喫茶店の甘い罠

「なぁ、小林〜……。これ、どういう意味だと思う?」

 喫茶店『Melbaメルバ』の片隅の席にて。近くにある高校、浦星高校の制服に身を包んだ二人組が、意識してボリュームを落としたようなひそひそ声で話している。

 特に熱心に話しているのは、二人のうちの片方だけだ。やや癖のある栗色の髪の少年、花咲真紘はテーブルの上に置いた桃色の平たい何かを指差して、目の前に座る友人に語りかけていた。

「チョコレートでしょ?」

 友人、小林想介は心底どうでも良さそうに、今にも眠ってしまいそうな覇気のない声で答えた。表情も冴えない、というよりも無表情に近い。こちらは元々声が小さい。

「それは解ってるって! そうじゃなくて、見てよこの意味深なフォルム」

 桃色の平たい何か、チョコレートは少々歪だが、雫が二つ繋がったような形をしている。

「お尻の形のチョコレート……確かに意味深だね」

「誰がそんなの作るか! ハート型だろ!」

 言ってから、花咲はつい大きくなった声のボリューム気にして口元に手を当てた。

「ほら。くるっと一回転〜」

「なるほど」

「今日、クラスで梅田うめださんがチョコレート配ってたろ? それで、おれに渡されたのがこれってワケだよ」

 花咲は気分が良さそうにふふん、と悦に入った。

「へぇ……」

「返事が適当!」

「まあ、うん」

「肯定するんじゃないよ。とにかく、小林は自分に渡されたチョコレートを思い出してみてくれって。こんなハート型だった?」

「いや、普通の円錐台だったかな。ハートが描かれていたけど」

「何それ、解り難い~……」

 花咲の後ろから、カランと氷の音がした。

「お待たせしました。ご注文のメロンソーダと、ホットレモンティーです」

 先程からカウンターの中で作業をしていた壮齢の女性が、盆に乗せて注文の品を持ってきた。メロンソーダは花咲、レモンティーは小林の注文である。

「あっ、ありがとうございます」

「ありがとうございます」

 二人のお礼に女性は穏やかに微笑むと、カウンターに戻っていった。

「店主さんだよね?」

「そうみたいだね」

「ああいうパンツスタイルも格好良いよね~」

 店主は白いワイシャツに洒落たネクタイ、スラックスというシンプルな出で立ちであったが、喫茶店という場になかなかマッチしていた。

「……あ、これ」

「ん?」

「円錐台」

 小林は、ホットレモンティーに付けられたガムシロップを逆さにして花咲に見せた。円錐を半分に切った、土台部分の方の形である。

「その形、円錐台っていうんだ……」

「うん。さっきのチョコレートの話。基本的に皆にはこの形のチョコが配られてたよね」

「そうそう! チョコの話をしてたんだ、忘れてた。で、小林もそうだし、国木田と英にも訊いてみたけど、全員普通のチョコだった。ハートは描かれてたけど。なのに、おれだけチョコそのものの形がハート型だったんだよ。それに気が付いた瞬間、灰色の脳細胞がフル回転しちゃったね。……梅田さんはおれのことが好きなんだよ!」

「でもさ、今は十一月だよ」

「それがどうしたんだよ」

「例えば、二月ならバレンタインとかでチョコレート配ったり、好きな人に少し気合いを入れたチョコレートを渡すのは理解出来るけど。でも全然時期じゃないし、それなら適当に配っただけじゃないかな」

「違う! このチョコには心がこもってるもん、おれには判るよ」

「うーん……あ、ほら」

 小林がスマホを操作して、花咲に画面を見せた。

「ん?」

 政治家の辞任、人気アイドルグループの武道館ライブが大盛況、電子パッド最新モデルの発表会先行開催……様々なニュースの中の一つに、テレビ番組で紹介されたチョコレート菓子について書かれた記事があった。記事内のチョコレート菓子は、ハートが描かれている以外は今日配られたものと瓜二つである。クラスメイトの梅田は昨夜の番組を見たか、あるいは記事を読んで影響され、菓子作りに励んだのだろう。

「だから、特別な意味はないんだよ」

「じゃあ、何でハート型なんだよ~」

「それは多分……」

 今日、クラスで起きた出来事について語る二人組。実に高校生らしい下らない話に花を咲かせるうちに、主に花咲の方の声が大きくなってきた。殆ど店内に丸聞こえだ。尤も、他にお客さんはいないし、店主さえ許しているのであれば大して問題はないとも言えるが、他にお客さんが入って来たならば別である。

「いらっしゃいませ」

 新たなお客の来店を知らせる涼やかな鈴の音が止まないうちに、店主の挨拶が聞こえた。小林と花咲のお喋りも何となく中断する。

「四人で」

「お好きな席にどうぞ」

「あー、疲れた」

「寒い寒い! 温かいコーヒー飲もぉ」

「ねえー、もうちょっとだけそっち詰めてくれるかしら」

「荷物こっちに置く?」

 新しい客は、女四人組だった。

「ご注文は?」

「私はホットコーヒー」

「メロンソーダ一つ」

「ええ、めぐみ、そんな冷たい物飲むのぉ?」

「別にいいでしょ」

「そうだけどぉ。じゃあね、あたしも里花りかと同じホットコーヒー」

「やっぱり、寒い時期はホットのコーヒーよね。ゆきなは?」

「わたし? わたしは、パフェとかー……」

「あははは! それ飲み物じゃなぁい!」

凜子りんこ、ちょっと声大きすぎ。……ゆきな、パフェはあとにしたら?」

「そうねー……じゃあパフェは後にしてー、ホットミルクティー……」

「決定でいいね? すみません、それじゃあその四つでお願いします」

「かしこまりました」

 彼女らはああでもないこうでもないと騒ぎながら店主に注文を伝え終わると、またお喋りに興じ始めた。飲み物を準備しにカウンターの奥へ引っ込んだ店主の表情が、先程二人の対応をした時よりも固く感じたのは、決して花咲の勘違いではないだろう。やはり、あまりに騒がしいので少々うんざりしているのだろうか。

「あんたって本当甘い物好きよね」

「だってー、美味しいじゃない」

「わかるけどぉ。あたしも好きだしねぇ」

「凜子は食べ過ぎなんだよ」

 花咲と小林は、四人の言動に自然と耳を傾けてしまっていた。

「……ライブ帰りかな」

 小林が小さい声で囁く。

「ライブ……確かに平日の夕方に女性が四人も集まってたら、そうかもな」

「いや、そんなことで決めた訳じゃないよ。ほら、靴と髪型……」

「靴と髪型?」

 小林の言葉に、花咲は後ろをさり気なく振り向いた。花咲から見て背中側に四人が座っているので、こうでもしなきゃ何も見えない。

 四人組は壁際の大テーブル席に座っていた。椅子の下から脚が見える。奥の二人は良く判らないが、手前の二人はそれぞれ地味なパンプスと、ラフなサンダルを履いている。服装は綺麗にしているだけに、言われてみれば気になった。

 続けて、あまり不自然にならないように四人の髪を見る。手前の二人は肩程の長さ、奥のカウンター側に座っている女性は、長い髪を一つ結びにして肩に垂らしていた。そして奥の壁際の女性が、長い髪をお団子にまとめているところだった。

「解った?」

「う~ん……イマイチ解んない」

「観察力が足りないなぁ、花咲は」

 小林は、ポーカーフェイスを崩さないまま、幾分か得意気な声を出した。

「さっきあの人達が店に入ってきた時、足下を見たんだけど、誰もヒールの付いた靴を履いていなかった。服には拘りがあるように見えるのに、やや不自然だ」

「うん」

「また、髪型についても、誰一人としてボリュームをアップさせるような髪型をしていない。なのに、奥の人は今になって髪をお団子にまとめ始めている。ストレートにしていた髪を今更ね」

「そういう風に言われれば気になるけどさ、それがどうしてライブ行っていたことになるの?」

「ライブに行く人じゃないと解らないかもしれないけど……。後ろの人に配慮して、ヒールの高い靴は履かない、髪は大きく上げない。っていう暗黙のルールがあるみたいだよ」

「なるほど!」

「ついでに言えば、同じ種類で色違いのキーストラップが全員のバッグに付いている。何か文字も書いてあるみたいだけど……多分、『EMPIREエンパイア』じゃないかな」

 最近、人気急上昇中のアイドルグループだ。そういえば、ついさっき、小林にニュースを見せられた時に、どこかのアイドルがライブ中とか書いてあったような……? 花咲は自分のスマートフォンでニュースを開いた。『人気アイドルグループ・EMPIRE、武道館ライブのチケット完売、大盛況』。

「小林、相変わらず──」

「それ程でも……」

「女の脚とか髪ばっか見てて、キモいな〜……」

 僅かに綻びかけていた鉄仮面はすぐに修復されて、再び元の無表情に戻った。そして、花咲の鼻柱にチョップをお見舞いする。

「痛っ……冗談だって。ジョーク」

「面白くない」

「え〜。でも、事実じゃん」

「観察眼が鋭いって言ってほしいな」

「物は言いようだ」

「横目でチラチラ見るしかないむっつりスケベな花咲とは違うから、僕は」

「はいはい、拗ねるなよ〜」

 女性達には聞こえないようにひそひそ声で、花秋は小林と下らない言い合いをする。

 やがて、二人の目の前にあったホットレモンティーとメロンソーダは空っぽになった。

「小林、そろそろ帰る?」

「うーん……これだけ食べたい」

 そう言って小林が指差したのは、メニューの一枚目に載っているはちみつシフォンケーキだった。実に甘ったるそうで、花咲は見ているだけで胸焼けがしてきた。

「昼の弁当も山盛りだったのに、ホントよく食べるね〜」

「健康的ということだよ」

 小林は手を軽く挙げて、店主を呼んだ。

「はちみつシフォンケーキを一つください。花咲は?」

「え? じゃあ、おれは……桃アイスを一つ」

「はい、少々お待ちください」

 店主が去ると同時に、「ごめん、電話来た」と言いながら女の一人が花咲達の横を通った。女はそのまま店外に出る。

「恵、行っちゃったよぉ」

「どうせすぐに戻ってくるでしょ。それより、次の注文したいんだけど……」

「恵が戻ってくるまで待ってたらー?」

「時間掛かるじゃない。先に頼んじゃいましょうよ」

 女達は店主を再び呼びつけて、二回目の注文をした。

「私ココア」

「じゃぁ、あたしは、ホットレモンティー」

「わたしもココア。あとー、そうねー……パフェ一つ」

 少しくらい待ってやればいいのに。花咲の心なぞ当然知らない三人は、世間話で盛り上がっている。

 やがて、花咲と小林のテーブルに、はちみつシフォンケーキと、桃アイスがやって来た。

「お待たせいたしました」

 店主のお盆には飲み物も載っている。後ろの席の女達の飲み物だろう。

「お待たせいたしました」

「ねえねえ、里花のココアも一口頂戴よぉ」

「あんた、本当意地汚いわね。ちょっと待って、私が飲んでからよ。……はい、どうぞ」

「ありがとぉ。……うん、美味しい!」

 その時、店外に出ていた一人が戻ってきた。

「あっ、何? 先に二回目の注文しちゃったの?」

「恵が遅いからよ。五分くらい電話してたんじゃない?」

「仕事の電話だからしょうがないでしょ」

「まあ、わたしも仕事の電話、よくあるしー……」

 そこで、女のうちの一人が一際大きな声を上げた。

「ヤダ! ちょっと、袖が汚れてんだけど! 染みになってるし、信じらんない!」

「あー、机に雫が溢れてたのよー」

「サイテー……。この服高かったのに!」

「里花、とりあえず水道で洗ってくればぁ? 放っとくと汚れ落ちなくなっちゃうよ」

「はぁ、あのババア店長が乱暴にココア置くから……! ゆきな、染み落とすの手伝ってよ」

「えー……あっ、言った傍から電話がきちゃった。私はちょっと出るから無理ー」

「ちょっと、ゆきな……!」

「わたしが行こうかぁ?」

「じゃあ、凜子でいいわ……」

「いってらっしゃい」

 どうやら、里花と呼ばれている女の服が飲み物で汚れてしまったようだった。彼女は友達を連れ、ぶつくさと文句を言いながらお手洗いへ向かった。

 小林は冷めた目付きで、扉の向こうへ消える女の背中を見つめていた。

「な〜んか、雰囲気悪いね……」

「うん。あの里花って女の人、だいぶ我儘な女王様みたいだ」

 すると、後ろから大きい溜息が聞こえてみた。

「はぁ……本当、騒がしいんだから」

 残された一人が呟いたようだった。

 しばらくして、店のドアが開閉されたことを知らせるベルが鳴った。電話をしに外に出てた女性が戻ってきたようだ。

「あらー……。里花、まだ戻ってきてないのね」

「うん」

「わざわざ凜子まで連れていったの?」

「そう。大騒ぎしながらトイレに行ったよ」

「大袈裟ねー……」

 そこで、お手洗いについていっていた一人も戻ってきたようだった。

「あれ、凜子。里花は?」

「いつまでも袖、洗ってるんだもん。嫌になって戻ってきちゃった」

「じゃあ、私が見てくるわ」

「はいはい、行ってらっしゃぁい」

 入れ代わり立ち代わり、忙しい人達だ。

「里花ってば、ホントうっざぁい……」

 聞こえてきた声にさり気なく後ろを振り向いて見ると、凜子と呼ばれていたお団子の女がスマートフォンを弄りながらブツブツと文句を言っていた。隣に座るゆきなと呼ばれた女は、カバンの中から出したお菓子を、包み紙を剥がしてパクパクと食べている。

 やっぱり女は怖い。贅沢は言わないから出来るだけ性格の優しい女の人と仲良くなりたい……。花咲は思った。

 間もなく、トイレに行っていた二人も席へ戻ってきた。

「はぁ……」

「お待たせ」

「どう、里花。染み取れた?」

「微妙。まあ別にいいわ」

「あら、あんなにイライラしてたのに随分落ち着いたのねー」

「蒸し返さないでよ。気にしてもしょうがないから気にしないって決めたの。ね? 恵……」

「そうだね」

「それが一番だよぉ。じゃ、どうする? そろそろ出る?」

「待って。これだけ飲み終えてから……」

 どうやら、四人組はそろそろ店を出るようだ。特に害を加えられた訳ではないものの、何となく居心地が悪かったので、花咲はホッと息を吐いた。

「僕たちも帰る?」

「うん。でも、あの人達が出てから……」

 その時、後ろから椅子を引く音が聞こえた。そして……。

「うぐっ……!」

「里花!?」

「ちょっと、どうしたの……」

「ぐ、ぐぐ」

 尋常でない呻き声。

「大丈夫ですか」

 小林が素早く立った。花咲も振り返ると、椅子から転げ落ち、背中を丸めて苦しむ女の姿があった。

「ちょっと、これ飲んで……」

「大丈夫? ねえ……」

 隣に座っていた‪〝恵〟がペットボトルの水を飲ませた。続いて〝ゆきな〟が駆け寄り、女の着ていたジャケットを捲って背中をさする。

「あ、ああ……」

 女は腕は宙を彷徨いながら虚空を掻きむしり、足はバタバタと動き、やがて細かな痙攣に変わっていった。

「里花? 里花! ちょっと、ふざけないで……」

「ああ、ぐ、く……」

 〝凜子〟が女には触れず、声を掛ける。しかし、返ってくるのは声にならない苦悶の声だけで、人間らしい反応は何もない。

「すみません」

 小林が集まる三人を除けて、倒れた女の腕を取る。暴れる女の爪が小林の頬を引っ掻いた。しかし、それでも小林はそれでも表情を変えず、手首を掴んで集中をしていた。脈を確認しているのだろうか。

「ちょっと、何よあんた」

「……店長さん。警察と、一応救急車を呼んでください」

 カウンター付近に立っていた女店主は呆然とこちらを見ていた。それでも、小林の言葉に弾かれたように動き、慌てて電話を取った。

「小林、大丈夫なのか」

 遅れて、花咲はおずおずと近づいた。

「いいや。息はまだ僅かに残っているけど、もう手遅れだと思う。残念だけど……」

「手遅れって……!」

 先程まで痙攣していた女の脚はだらんと投げ出され、時折思い出したかのように震えるだけだった。まるで、生気を感じさせない。そのことが何よりも死の証明に思えた。

「毒を飲まされたんだ。おそらくはアコニチン……」

「あんた、何勝手なこと言ってんのよ!」

 女のうちの一人が物凄い剣幕で迫ってきた。

「や、やめなって、凜子。そのさ……訳分かんないけど、とりあえず大人しくしてた方がいいんでしょ? 私達……」

「はい。この女性は毒を盛られた。同じ席に着いていた貴女達は容疑者です」

「じゃあ、本当なの? 冗談じゃなくてー……」

「う、う、嘘でしょ、ねえ、里花……」

 しかし、冗談ではあり得ないことは、血の気の引いた女の顔が、雄弁に語っていた。


「いやぁ、本当によく事件に遭遇する子達だ。警察に就職したら如何です?」

 十分するかしないかのうちに、警察官達によって店内は騒然となった。その中にいたのは、もはやお馴染みとなった野呂のろ警部である。彼は隅の席に座る花咲達の姿を見つけると、いつも通りニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべながら開口一番、そう声を掛けてきた。

「遠慮します」

「小林くん。君は相変わらず可愛くない」

 そう言いながら、野呂警部はどこか嬉しそうに笑った。

「それで、僕達にも事情聴取という訳ですか」

「んふっ、その通りです。被害者のかぶと里花は、つい先程死亡が確認されました。なので立派な殺人事件の、それも容疑者にはなり得ない、貴重な証言者です」

 ああ、死んでしまったのか。偶々同じ喫茶店で、ごく短い時間を別の席で共有しただけ。それも決してイメージの良くない人物だったが、それでも死んだとなると、気分は最悪だ。しかも、花咲は毒を摂取しのたうち回る被害者の姿までしっかりと目撃してしまったのである。……心の内に黒い靄が広がった。

「花咲。ここに来てからの出来事を話してあげてよ」

「ええ、おれが〜……?」

「んん、少し待っていただけますか。そうですね──あちらの席に移動しましょう」

 警部は、果たして意味があるのかどうか解らない席の移動を提案してきた。疑問符を浮かべる花咲に構わず、半ば強引に二人の背を押してカウンター近くのソファ席に座らせた。

「何ですか。どうしてわざわざこっちに……」

 抗議の声を上げる花咲に対し、小林は椅子に深く腰を下ろしてただ目を瞑り、黙っていた。

「小林くんはもう解っているようですが、今から後ろの席で関係者への事情聴取が行われるのです。……ところで私の役割は、事件にはあまり関係ないと思われる、しかし家に帰す訳にはいかない貴方達二人のお守りなんです。ここでしばらく、顔を突き合わせましょう」

「は? だから、どういうこと……」

「要するに……警部は僕達にも事情聴取を聞かせて、事件の真相を考えさせようって魂胆なんだろう」

 回りくどい警部の言葉を理解しない花咲に痺れを切らしたのか、小林が割って入った。

「んんっんっんっんっ……。まあ、結果的にはそうなるかもしれませんね。……あまり大きな声では言えませんが、私は使えるものは何でも使う、そういう信条でね。ここで会ったのも何かの縁。是非、知恵を貸してください」

「それって、警察としてはどうなんでしょう……」

 花咲の尤もな言い分にも、計算高い狸は笑みを返すだけだった。 

「無事、事件を解決出来れば無問題ですね。……ただ、仮にも人が死んでいる事件ですから無理をさせるつもりはありません。一緒に話を聞いて、考えを出していただければ十分です」

 言い終わらないうちに、一人目の容疑者が連れてこられた。被害者、兜里花の斜向かいの席に座っていた、髪を結び肩に垂らした女だ。

「ええっと、まずは名前を言えばいいですかー……。わたし、水泉すいせんゆきなです。その、里花とは友達で……」

 間延びした口調の、おっとりとした印象の女性だった。しかし流石に堪えているのか、声は震えを帯びている。

「事件が起きる前、何をしていたか……? わたしたち、全員が同じアイドルが好きでー、『EMPIRE』って知ってます? そのアイドルのライブに行った帰りだったんです。で、ちょっと疲れたからここで休もうって誰かが言い出して、それでお茶してただけです」

 若い刑事に促されて、水泉は本日の出来事を話し始めた。

「頼んだもの? 確か、一回目の注文は、里花と凜子がホットコーヒー、恵がメロンソーダ、わたしがホットミルクティー。で、二回目の注文も同じタイミングで、里花とわたしがココア、わたしはさらにパフェを頼んで、凜子はホットレモンティー。恵は席を外してたから水だったはず……。これでいいですか?」

 野呂警部は、黙って手帳にメモをしていた。いつもの笑みはどこかに潜んで、真剣な表情をしている。話に聞き入っているようだ。

「他に変わったこと? うーん……。あっ、そういえば、里花が倒れる直前のことなんですけどー。里花がココアを何口か飲んだ後、テーブルに溢れていたココアの雫で、里花の服が汚れたんです。この、袖のトコ……。里花ってば怒っちゃって、文句を言いながらお手洗いに染みを落としに行きました。それくらいかしら……。

 お手洗いには凜子がついて行ったみたい。わたしは仕事先から電話が掛かってきて、席を外したんです。わたしが戻ってきたらまだ二人はお手洗いで、恵しか残ってなくて。で、先に凜子が文句を言いながら戻ってきて、遅いって怒った恵が今度は様子を見に行きました。そして最後に、里花と恵が一緒に戻ってたんです。そこからは、さっき話した通り。里花がコーヒーを飲んで、倒れて……。はぁ、どうしてこんなことに……」

 概ね話し終えたのか、水泉は大きな溜息を吐いた。

「その、言っておきますけど……わたしは何もしていませんよ。だって里花は毒の入ったココアを飲んで死んだんですよね。わたし、席は里花の斜め向かいで一番遠かったし、里花のココアには触っていません。ね、わたしが犯人な訳ないでしょう?」


 次に席についたのは、お団子頭の女だ。確か、周りからは凜子と呼ばれていた。

「……うっ、ひっく、ううう、り、里花、し、し、死んじゃったんでしょ? う、うう、ひぐっ……」

 狼狽えながらも冷静さを見せていた水泉とは反対に、激しく泣きじゃくっている。……彼女が兜に対して、悪態を吐くところを見ていた花咲は、何とも言えない気持ちになった。それは小林も同じだろうか? それとも、何とも感じていないのか。しかし、普段からよく思っていなかったとしても、急に死なれてしまっては悲しみを覚えてもおかしくは無い。むしろ自然だ。

 泣く彼女が落ち着くまでに数分を要した。

「あ、あたし、久瀬凜子っていいます。その、り、里花とは高校の頃から友達で、お互いに働き始めた今も仲良くしてたの……。なのに、急にこんなことになって、ううう……。

 え、事件が起きた時……? まさか、あたしを疑ってるの? 止めてよ! あたし達、友達を亡くしたばっかりなのに……。それに、友達を殺す訳ないでしょ! それに犯人なんて判ってる! あの店長よ、あいつが里花を殺したの!」

 久瀬は、声を荒らげて警官に食ってかかった。

「だって、里花はココアを飲んで死んだのよ! それならそのココアを運んできたあいつが一番怪しいじゃない! 里花、前にもこの喫茶店に来たことがあって、その時に店長とトラブルになったことがあったみたいで……それを恨んで、里花を殺したのよ! そうに決まってる! それ以外にあり得ないじゃない!」

 若い警官は取り乱す久瀬を何とか宥めすかす。結局、久瀬は再び泣き始め、それ以上はまともな話が出来ないまま、取り調べを一旦終えた。


 次は、四人組の最後の一人。黒髪を肩の辺りで切り揃えた女だった。

「それで、名前を言えばいいの? 私、梅田恵……」

 梅田……。その名前を聞いた時、花咲はおや、と思った。どこかで聞いたことがある。そしてすぐに、クラスメイトの梅田葵の姿を思い浮かべた。そして葵が、姉がいると言っていたことも思い出した。確かに、梅田恵の顔貌が梅田葵によく似ているようにも見える。特別珍しい名字ではないものの、もしかして姉妹ではないか。そう考えた。

「皆の仕事? 私はOLで、東京の会社で働いてる。里花は別の会社だけど、近くで働いてたからよく一緒にお昼とか食べてたわ。で、凜子が小学校の先生で、ゆきなは看護師だったと思う」

 考えているうちに、梅田の事情聴取は進んでいく。先程の久瀬とは打って変わって、理性的な話が出来ているように見える。しかしそれでも顔は青ざめていて、彼女が憔悴していることを如実に表していた。

「二回目の注文が運ばれてきた時、私はいなかったけど、里花がホットココアで、ゆきなはホットココアとパフェ。凜子はホットレモンティーだったみたいね……。それで、私が戻ってすぐに、里花が騒ぎ出したんだ。テーブルに溢れてたココアで服が汚れたってね。でも里花が大袈裟なのはいつものことだから、誰も真剣に相手にしなかった。最初は里花と凜子がお手洗いに行って、そのすぐ後にゆきなが電話がきたって言って外に出た。ゆきなはすぐに戻ってきたけど、里花と凜子はなかなか戻ってこなかったけど、そのうち、凜子だけが戻ってきたんだよ。そうしたらトイレの水道で、里花がぶつぶつ文句を言いながらまだ袖を洗ってたから、私が里花を宥めて、やっと席に戻ったの。それで、そろそろ店を出ようかって時に、里花がココアを一口飲んで、いきなり倒れたんだ」

 梅田の話も、今までの二人と比べて特に矛盾する点はなかった。彼女は最後に言った。

「どうせ、私が疑われてるんでしょ? 里花が飲んだココアに毒を入れられたのは、唯一、一人で席についていた時間があった私だけだからね。でも私は犯人じゃない。誰がどうやったのか知らないけど、よく考えてみてよ。お願いだから……」


最後に、『Melba』の店主が席に着いた。

「あの、私、福地ふくじ寿恵ひさえといいます。この店の店主です……」

 水泉や梅田よりもダメージを受けているように見えた。しかし、当然とも言える。自身の店で事件、それも殺人事件なんて一大事が起きたのだから……。

「殺された兜さんとの関係? そんな、関係なんて何も……。確かに、彼女は前にもこの店に来たことがあります。その時に出したアップルパイの味が変だ、金を返せとクレームを受けたのも事実です。だけど、それを恨んで殺すなんてする訳ありません。だってあの人が今日、この店に来たのも偶然ですよ。それに、ココアに毒を入れたりしたら、私が疑われることは明白でしょう。わざわざしませんよ、そんなこと……」

 それ以降の話は特に大した内容ではなく、結果として福地から得られた情報はその程度だった。


「なるほど、なるほど」

 全員が証言を終えると、警部は何度も頷き、ニヤリと笑った。

「よぉく解りました。ええ、解りましたとも」

「犯人が解ったんですか?」

「まさか。その段階までは辿り着いていませんよ。ただ、怪しい人が誰かはよく解りました」


「被害者は、服を汚して席を立つ前に、運ばれてきたココアを数口飲んでいる。要するに、この時点ではココアに毒は入れられていなかった。毒がココアに仕込まれたのは、被害者が席を立ってからです。そして、その間に毒を入れるチャンスがあった人間はたった一人だけ。兜里花と久瀬凜子が共に席を立ち、水泉ゆきなも店外に出た。席に残ったのは一人。……梅田恵です。現時点では、彼女が最も怪しい。んん、どうです? 何か反論がありますか?」

 警部は指を立てて宣言した。しかし、本当にそれでいいのだろうか。花咲は、頭の中で密かに、別の可能性を探る。

「論理の筋道は立っています。水泉さんが戻ってきた時も、席には梅田さん一人がいた。その後、久瀬さんが戻ってきて、入れ替わりに梅田さんが兜さんを迎えにお手洗いに行き、二人一緒に戻ってきた。……梅田さんだけですね、毒を入れるチャンスがあったのは。ですが、他の可能性はどうでしょう? 例えば、飲み物本体ではなく、カップの縁の一部分だけに毒が塗られていた、とか」

 小林の提示した可能性に、野呂警部は首を振った。

「んん、それはありませんねぇ。カップから毒は検出されませんでした。あくまで、飲み物からだけです」

「では、毒は兜さんがココアを口にする前から仕込まれていた。例えば、運ばれてくる前に、毒の入ったカプセルが入れられていて、最初に口にした時はカプセルがまだ溶けておらず、死に至ることはなかった。しかし、二回目に飲んだ時は毒が溶け出していて、兜さんは死んでしまった」

「それもあり得ません。何故なら、ココアからカプセル等の成分が検出されていないからです」

「……それでは、現状はやっぱり梅田さんが第一容疑者だとしか言えませんね」

 二人の間で、梅田恵が犯人だという前提の話が進められていく。

 花咲は「トイレに行ってくる」と言って席を離れた。トイレに行きたくなったのは本当だが、場の空気が何だか居た堪れなくなったのもまた事実である。

 店内奥の窪んだスペースに水道があり、その右側に女子トイレ、左側に男子トイレがあった。トイレの扉は死角になっていて、店内からは見えない。花咲は、水道の前で佇む二人を見つけた。梅田と久瀬だった。

「凜子、落ち着きなよ」

「これが落ち着いていられる? 里花、死んじゃったし、それにあたしまで死んでたかもしれないんだよ?」

「あんた、人の飲み物を飲む癖あるもんね」

「う、うう……。でも、ショックだけど、里花にはやっぱりバチが当たったってことのかな……」

「それって……」

「うん、里花、よく気に入らない飲食店でクレーム騒ぎ起こしてたでしょ? 食器に洗剤が残ってたとか、食べ物に虫が入ってたとか……。だから、里花が倒れた時、今回も冗談だと思ったんだよ。あたしもゆきなも……。でも、本当に毒が入ってて死んじゃうなんて。そんなことしてたからバチが当たったんだ……」

 花咲は耳をそばだてて、二人の話を聞いていた。しかし、つい床を鳴らしてしまう。

「誰!?」

 小さな音を聞き漏らさなかったようで、久瀬が大声を上げた。

「あ……ごめんなさい。トイレに行きたくて」

 バツの悪い表情を浮かべた花咲が二人の前に出ると、久瀬は怒りを顔に滲ませ、何も言わないまま店内に戻っていった。

「はぁ……。君、聞いてたんでしょ?」

 梅田が溜息を吐きながら言った。

「えっと、はい……。少しだけですけど」

「あっそ。……里花は酷い人間だったけど、それでも殺されていい理由にはならないよね。直接被害を受けた人には、そんなこと言えないけどさ……」

 梅田の言葉に、花咲も小さく頷く。一瞬、居心地の悪くない空気が流れた。花咲は、チャンスだと思い、訊きたかったことを訊くことにした。

「あの、ところで梅田さん。もしかしてなんですけど、浦星高校の三年生に、妹とかいませんか?」

「え? どうしたの、突然。葵って妹がいるけど……」

 思った通りだった。

「やっぱりそうなんですね! 実は僕、梅田葵さんのクラスメイトで。名前も一緒だったし、何だか似てるなとも思ってたから。あ、だから何って話ですよね」

 彼女は驚いたようで、大きな眼をさらに丸くさせた。

「へぇ、それは驚いた。君、名前は何て言うの?」

「あ、おれ、花咲って言います」

「花咲くんね。オッケー、覚えたよ。……それで、刑事さん達にはやっぱり私が疑われてるのかな? 私だけ一人になった時間があったから……」

「さ、さあ。おれには判りませんけど……。でも、梅田さんは犯人じゃないと思います。根拠なんてないですけど……」

「うん、私は犯人じゃない。そう思ってくれるだけでもありがたいよ。……君も見てたかもしれないけど、事件前に私、一回席を外したんだ。それがアリバイになればよかったんだけど、事件には全然関係ないしね」

「ああ、そういえば……」

 花咲は、言われて初めて、梅田が席を外したことを思い出した。あの時は名前も知らなかったから注意深く見なかったが、確かに店外に出ていた。

「梅田さん、どれくらい席を外してたんですか?」

「二回目の注文を取る前にはもう席を外してた。戻ってきたら既に新しい飲み物が置かれてたよ。私は、注文が伝えられなくて水が置かれてたんだけど……」

「…………」

 その時、花咲は一つの可能性に思い至った。

「あの、梅田さん。もしかしてその時、テーブルの上ってこんな状況じゃなかったですか……?」

 花咲が指し示したに、梅田は頷く。

「うん。そういえば、そうだったような……」

 確信した。梅田恵は、犯人では有り得ない。……では、誰が犯人なのか?

「梅田さん、ありがとうございます!」

 花咲はトイレに行きたかったことも忘れて、急いで席に戻った。その途中のテーブルに、鞄と様々な物が置かれていた。警察官が一つ一つ手にとって調べている。横には水泉ゆきなが立って、不満そうな表情を浮かべていた。なるほど、水泉の持ち物を検査しているのか……。化粧品が入っているポーチ、小さな財布、何かの鍵に、幾つかのチョコレート……。チョコレートの中にはハートの描かれた、台形のチョコレートも見える。ああ、あれの中にトロッとしたフルーツソースが入っているのかな……。

「……!」

 瞬間、花咲の脳内のパズルが完成した。雷鳴のような閃き……。

「解ったかも……!」

 花咲は急いで席に戻った。野呂警部は既に席を立って、向こう側で部下の刑事と話している。出来れば警部にも聞いてほしかったが仕方ない。花咲は、息を切らしている自身の姿を不思議そうな眼で見つめる小林に推理を聞かせた。

「──ねえ、どうかな」

 話を終えて、花咲は小林の顔を覗き込む。その顔は、何かをじっと考えているようだった。

「こ、小林?」

「……うん。それじゃあ、君の推理が合っているか、僕も推理してみようか。皆の前で……」

「皆の前でって……ええ!?」

 てっきり、自分の考えが披露されるのかと考えてしまって慌てた。

 しかし、小林は小さく笑って首を振った。

「大丈夫。君の考えを丸ごと貰って話すなんてことはしないから。僕は僕なりに考えたんだ。……さあ、答え合わせの時間だ」


「小林くん。事件の真相が解ったとは、本当ですか?」

 野呂警部が、小林に問いかけた。

 小林は兜達の座っていた席の横に立ち、頷く。

 周囲には花咲や警官の他、関係者達も全員揃っていた。

「嘘は言いません。兜里花さんを殺した犯人はこの中にいる。……ですが、確信に至ってはいない。だから、皆さんも僕と一緒に、真実について一つ一つ考えてみましょう」

「はぁ……」

 野呂警部と小林が黙ると、店内はいよいよ静寂に包まれた。

 容疑者の女三人も店主も、そして警察官達も、じっと黙って小林の姿を捉えている。

「それで、犯人は一体誰なんです?」

 野呂警部の一声に呼応したかのように、久瀬凜子が声を上げた。

「そんなの判ってるでしょ! あの店長よ! だって、里花は毒の入ったココアを飲んで死んだのよ! だったら犯人はココアを作った店長だけでしょ!」

 理性の無い告発に女店主の福地寿恵は顔を顰めるに留めた。

「店主の福地さんを犯人だと決めつける根拠がそれだけなら、結論を出すのは早いですよ、久瀬さん」

「どうしてよ!」

「兜里花は、運ばれてきたココアを一度飲んでいるからです。つまり、毒を飲まされたのはココアが運ばれてきたよりも後。そうなりますよね?」

「……それは、そうだけど。じゃあ、カップの反対側の縁に毒が塗られていたってのは? それで、持ち手を変えて飲んだ時に毒を飲んじゃったとか」

 久瀬は更に食い下がってくる。

「それもあり得ません。不確実な方法である、というのはこの際問題にはしません。しかし、単純にカップからは毒が検出されなかった。あくまで、ココアに直接混入されていたからです」 

「じゃあ、カプセルか何かに毒が入っていて、その毒が溶け出した頃に里花がココアを飲んで死んじゃった、っていうのは有り得ない?」

 次に声を上げたのは梅田だった。しかし、この推理にも小林は首を振った。

「僕も考えましたが、有り得ないそうです。何故なら、ココアからカプセルの溶け残りや成分が検出されなかった」

「科学捜査って万能ね……」

 梅田は息を吐いた。

「そうすると、福地さんがココアに毒を入れて運んだとは考えられない……。ところで、兜さんは毒を飲む直前に、お手洗いに行っていますよね」

「そうねー……。服が汚れたから、染みを落としにお手洗いに行ったのよ」

 水泉が小林の言葉を肯定する。

「では、考えられる可能性は一つ。本人の見ている眼の前で毒を入れるのはまず考えられない。そうなると、兜さんが席を外した隙に、毒を混入させた」

 ゴクリと唾を飲む音が聞こえた。それが、容疑者のうちの誰のものだったかは判らない。

「兜さんは服が汚れたと騒ぎ、久瀬さんを連れてお手洗いに行きました。同時に、電話が掛かってきた水泉さんも席を離れた。梅田さん一人が席に残り、しばらくして水泉さんが戻ってきました。その後、久瀬さんがお手洗いに兜さんを置いて席に戻り、梅田さんが兜さんの様子を見に行くと言って席を離れ、二人で戻ってきた。これで全員が揃い、店を出ようとした時に兜さんがココアを飲み、倒れてしまった……」

 一旦、言葉を区切る。

「人目を憚って毒を入れることが出来た人物は唯一人。……梅田恵さんです」

「…………」

 やっぱりね。そう言いたげな表情を浮かべて、梅田は俯く。だけど、それは違う。花咲の頭にはもう一つの推理が浮かんでいる。そして、それは小林にも……。

「と、僕は考えていました。ついさっき、一つの可能性に思い至るまでは……」

「可能性、ですか?」

 野呂警部が再び問いかける。

「はい。……梅田さんは、本当にココアに毒を入れることが出来たのか? 不可能だったのではないか? そういう可能性です」

「何故です」

「では、水泉さん、久瀬さん。貴女たちは、事件が起きた時の席順通りに、椅子に座ってください。それと、僕が兜さんの代わりに席に座ります。そして、野呂警部。貴方は梅田さんの代わりを務めてください」

 小林の要請に、水泉と久瀬は訝しみながらも、席に着いた。小林は、奥側の席。久瀬は小林の向かい。水泉は斜向かい。小林の隣だけが空いている状況だ。

「解りましたが、私はどうすればいいのです?」

「二回目の注文をする前に、梅田さんは電話が掛かってきたため、店の外に出ました。警部も一度外に出てください。呼ぶまでは入ってこないでくださいね」

「はぁ……」

 言われて渋々といった様子で、警部は店外に出ていった。

「それでは、福地さん。お手間ですが、すみません。僕にココア、久瀬さんにホットレモンティー、水泉さんにココアを持ってきてくれますか」

 福地も首を傾げながら素早く飲み物を準備し、小林達の座るテーブルの上に飲み物を置いた。一番外側に座る水泉が、置かれた飲み物を全員の前に配る。空いている梅田さんの席には水のグラスだ。

「後は誰でも良いので警部を呼びに行ってください」

 若い刑事が一人、店外に立つ警部を呼びに行った。

「その間に、久瀬さん。貴女はもう一つ行動をしましたよね。兜さんに出されたココアを貰うという行動を」

「え? ああ、そうね……」

 久瀬が、小林の前に置かれたココアのカップを手に取って、口をつけた。といっても流石に飲む気にはなれないのか、あくまでフリだ。

 同じタイミングで、野呂警部がのたのたと戻ってきた。

「小林くん、寒かったですよぉ」

「ベストタイミングです、警部。では、僕は兜さんの代役ですので、久瀬さんと一緒に席を立ちます。それと、水泉さんも……」

 席に残されたのは打って変わって、野呂警部一人となった。

「ここで、梅田さんは毒を入れた……。さあ、警部。毒を入れるフリでもしてみてください」

 しかし、野呂警部は動かない。

「…………」

「警部。どうしたんです。毒を入れてみてください……。それとも、久瀬さんと兜さん、どちらのものか判別がつかないカップに毒を入れるなんて、出来ませんか?」

「……なるほどですね、小林くん。私にも意味が解りましたよ」

「そう、兜さんのココアは、直前まで久瀬さんが飲んでいた。久瀬さんの手元にココアとホットレモンティーが置かれており、それは兜さんが席を外している間もそのままだった。一方、梅田さんは二回目の注文が取られる前から外に出ていて、誰が何を頼んだのか知る由もなかった。……つまり、どちらのものか判らないカップに毒を入れるなんてこと、梅田さんには不可能だったのです」

「ああっ!」

「確かにそうだったわ……」

 久瀬と水泉が同時に声を上げた。

「じゃあ、私は……」

「はい。貴女はカップに毒を入れていません」

 梅田はホッとしたように胸を撫で下ろした。

「じゃ、じゃあ、一体誰が……誰にも毒を入れるチャンスなんてないじゃないですか」

「こういうのはどうです? 犯人はカプセルのような物に入れた毒を使った。つまり、兜さんがココアを一口飲む前から、毒は入れられていた」

「小林くん、それはおかしい。カプセルが使われた可能性は否定されたし、貴方自身もそれを理解していたじゃありませんか」

「ええ。カプセルは使われていない、僕はそう言いました。しかし、カプセルの代わりに似たような物が使われていたとしたら?」

「似たような物? なんです、それは」

 花咲は先程、見た物体を頭に思い浮かべた。小林も同じことを考えているはずだ。

「例えば、熱で溶けやすく、なおかつココアに溶けてもおかしくないもの……チョコレートなんてどうでしょう?」

「な、なんですって。チョコレート……?」

「はい。毒の入ったチョコレートをココアに入れた。チョコレートはカプセルと同じ働きをして、始めのうちは毒が溶け出すのを防いでいた。やがて、チョコレートはココアの熱で溶けて、中の毒も同時に溶け出す。兜さんは、二度目はそんな状態のココアを口にして、死んでしまった……」

 小林は、ポケットからある物を取り出した。

「そんな悪魔のようなチョコレートがここにあります。この毒チョコレートが幾つか、貴女の鞄にあるチョコレートの中に混じっていましたよ。……水泉ゆきなさん」

「……わ、わたし?」

 名指しされた水泉ゆきなは、顔を真っ青にして、震え始めた。

「はい。貴女の鞄に入っていました。持ち物検査をしていた警察官達が証人です」

「ちょ、ちょっと待ってよ。そんな馬鹿な……」

 水泉は小林に数歩近づいて、指差した。

「ゆきな……嘘でしょ?」

「あんたがやったの?」

「わ、わたし知らない。そんなチョコレート、知らないんだから。誰かが嵌めたのよ。わたしのことを……」

 そして壊れたレコードのように、震えた声で言い訳を始めた。

 彼女の声は虚しく、店内に響き渡った。


「その通り。貴女は嵌められたんですよ。真犯人にね」

 狼狽える水泉の声が響くだけだった店内に、小林の声が響いた。

「えっ……?」

 驚いたのは、容疑者達だけではない。野呂警部も、ここまで推理をしていた花咲もだった。

「花咲、君は気付くべきだったんだよ。真実への鍵を持っていたんだから……」

 小林は花咲だけに聞こえるような小さい声で言った。

「小林くん。君は一体何が言いたいんです? 水泉ゆきなが犯人だと言ったかと思えば、彼女は真犯人に嵌められたと言う」

「この、毒入りチョコレートが水泉さんのものであれば、彼女が犯人としか言いようがない状態だったかもしれません」

「ではこのチョコレートは水泉のものではないと?」

「さ、さっきからそう言ってるじゃない。わたし、そんなもの知らないって……」

 水泉は震える声で抗議をした。

 野呂は、小林の持つハートの描かれた台形のチョコレートを指差し言った。

「ですが、小林くん。そのチョコレートが水泉のものではないという証拠はあるんですか? そんなもの、どこでだって手に入りますよ」

「これが、一個人の手作りだったとしても?」

「手作り……?」

「そう。これは手作りのチョコレートなのです。誰が作ったか? それは、僕と花咲のクラスメイトの女の子です」

「は? 君はいきなり何を言い出すんです……」

「いきなりだろうが、真実です。このチョコレートはその女の子が作った物だ。僕はまだ持っていますから、証明だって出来ますよ」

 そう言って、小林はポケットからチョコレートをもう一つ取り出し、野呂に渡した。

「一つは、僕の貰ったチョコレート。もう一つが、水泉さんの鞄に入っていた毒入りチョコレートです。……どうです?」

「……た、確かにそっくりだ。全く同じ物としか思えない。でも、何故? そんな物が、水泉の鞄に……」

「不思議ですよね。一個人が作ったチョコレートなんて、不思議な偶然でも無い限り、どう頑張ったって手に入れようがない。……この場にいる一人を除いてね」

 小林が、その一人に視線を合わせた。その頃には、花咲にも既に小林の言いたいことは解っていた。

「梅田恵さん。このチョコレートを作った、僕達のクラスメイトである梅田葵さんのお姉さんである貴女になら、葵さんの手作りのチョコレートをくすねて毒を入れ、それを水泉さんの鞄に入れておく。こんな工作だって出来ますよね?」

 先程、謂れなき罪を逃れたばかりの梅田恵に、今度こそ真実の矢が突き立っている。

「貴女が、犯人だ」

「……馬鹿なことを言わないで。私が犯人とか、そんなことある訳ないでしょ? 大体、貴方が私の容疑を晴らしてくれたんじゃないの。私には毒を入れるのは無理だってね!」

「はい。確かに僕は言いました。梅田さんがココアに毒を入れるのは無理だと。ですが、犯人ではないとは言っていません」

「はあ? 屁理屈よ! じゃあ私が、どうやって里花を殺したって言うの! あんた、馬鹿じゃないの? 里花を殺すためには毒を飲ませないといけないのよ? ココアに入れた毒を! 警察もこんな馬鹿なガキの推理を黙って聞いてないで、さっさとゆきなを逮捕しないと……」

 冷静さ、哀愁、親愛、花咲に見せた全ての顔をかなぐり捨てて、梅田は言い募る。しかし、小林に彼女の言葉の毒はまるで効かなかった。

「その通り。貴女は毒を飲ませたんですよ」

「だから、どうやったのか聞いてんのよ!」

「貴女は、僕たち皆の眼の前で、堂々とね。たったそれだけの、簡単なトリックです」

「……!」

 衝撃だった。兜里花が、倒れたフリをしていた? 一体何のために? その疑問は、すぐに氷解した。

「水泉さん、久瀬さん。前にもあったんですよね。兜さんが気に入らない店にクレームをつけるために、食器に洗剤が残っていたとか、食べ物に虫が入っていたとか……そんな騒ぎを起こしたことが」

「え、ええ」

「兜さんは、今回も騒ぎを起こすつもりだったんです。……そうですね。例えば、水道で服を洗っている時。様子を見に来た梅田さんにこんなことを言われてね。『腹が立つなら、ココアを飲んで大袈裟に倒れてやったら?』とかね」

「なっ……!」

 梅田は絶句したまま何も言わない。

「言われてその気になった兜さんは、席に戻ってウキウキで作戦を実行に移した。ココアを一口飲み、大袈裟に倒れて、そして変な物が入っていた、許せない……。そう言うつもりだった。しかし、そう言う前に介抱に見せかけてペットボトルに入った水を飲まされた。他でもない貴女に、毒の入った水をね……。そして貴女は苦しむ兜さんに視線が集まった隙に、机の上の残ったココアに毒を入れたんです。

 さあ、梅田さん。貴女の鞄に入ったペットボトルを調べさせてください。犯人でないなら、出来ますよね?」

 小林の言葉に、梅田は俯いたまま、乾いた笑い声を上げた。

「……勝手にどうぞ。まあ、検出されると思うけどね、毒。……あーあ、騙せたと思ったんだけど、駄目だったか。失敗」

「恵、なんで、こんな……」

 久瀬が怯えを含んだ声で訊ねた。

「なんでって、そんなの解るでしょ。それとも、あいつがやってたことを面白がってたあんた達には解らない? 馬鹿みたいな遊びで色んな店潰してたあの女に罰を与えてやったのよ……。私が昔バイトしてた喫茶店もあいつに遊び半分で潰されたからね。私がいいお店だって勧めたばっかりに、さ……」

 そして、何も話さなくなった梅田は警察に連行されていった。

 残ったのは、ただひたすらに虚しさだけである。


「花咲、何落ち込んでるの」

 帰り道。何も言わない花咲に、小林が茶化すように話しかけてきた。

「当たり前だろ。梅田さんのお姉さんが、犯人だったなんてさ……」

「人間って、そういうもんだよ。人の心には必ず、バイアスがかかる。所謂思い込みだ。話しやすい人、少なからず好意を持っている女の子のお姉さん、同じ飲み物が好き。……小さなことが積み重なって、この人は悪いことはしていない。確証は無いのにそう思い込んでしまう。つまり、花咲の梅田恵さんに対する見方にバイアスが掛かっていたのさ。だって、本来なら気がつけたはずなんだ。チョコレートを見た瞬間に、梅田さんが怪しいってことにね」

「なんで追い打ちをかけるんだよ」

「あれ? 僕は気にすること無いよって励ますつもりだったんだけど」

「逆効果。今は黙っておいてほしい……」

「……解った。ごめんね」

「謝る必要はないけどさ」

 悪いのは、人を殺した梅田恵。だけど、彼女の罪を憎く思うには、もう少し時間が必要だった。

「まあ、梅田さん……葵さんの方ね。彼女がおれのことを好きだって可能性に懸けて、逞しく生きるよ」

 と言っても、いつまでもくよくよしていても仕方ない。小林に気を遣わせないように、花咲は空元気を出した。

「あ、そういえば忘れてたけど。あの、ハート型のチョコ……。あれってただ失敗して潰れちゃっただけだと思うよ」

「……は?」

「これは推理じゃないんだけど、聞こえたんだよね。彼女が友達と話してるのをさ。……一個失敗して潰れちゃって、桃みたいな形になったけど、桃味だし、適当なヤツにあげといたって。これって多分、君に渡されたチョコのことだよね」

「…………」

「これもまた思い込みってやつだよ。花咲は思い込みで潰れたチョコレートをハート型だと思いこんでいただけ……」

「うるさい!」

 本当に、人の気持ちが解らない奴だと、花咲はつくづく思った。

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