょうね?」

「だから……! 待ってくださいって!」

 姫路はようやく、刑事の話を遮ることが出来た。

「今の刑事さんの話だと……まるで俺が疑われているみたいじゃないですか!」

 そう、全く以てその通りなのである。

「まるで疑われているみたい? それは違います。……はっきりと言いましょう。私達警察は姫路圭太郎さん、あなたを疑っているのです」

「は……?」

「実は、天王寺が殺害された時間帯……六日の午後十時から十一時の間です……十一時前頃、現場近くにある公園のカメラにあなたとよく似た体格の男が映っていましてね」

「な、何ですか、それは」

 警察に……疑われている? そうはっきりと言われて、動揺を隠せる程、姫路は冷静ではいられなかった。

「誤解だ」

「まあまあ、話は最後まで。あなた最近、こんな物を失くしたりしていませんか」

 刑事が新たに写真を提示してきた。恐る恐る覗き込む……。

「ネクタイ……」

 写真に映る薄い青に、銀の刺繍が施されたネクタイには確かに見覚えがあった。いつかは判らないが、ここ数日のうちに失くしたのも事実だった。言われてみれば、あの日を境に失くしてしまった気もした。

「そうです。現場に落ちていたネクタイだ。そして、これこそが天王寺の首を絞め、殺害した凶器なのです」

「何だって」

 しかし、姫路には当然、ネクタイを使って天王寺を殺した記憶も無いし、事実も無い。

「天王寺は殺害される直前……六日十時頃のことですね。交際中の女性に自ら連絡をして、自宅で映画を見ている最中だと言っていたそうです。現場の廃アパートは天王寺の自宅マンションから歩いて一分程度のごく近い場所にあった。つまりあなたは、居酒屋で友人達と飲んでいる最中に理由をつけて店を抜け出し、タクシーか何かを使って廃アパートに向かった。どんなに混んでいても十分もあれば着く距離だ。三、四十分も席を外していたあなたなら往復することを含めても充分に可能でしょう。そして、天王寺を人気の少ない廃アパートに呼び出し、そこで彼を殺した。どうです」

「どうですも何も……。俺が居酒屋を出たのは、飲みすぎて気分が悪くなったから、酔いを覚まそうと思ってすぐ近くの公園で休んでいただけです!」

「外に出なくても、席で休めば良い話ではないですか」

「夜風に当たりたい時だってあるでしょう。それにネクタイだって、酔いで暑くなって、解いてそのまま落としてしまっただけだ」

「あなた、さっきは覚えていないと言っていたのに、随分と饒舌になりましたね」

「なっ……あんたに疑いを掛けられて、思い出しただけだ。揚げ足取りもいい加減にしてくれ」

 姫路は我慢ならず、席を立った。

「どこに行くのです」

「帰るんですよ。当たり前でしょう」

 激昂した姫路を、刑事がそれ以上引き留めることはなかった。しかし、その瞳には獲物を逃がさない蛇のような、嫌な光が灯っている……。

「では、また後日……」

「二度と会わないことを願います」

 捨て台詞を吐き、姫路は店を後にした。

 俺が天王寺を殺した犯人だって? 冗談じゃない、俺は無実だ……!

 姫路の胸の内は、風が強く吹き荒れている。


《十月十三日》

 貴志は、ここ数日の間、外出せずにじっと息を潜めていた。あの男の死体はすぐに発見され、世間での扱いは小さくとも、ニュースになっている。それも当然だろう。アパートに放置して、特に隠すようなこともしていないのだから。

 死体が見つかったところで問題なぞ存在しなかった。貴志は細心の注意を払って、自身の痕跡を徹底的に消していた。

 それよりも、と貴志は明日の予定に考えを移した。明日は奴と会うことになっている。数日前に連絡をしておいて、約束を取り付けてある。

 久々の外出だ。冷静に行動をしなければいけない。そして、現場から持ち去った証拠品を処分するのだ。奴の鞄にでも潜ませて……罪を被せてやろう。これは決して苦し紛れのアドリブではない。ここまで含めて、一つの計画だ。地獄に叩き落としてやる。

 不気味な笑みが、暗がりに浮かぶ。

 澱んだ部屋の中で、時を刻む針の音だけが、時間が進んでいることを如実に示していた。


《十月十四日》

「先輩、どうかしたんですか。元気ないみたいっすけど」

「え? ああ……」

 姫路は、数日前に約束をした兵頭貴志と、ファミレスで食事をしていた。

「少し、な」

 それ以上は何も言わず、口を噤んだ。

 姫路の頭の中は、先日の刑事の顔が浮かんでいた。次に浮かぶのは天王寺の顔……。と言っても、しばらくは会っていなかったから、大学時代の顔ではあったが。

 一昨日、カフェで起きた不愉快極まりない一件の後、憤ったまま家に帰宅した姫路を待ち受けていたのは、妻の恭子からの詰問だった。

「圭太郎くん! 今日、昼間に警察から電話があったんだけど」

「えっ!?」

「天王寺さんの殺人事件のことで話を訊きたいとか……。ねえ、どういうことなの?」

 カフェで話すよりも前に、自宅に電話していたのか。姫路は、不安の色を表情として浮かべる妻の顔を見て、あの小太りの刑事に対して、より一層の苛立ちを感じた。

 恭子を落ち着かせるよう、自身は決して事件に関わりがないこと、これ以上は心配を掛けないことを強調し、早く眠るように伝えた。

 恭子が何とか冷静さを取り戻して寝室に入るのを見届けると、姫路は冷蔵庫からビールを取り出し、居間で一人晩酌をした。やけ酒だ。

 一体何故、自身が疑われているのか……? 考えを巡らせる。いや、その疑いの根拠は刑事も言っていた。姫路と似通った体格の男が現場近くのカメラに映っていたこと。姫路が失くしたネクタイと同じネクタイが凶器として使われ、現場に残されていたこと。それと、長時間席を外したため、犯行が可能だと思われていた。なおかつ、姫路は殺された天王寺と顔見知りなのだった。

 姫路は考えた。確かに、仮に自身が捜査官だったとして、このような条件の男がいたら、疑いをかけるだろう。だが、それにしたって……強引すぎやしないか? 大した裏取りもせず、家族にまで迷惑を掛けるなんて、とても許せない。

 事実、犯人ではないのだ。そう、姫路自身も気付いていない、人格でも存在しない限りは……。

「先輩!」

「ん? ああ、ごめん」

 姫路は、すっかりと物思いに耽ってしまっていた。兵頭に声を掛けられなければ、そのまま何時間でもボーっと座り続けていたかもしれない。少し反省をして、冷めた料理を口に運んだ。

「ホント、様子おかしいですよ。あっ、もしかして奥さんと喧嘩でもしましたか?」

「してない、してない。そもそも俺が恭子と喧嘩なんてするわけない。後が怖いし」

「ははは! そうっすね。でも、怖いんじゃなくて仲が良いんでしょ? この前の先輩の誕生日にも、プレゼント貰ったって喜んでましたよね」

「ははっ、止めろよ。恥ずかしいから……」

 姫路は腕をそっと擦った。

 今も自宅でドラマでも見ているだろう、恭子の姿を思い浮かべた。

 恭子とは、大学卒業後、就職した今の印刷会社で出会った。姫路は営業部所属、恭子は経理部所属。研修会で同じグループになり、続いて社内の新入社員歓迎会でも馬が合い、気づけば交際を始めていた。付き合い始めて一年後には結婚もした。

 恭子は父親が国土交通省の官僚という、所謂お嬢様だった。とは言え、お嬢様の割には庶民的な感覚も持ち合わせていたし、特別偉ぶったところもない、好感の持てる普通の優しい女性だ。両親に結婚を視野に入れた挨拶に向かった際も、難癖を付けられたりすることもなかった。ただ、婿入りすることだけが条件だった。それでも、完全な同居をさせられた訳でもなく、実家の近くに二人の住む新築の家まで貰えたのだから、義両親にも恵まれたと言ってまず間違いないだろう。

「奥さん、体調は大丈夫なんですか?」

「ああ、順調。もう六ヶ月だよ」

 結婚四年目に至って、未だ順風満帆な夫婦生活にも大きな変化が見られた。恭子は今、妊娠している。

 お腹の子が男の子か女の子か、まだ確実に解っている訳ではないが……どちらにしたって可愛い子供だ。一層、頑張って守っていかないといけない。

 尚更、無用なストレスを掛ける訳にはいかないのだ。

「なあ、兵頭……」

「なんです?」

 姫路は、それなりに根性を持って今まで生きてきたと自負している。が、それでも流石に警察に殺人の疑いを掛けられた経験は無い。そのような悩みを一人で抱える危うさを感じ、目の前の素直な後輩に相談して意見を仰いでみることにした。

 目の前の料理を時折口に運びながら、出来る限り明確に、兵頭に伝える。

「と、まあ、そういうことなんだけどさ」

「…………」

「おい、そんな暗い顔するなよ」

 話し終えた後、相談を持ち掛けた側のはずである姫路が思わずフォローするくらいに、兵頭は複雑な表情を浮かべていた。

「すみません。いやぁ……思ったよりもデカい悩み抱えてたもんで、驚いちゃいました。警察に疑われてるって、マジっすか」

「マジだよ。冗談でこんな不吉な話はしない」

「そうですよね。いやー、どうしたらいいんでしょうね? そういう場合……」

「あ、まあ、俺もそこまで悩んでる訳じゃないんだけどさ。だって俺、実際に無実なんだぜ。疑われはしても、まさか捕まるなんて……」

「それは、判りませんよ」

 兵頭の声が、一層真剣味を帯びた気がした。

「冤罪で捕まることだって、あるかもしれません」

「えっ……」

「だって、本当に何もしていないんだったら、顔見知りであっても天王寺と大して関係の無い先輩がそんなに疑われる状況になること自体、おかしいじゃないですか。……もしかしたら、どこかの誰かが先輩を嵌めようとしているのかも」

「な、なんだよ、それ……怖いこと言うな、お前」

 姫路は思わずたじろいだ。それ程までに、異様な雰囲気を感じた。それは、姫路自身が知らず知らずのうちに追い詰められているから?

「だから、先輩が自分で事件を調査してみるくらいのことはした方がいいかもしれませんよ」

「俺が調査? 馬鹿言うなよ、警察でも探偵でもないんだぞ、俺は……。平日は仕事もあるし、無理だよ」

「……ですよね! ごめんなさい、流石に冗談です」

「はぁ? どこからどこまでが冗談だ」

「全部っす。ドラマじゃないんだから……誰かが罪を擦り付けようとしているなんてこと、無いと思いますよ。流石にね」

 急に態度を変えた兵頭に、どう接すればいいのか判らない。

「……そういえば兵頭、お前昔さ、天王寺に借金して酷い目に遭ったことがあったって言ってたよな」

「確かに、そういうこともありましたけど……ええ!? まさかのオレが容疑者ですか!?」

「…………」

「あの、だから冗談ですって」

「そうか……そうだよな?」

「ごめんなさい、不謹慎なこと言って。でも、大丈夫だと思います。そのうち、疑いなんて晴れますよ。だって先輩は殺人なんかしてないんですよね?」

 そう言って笑う後輩に、姫路は言った。

「当たり前だろ」


《十月十五日》

「ははっ……」

 貴志は狭い部屋で一人、笑っていた。

 昨日、約束通り奴と会った。そして……目的は達成した。これで、何かあれば奴が殺人事件の犯人として疑われることは間違いないだろう。これも、復讐の一つだ。

 奇妙な達成感に包まれると、ふと、空腹を感じた。

 カチ、カチと……時を刻む時計の針が、空腹をより促進させる気がする。

 面倒だが、腹が減っては戦は出来ぬと言う。コンビニで適当に何か買ってこよう。


「ありぁとざっしたぁ」

 やる気の無い店員の声を背に、貴志はコンビニを出た。学生の頃から好物のジャムパンとブラックコーヒーを買った。

 ゴミが出るのも鬱陶しい。このまま店の外で食べてコンビニのゴミ箱に捨てていこう。そう考えた。

 新聞配達の学生が、バイクを走らせている長閑な光景をボーッと見ていると、駐車場で二人組とすれ違った。小太りの中年男と、背の小さい青年の組み合わせだ。……既視感を覚える。どこかで会ったことがあるだろうか。

「すみませんねぇ、小林くん。卒業間際で忙しいだろうに、手伝ってもらってしまって」

「大丈夫です」

「就活は大丈夫ですか?」

「余計なお世話です。僕が大丈夫じゃないって言っても、野呂さんはどうせ連れ出したでしょ」

「んふっ、流石によくお解りですねぇ」

 一見して親子に見えなくもないが、どうやら親子ではないようだ。しかし、貴志の興味を惹き付けたのは二人の関係性などではなく、続く彼らの会話の内容だった。

「それで、何か容疑者の目星はついているんでしょうか」

「まぁそれなり、といったところです。ボロボロのアパートだというのに、埃が無くなるまで徹底的に痕跡が消された現場でしたがね……」

 貴志は悟った。警察か何かに間違いない。直近で起きた事件、現場はボロアパート、消された痕跡……。まさしく、自身の起こした殺人事件の捜査をしているのだ。そうか、そういうことか。しかし、何の問題もなかった。何故なら、自身に繋がる証拠は、何も……。

「たった一つだけ、証拠が残されていましたよ。所謂、ダイイングメッセージというヤツです」

 その言葉を聞いた刹那、貴志の心臓は踊り上がった。ダイイングメッセージ? そんなもの、自分が現場を出る時には絶対に遺されていなかったはず……。まだ息があったとでも言うのか? それで、最期の力を振り絞って……。

 ふざけるな!

「ダイイングメッセージ、ですって?」

「まあ、犯人の名前を明確に示すメッセージは偽装されたものであることも多いんですがね。これはどうでしょうか。被害者の手帳に遺されていたものです」

「ゼロ、ナナ……キュウ? 079と読めますね。あと、この9の横に、書き損じみたいな棒が……」

「ええ。私にもそう読めます。ただ、意味がよく解らない。この意味の解らなさは却って本物な予感もしませんか」

「その考え方は論理的とは言えませんが……。まあ、考えてみる価値はありそうですね」

 不自然じゃない距離感を保ち、二人の話を聞いていた貴志はひとまず胸を撫で下ろした。ゼロナナキュウだって? まるで意味が解らない。今の話が本当だったら、大丈夫なはずだ。これ以上ここにいるといよいよ怪しまれるかもしれない。

 貴志はたった今購入したばかりの食品が詰まった袋を抱え、自宅に向かった。


《十月十六日》

 月曜日の夜、仕事終わりの姫路は市内の居酒屋にて男女二人組と対峙していた。

「それで、話って何よ?」

「俺、明日も朝早いんだけど……ふぁあ……」

 宰原絵那は不機嫌そうに机を叩き、民田道保は眠たそうに大欠伸をした。数日前、一緒に飲んだ二人である。

 姫路は二人の分まで奢ると言って、ビールを一つと烏龍茶を二つ頼んだ。

「民田お前、明日仕事なんじゃないのかよ。ビールなんか飲んで大丈夫か」

「まあな……。ふぁあ……」

「ちょっと、そんなことより早く本題に入りなさいよ。あたしだって朝早いんだからさ、早く帰りたいのよ」

「すまん、そうだな」

 姫路の用件とは、一つ。即ち、天王寺が殺された事件に他ならない。

 ここ数日の出来事を出来る限り簡潔に、二人に伝えた。

「あの刑事、圭太郎のトコにも行ってたのね」

「ってことは宰原、やっぱりお前にも警察が……」

「来たわよ、小太りの刑事。なんて言ったっけ、確か名刺貰ったのよね……」

 アイツの名刺なぞ手元に置いておくのも御免だ。姫路は鞄をまさぐる宰原を静止すると、そっぽを向いてボーッとしている民田にも訊ねた。

「民田、お前はどうだ」

「来た。どこから俺たちの情報を仕入れたのか知らんけどさ」

 相変わらず眠たそうなゆっくりとした口調だ。

「にしても、あんたが疑われてるって本当なの?」

「なんだ、宰原。白々しいな」

 解りきっていることを、と思う。

「お前か、それとも民田かは知らないが、俺が長く席を外していたと刑事に伝えたんだろ。ついでに、凶器に使われたネクタイと同じ物を俺が持っていて、失くしたこともさ」

「そ、それは、そうだけど……でも仕方ないじゃないのよ。嘘つく訳にもいかないでしょ」

「それと、ネクタイのこと警察に伝えたの俺だよ」

「どっちだっていい。何にせよ、お陰様で俺は容疑者だからな」

「…………」

 宰原も民田も黙ってしまった。

「……いや、責めたって仕方ないな。悪かった。話ってのはさ、その、俺のアリバイを証明できるような何かは無いかっのを聞きたかったんだ。情けないけど、俺は酔っててあの日のことをあんまり覚えてないんだよ」

「アリバイって言われても……」

「何でもいいんだ。あの刑事しつこくて、俺を直接問い詰めるどころか、家に電話を寄越したり、職場に押しかけてきたりしてるんだ。だから、俺が犯人じゃないってことが解る証拠か何かないか」

 事実、姫路はたった一週間のうちに追い詰められていた。姫路を犯人だと決め打ちした執拗な聞き込みのせいか、職場でもおかしな噂が立っている。そのうえ、恭子にもストレスを与えてしまっていた。

「そう言われても……。悪いけど、警察に言ったこと以上の情報なんて、あたしはもう無いわよ」

「当然、俺も無い」

 冷たい。こういう時に助けてくれる者こそ友人ではないのか。自らに利益を与えてくれるか否かで友達の存在を確認したくはなかったが、それでも今だけは信じさせて欲しかった。

 いや、それどころか……。

「というよりもだ、圭太郎。俺はお前を心底信じてる訳じゃないぞ。絶対にお前が犯人じゃないとは言いきれんからな」

 はっきりと自身を疑う民田の言葉に、姫路は思わずくらりとした。

「ちょっと、民田……」

「……そもそも、お前らとは違って俺には動機なんて無いんだ」

「…………」

 何も言わない民田に、姫路は更に続ける。

「民田、前に天王寺から金借りたことあるだろ。それで何度かトラブルになってたじゃないか」

「……そんなこともあったな」

「それと宰原、お前は天王寺同じサークルだったからしつこく言い寄られて迷惑してたよな」

「なっ……何言ってるのよ! 随分前の話でしょ、それ。あんたは知らないかもしれないけど、天王寺って彼女がいたのよ。すごい独占欲の強い彼女らしくてさ、最初の頃は言い寄られたのも確かだけど、本当に最初の頃だけだったんだから。殺す理由になんてならないわ」

 宰原は姫路に対して、激しく反論をした。

「それに、天王寺が死んだ時間帯、あたしはトイレに三回くらい行ったけど、どれも十分掛からないくらいだったし、民田もトイレに一、二回、外に一回電話しに行ったけど、十分くらいで帰ってきたじゃない。やっぱりあんたしか無理なのよ、圭太郎!」

「…………」

 こんなつもりじゃなかった。喧嘩なんてするつもりはなくて、ただ助けてもらいたかっただけだ。でも、予想以上に余裕が無かった。

 姫路は荒ぶる心の声を抑え、財布から適当に引き出した一万札を机に叩きつけた。コップががちゃんと鳴る。

「……悪かったな、こんな平日呼び出して。俺、もう帰るよ」

 呼び止める宰原の声を無視して、姫路は店を後にした。

 喧嘩になるなら二人と話していても仕方がない。自分で何とかしなければならないようだ。これ以上、周囲に迷惑を掛けないためにも……。


《十月十七日》

 カチ、カチと……腕時計の刻む小さな小さな音が、空間を支配している。

 死んだように眠って、起きて食事を摂り、再び死の世界へ……。貴志は一昨日コンビニに出掛けて以降、部屋から一歩も出ていない。ずっと寝て、起きる。寝て、起きる。その繰り返しだった。

 身体が動かない。その理由は、貴志自身も解っていなかった。いや、脳が拒否していたのだ。不安という名の恐怖を……。

 今や半ば神経症を患ったかのようになって、小さな物音一つにも反応せずにはいられない。時計の音すらとんでもなく不愉快な騒音になっていたが、それでもこの時計だけは絶対に外せない。

 貴志は、罪を犯した自らを裁きに来る鬼を恐れていた。つい、数日前までは余裕すら持っていたのに……何故? 理由は明白だ。この震えは決して後悔や罪悪感から来ているのではない。純粋なる恐怖に震えを与えられているからであった。裁かれる前の……。

 布団に籠ってやり過ごすしかあるまい。幸いにして、食糧はある。しばらくは外に出なくても生活出来る。

 と、その時であった。備え付けの粗末なインターホンが鳴った。大音量だ……。

 貴志は身体を一層震わせ、思わず布団を被った。しかしそれでも、インターホンは鳴り止まない。

 意を決して、対応することにした。

「はい……」

「あ、お荷物の配達です」

見知らぬ青年がダンボール箱を持って立っている。覚えがない荷物だ。思い出せなかったが、部屋に籠ってばかりの生活だ。忘れていただけで、何か頼んでいたかもしれない。

 貴志は扉を開けた。そこには……。


《十一月二十八日》

 天王寺達秋殺人事件が起きてから、約一ヶ月が過ぎた。

 最近は流石に落ち着いてきたものの、例の刑事による捜査は続いているようであり、疑われることの精神的辛さを知った一ヶ月間だった。何よりも辛いのは周りの視線……。妻との会話も減り、孤立無援の状況であった。

 先程、自宅の電話に警察署から連絡があった。恭子はもう電話に出れる精神状態ですらなかったので、仕方なく姫路が出た。現場検証を行いたいから指定の場所に来てくれ、という内容だった。電話の主はいつもの刑事とは違う声で、ひとまず安心出来た。出来れば一秒たりとも関わりを持ちたくなかったが、無視する訳にもいかない。

 姫路は冬の寒さに負けないよう、コートを着て外に出た。


 指定された場所は、何故か例の廃アパートではなく、姫路が飲んでいた居酒屋近くの公園だった。

 やがて、公園に到着した。遊具の殆ど設置されていない質素な公園のベンチに、一人の青年と中年男が座っている。

「んん、姫路さんですねぇ? 私、八雲警察署の野呂と申します。お忙しいところすみませんでした」

 見覚えのない小太りの中年男は、野呂と名乗った。

「初めまして、僕は小林です」

 隣の小柄な男も続けて自己紹介をした。

「本当は警察署まで来て頂いて丁重におもてなしを……と思ったのですが、アクセスしやすい場所の方が良いかと考え直しましてね。失礼をお許しください」

「別に、構いませんが……」

 それよりも気になることがあった。警察官を自称する野呂と共に居る小柄な青年、小林は何者だろう、と。

「君は……高校生か?」

「いいえ。彼は大学生ですよ。ええっと……」

「三年です」

「そうそう。小林くんは警察官ではありませんが、度々捜査協力をしてもらっていましてね。今回も同様です」

「はぁ……?」

 今ひとつ状況が飲み込めない姫路に、小林は言った。

「つまり、姫路さん。あなたは天王寺達秋氏殺害の犯人ではなかった。そのことを証明するために、数週間前から僕は捜査に協力をしていました」

「えっ……俺が、殺人事件の犯人ではない……!?」

 当然、その通りである。傍から見ればおかしな反応かもしれないが、無実の罪によって疑いを掛けられていた姫路にとっては、警察内部にも真剣に捜査をしてくれている人物がいると知ったことは驚きでもあったのだ。

「はい。……今から少しお時間をください。すぐに終わりますから」

 そう言って、小林は一歩足を踏み出した。

「まず、あなたに疑いが掛けられた理由の一つとして、被害者が自宅マンション近くの廃アパートで殺されたこと、そしてあなたが彼と知り合いであり、尚且つ被害者の死亡時刻に現場に行けるだけ時間的余裕があったことが挙げられます」

「あ、ああ……」

 確かに、刑事にも言われた記憶があった。

「そしてもう一つ。被害者は首を絞められて殺害されましたが、その際の凶器として、あなたが使っていたネクタイ同じネクタイが使用されました。しかも、同時期にあなたはネクタイを紛失している」

「…………」

 寧ろ、そちらの証拠が圧倒的に不利なのだろう。

「姫路さん。現場の状況はあなたが犯人であることを如実に示していますが、これは冷静に考えると却って怪しい。時間的余裕の有無はともかく、持ち主の特定が明らかに可能な凶器を現場に残していくなんて、殺人を犯した犯人の心理を考えれば、まずあり得ない。

 そうすると、何者かがあなたに罪を被せようとして、あなたのネクタイを使用したと考える方が自然な状況です」

「……何者か?」

「ええ。まあ、簡単に考えれば……あなたの奥さんか、会社の同僚か、良く会う間柄の人間か……。とにかく、あなたのネクタイを手に入れられる人物でしょうね。

 特に、あなたが酔って前後不覚になっていた時……。つまり、殺人が行われた時、あなたと一緒に飲んでいたという二人の方が怪しい。僕はそう考えました」

「民田と宰原が……!?」

 脳裏に二人の顔が浮かぶ。一ヶ月前、喧嘩別れをしてから一度も会っていなかった。

「ええ。その二人が最もあなたのネクタイを手に入れやすい位置にいます」

「だ、だけど……民田も宰原にも犯行は不可能だったはずだ。あいつらは天王寺を殺せるくらい長い間、席を外すことはなかったはず……」

「それについてはあなただけではなく、居酒屋の店員さんも覚えていました。確かに二人のどちらにも時間的余裕が無い。だから、一見不可能に見える」

 小林は瞑っていた瞼を開いて、姫路の顔を真正面から見据えた。

「本当に、殺人が廃アパートで行われたのならば、ですが」

「えっ……?」

 小林の言っている意味が一瞬解らなかった。しかし、すぐにその意味が解るようになった。

「他の場所で天王寺は殺された、ということですか……?」

「……被害者が現場近くの廃アパートで殺されたことの根拠は、被害者自身が殺される直前、交際相手に自宅にいるという旨の連絡をした、という一点です。ですが、そこに嘘があった」

「天王寺が嘘を吐いていた……?」

「はい」

「な、なんのために、殺された奴が嘘なんか……」

「例えば……。過去、狙っていた女性に二人で会おうと呼び出されたとしたら、束縛の強い彼女に嘘を吐いてまで会いに行ったとしても、何の不思議もありませんね」

 ……姫路の脳裏に、一人の顔がくっきりと浮かんだ。

「それって、宰原のことか?」

「ええ。ただ、彼女を犯人とするのはまだ早い。隣に座る人物に成りすまして人を呼び出すくらいであれば、本人でなくとも可能でしょう。それに、宰原さんは居酒屋の外には出ていない。と、なると……」

「まさか……」

「はい。天王寺達秋氏を殺害した犯人は、電話という名目を持って十分程度店外に出ていた人物。……民田道保さんです」

「民田が……!?」

「民田さんは、宰原さんの姿と名前を使って天王寺をこの公園に呼び出しました。そして時間を見計らって、電話をすると言って店の外に出た。もちろん、あなたが酔って外したネクタイを持ってね。と言っても、あなたがネクタイを外すことは誰にも予見出来ませんから、これはその場の成り行き……つまり、自身が罪を逃れる確率を少しでも上げるために行ったことでしょう。

 さて、店の外に出た民田さんはこの公園までやって来て、宰原さんを待っていた天王寺の首を絞め、殺害した。これだけであれば十分もあれば可能な犯行です。死体は公園の茂みにでも隠しておいて、飲み会が終わった後に改めて廃アパートに運んだ」

「そういう……ことだったのか……」

「ちなみに、ですが」

 隣に立っていた野呂が前にずいと出てきた。

「民田は今朝、逮捕しました。天王寺の携帯電話は処分されていて見つかりませんでしたが、本人の携帯から天王寺に送った呼び出しメールが見つかった。決定的な証拠ですね。それに、宰原さんが証言をしてくれました。民田があなたのネクタイを持ち去るところを見たと言ってね……。尤も、彼女は民田に好意を抱いていて、今まで黙っていたようですが」

 民田が天王寺を殺し、その罪を自身に擦りつけようとした。非現実的な出来事に、姫路の耳には野呂の声が遠く感じた。

「あなたは全くの無実だった。いち警察官……我が署の御門みかど刑事の暴走であなたに多大なるご迷惑をお掛けしました。本当に申し訳ない」

 野呂は姫路に向かって頭を深々と下げ、謝罪をした。御門刑事……。度々姫路の前に現れ、疑いを掛けていた小太りの若い刑事のことだろう。

 と、その時……。姫路のスマートフォンが振動した。こんな時にいったい誰だ。野呂と小林に断って電話に出た姫路は、電話の向こう側から聞こえた言葉に愕然とした。


《十月十七日──②》

 扉を開けた貴志を待ち受けていたのは、配達業者だけではなかった。中年の男と、小柄な青年……。先日コンビニで見かけた二人組も立っていた。だが、もっと前に……。

「花咲くん、ありがとう」

 小柄な青年が配達業者にそう声を掛けて、前に出てきた。

「お久しぶりです、姫路圭太郎さん。いや……今は貴志きし圭太郎さんとお呼びした方が宜しいですか」

 自身に向けられた声を聞いて、記憶が蘇ってきた。ああ、この男は……。

 小林は貴志にそう告げた。


《十一月二十八日──②》

 連絡を受けて、急いで病院に向かった姫路が見たものは、ベッドの上で死んだように眠る恭子の姿だった。

 何が起きたのか……解らない。

 姫路は、恭子がスーパーで買い物中に倒れ、救急車で運ばれたという知らせを受けて、野呂と小林に別れを告げる暇もなく病院に駆けつけたのだ。

 呆然とする姫路に、医者は告げた。

「恭子さんの意識は直に戻るでしょうが……。ただ、お腹のお子さんは……」

 その先はあまり聞こえなかった。

「奥さんは、何らかの原因で極度のストレス状態にあり、体調を著しく崩してしまったようです」

 原因は明白だった。姫路に殺人事件の犯人である疑いが掛かり、近所でも妙な噂が流れていたから……。姫路は電話に出なかったから詳しくは知らないが、実家からも一度帰ってくるよう何度も連絡があったようだ。

 恭子はやがて目を覚ました。自身が失った大きな宝物を理解し、ベッドの上で半狂乱になる恭子を、医者と看護師達は必死に抑えつけていた。

 彼女は傍らに座る姫路の姿を見つけて、叫んだ。

「来ないでよ、人殺し!」

 ──俺が、人殺し……? だが、俺は無実だ。何もしていない。何も、悪いことなんかしていない。

「全部、全部、あんたのせいよ! 全部、あんたが悪いのよ!」

 ──俺は、ただ普通に日常を過ごしていただけだ。俺は、悪いことは、何も……。

「あんたのせいで私は──!」

 ──ああ、確かに俺は人殺しかもしれない。当たり前の日常を、恭子を守りきれなかった俺は……。

 じゃあ、誰が悪い?

 ダレガワルイ?


 間もなく、姫路は恭子と離婚した。

 姫路は全てを失った 。


《十月十七日──③》

 後ろにいる中年男は、確か野呂といったはずだ。思い出した。

「一年前の天王寺の事件では本当にご迷惑をお掛けしました」

 野呂刑事が貴志に声を掛けた。

「迷惑……迷惑ね。迷惑なんてもんじゃありませんでしたよ。お陰で、俺は全部失いましたからね」

 貴志は事件が終わった後、彼女の親によって恭子と離婚させられた。謂れなき噂によってストレスを感じ、流産してしまった結果、恭子は理性を失っていた。婿入りして苗字を変えていたのは夫である彼の方だったから、離婚後、苗字を旧姓の貴志に戻した。

 残ったのは……恭子が誕生日にくれた、この腕時計だけ……。貴志は腕時計をそっとさすると、小林の顔を見据えた。この男は、敵だ。

「産まれてくるはずだった子も、妻も……友達は寄ってこなくなったし、変な噂が立ってしまったから、職も変えざるを得なかった。本当の意味で、俺は全てを失いましたよ」

「だからあなたは、冤罪の元凶である御門刑事を殺したんですね」

「……そうとは言っていません。彼が殺されたこと自体、今初めて知りました。ですが、まあ……いい気味ですね」

 貴志は先程までの震えが嘘のように、冷静に受け答えをした。

「いいえ。犯人はあなたです」

「証拠はあるんですか。例えば、指紋とか……」

 そんなものあるはずがない、と貴志は知っていた。徹底的に犯行の痕跡を消し去ったのだから。

「あるいは、凶器とかね」

「……凶器と言えば、あなたのご友人である宰原絵那さんの鞄から、御門刑事を刺し殺したと思われるナイフが発見されました。鞄からは血を擦ったような痕も……」

 貴志は笑った。つい先日、宰原と久々に会った際、彼女に事件の証拠を押し付けておいたのだ。そんなことをする必要はないと言えばなかったが、一年前の本当の犯人、民田の行動を見ていながらも黙っていた彼女に対する報復のつもりだった。

「じゃあ、宰原が犯人では? 好きだった民田を犯人として捕まえた警察に恨みを抱いていたんでしょう」

「その可能性もゼロではありませんが……しかし、現場に遺されていたメッセージが指していたのは、彼女ではありませんでした」

「メッセージ?」

「はい。御門刑事の手帳に、0、7、9、と書き損じのような棒が書かれていたのです」

 小林は写真を取り出し、貴志に見せてきた。確かに、079と書かれている。

 ああ、そういえばそんな物もあった、と貴志は思い出した。しかし、そんなものがいったい何になる?

「三つの数字と、謎の書き損じ……何のことだかさっぱりですね」

「……この書き損じはおそらく、ハイフンでしょう。『079-』……兵庫県姫路市の市外局番です。つまり、姫路圭太郎さん。あなたのことを指したダイイング・メッセージです」

 貴志は、ハッと息を飲んだ。

「御門刑事は以前、姫路市に勤務していましたからねぇ。咄嗟に頭に思い浮かんで遺したんでしょう」

 野呂がそう付け加える。

「……だけど残念ながら、今の俺は貴志圭太郎だ。俺を示すメッセージにはなり得ない」

「御門刑事はあなたが離婚したことを知らなかったから、何の不思議もありません」

「……なるほど。でも、こういう可能性は? 姫路……つまり、俺の元妻である姫路恭子が犯人だと告発したメッセージという可能性だ。彼女も御門刑事の被害者ですからね」

「……それは否定できませんね」

「でしょう?」

 その程度の証拠で追い詰めようとしていたのか? 馬鹿馬鹿しい。……そう思ったが、言葉には出さない。

「証拠はまだあります」

 小林は屈んで、貴志の左腕を覗きこんだ。

「あなたのその腕時計……。現場に落としたりしませんでしたか?」

「……いいえ」

「現場の床に垂れた血に、変わった痕が残っていました。時計の文字盤のような……」

 言われた瞬間、貴志は勝利を確信した。腕時計は一瞬たりとも外していないし、そもそも証拠になりそうな血痕は全て拭き取った。カマをかけているだけだ。

「それでは俺は犯人では有り得ませんね。だって、この腕時計は妻の大切な贈り物なんだ。壊したりしないように、基本的に家の中だけで使っているんです。ましてや出先で外したりするなんて絶対にない」

「……本当ですか?」

「もちろん。誓いますよ」

 その瞬間、小林は小さく息を吐いた。その瞳には色が無い。代わりに、眉が少し歪んでいる。

「野呂さん、今の言葉、確かに聞きましたね」

「はい、しっかりと」

 何故だ? 何故、そんな顔をする?

 貴志の混乱を余所に、小林は続ける。

「騙すような真似をしてすみません、貴志さん。不自然な痕が残っていたのは……本当は、被害者である御門刑事の掌だったんです。握り込んだ掌に、時計の文字盤を押し付けたような痕が残っていた」

「え?」

「殺される間際、必死に抵抗したんでしょう。そして、あなたのその腕時計を掴んだ……」

 貴志は思わず、自身の左手首に巻かれた腕時計を見た。

「仮に拭き取ったとしても、血の痕は残る。文字盤や針の裏に染み込んだ僅かな血や脂は絶対に消せません。ところで、あなたは先程言いましたね。腕時計を外で使うことは無い。ましてや、外すなんて絶対に無いと。それならば、その腕時計を調べさせてもらえますよね? だって、殺人現場の証拠なんて絶対に出てくる訳ないんですから。それとも、嘘でも吐きましたか?」

 何か、言い逃れが出来るか。まだ、何か活路が……。

「あなたは、現場の証拠は全て消したつもりだったのかもしれませんが、あなた自身に残っていた証拠までは消し去ることが出来なかったようですね」

 そして、貴志は膝を付く。全てを諦めた。

「……やっぱり殺人なんかするもんじゃ、ないな」

「認めるんですね」

「ああ……」

 野呂が、貴志の肩を叩き、優しく起こした。

「……小林くんだったかな。君は、名探偵だな。前回も、今回も……事件を見事解決させた」

「…………」

「だけど……一年前、君がもう少し早く捜査してくれていたら……こんなことにはならなかったのに」

「貴志さん、それ以上は止めてください」

 野呂の静止に、貴志は口を噤んだ。そしてそのまま、無言で連行されていく。

 救えなかった背中を見つめる二つの眼に宿る色は、無力な黒。

「……もう少し早く、か」

 誰もいなくなったアパートの軒先で、小林は呟いた。

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小林少年の推理 クマノ @kuma_kun

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