小林少年の推理

クマノ

友情

 ──十年前

「よお、日ノ出ひので

跳田とびたか。何だよ」

「お前、県大会のレギュラーに選ばれたんだってな」

「あ、ああ。知ってたのか」

「そりゃそうだろ。同じ部活で、同じクラスなんだからさ。にしても、オレがレギュラー落ちしたのに、去年までドベだったお前がレギュラーとはな」

「努力したんだよ」

「それさ……本当か? お前の親が監督に金を渡したって噂になってんぞ」

「…………」

「まさかの図星?」

「馬鹿言うなよ、そんな訳ないだろ」

「はは、だよな。日ノ出がそんなこと……するはずないもんな」

「当たり前だ。ああ、そうか。お前も俺の実力が妬ましいんだな。なら、さっさと練習に入った方がいいぞ」

「オレが、友達のことを妬むように見えるかよ」

「見えるね」

「ははは……」


 ──六年前

「おいコラ、跳田ァ! テメェ、ふざけんなよ!」

「な、なんだよ日ノ出! いきなり……」

「トボけてんなよ、昨日の夜、俺の彼女と……」

「あ、ああ。何だ、そのことか。違うんだって、日ノ出……」

「何だとは何だ!」

「だから誤解だって。詳しく説明するから聞いてくれよ」

「誰がお前の話なんか聞くか! 舌先三寸ではぐらかそうって魂胆だろうがよ!」

「違うって! いい加減にしろよ、人の話も聞かないで……」

「表出ろ、ぶん殴ってやる!」

「やれるもんならやってみろよ!」


 ──三年前

「日ノ出!」

「ああ、跳田か」

「お前……預けてた時計を売ったって本当か!?」

「……どこで聞いたんだよ」

「……ッ! クソが!」

「あ、くそ、何しやがる! 元はと言えば跳田が悪いんだろ! いつまでも金返さねえで、待たせやがって!」

「うるせえ! お前はあの時計がどれだけ大事なものだったのか知らないからそう言えるんだ!」

「知るかよ、あんなボロい時計……」

「ふざけんな! お前のこと、友達だから信じてたのに……ぶっ殺してやる!」

「な、おい、落ち着けよ! この……」

「殺してやる! 死ね、死んじまえ!」


 ──現在

「いつも本当にすまん、跳田……」

 男は、電話の向こう側にいる友人に語りかけた。

「気にするなよ、日ノ出。それに、どうせなら『すまん』じゃなくて『ありがとう』にしてくれ。オレだってお前には感謝してもしきれないんだからな」

「悪いな、跳田……本当に、迷惑ばかり掛ける」

「だから、謝るなって」

「ああ、そうだったな。ありがとう、跳田……」

 男は、針の先に滴る雫を見つめながら言った。

「いいよ、いいよ。これくらいはさ。だって……」


「俺とお前は、死ぬまで友達だろ?」


 夏の気配が未だ残る季節。

 八雲市郊外のマンションの一室にて、花咲はなさきは汗を拭いつつ水道修理に勤しんでいた。

「よしっ」

 漸く一段落ついたところで、火照った花咲の首筋に冷たい何かが当てられた。

「うわッ……」

 ヒヤリとした冷たさに驚いて後ろを振り返ると、間賀まが利勝としかつが朗らかな顔で笑っている。手にはペットボトルの緑茶を持っていた。よく冷えている。

「ちょっと間賀さん、驚かせないでくださいよ〜……」

「ははは……すまん、すまん。それで、調子はどうだ?」

「ちょうど今、直りましたよ」

「おお、流石に早いな! 助かったよ」

 間賀は洗面台下に新たに取り付けられた新品のパイプを眺めて、満足そうに頷いた。

「助かったのはいいんですけど……まったく、どんな使い方してるんですか? メチャクチャに壊れてましたよ」

 花咲は差し出されたペットボトルを受け取ると、それを飲みつつ不満混じりの疑問を漏らした。

「正にペットボトルさ。中身を洗おうとしたら、キャップを落としてしまったんだな、これが。で、タイミング悪く排水栓を洗おうと思って外していた。キャップが落っこちて詰まってしまった訳だよ」

「それだけでは済まない壊れ方をしていたような……」

「そんなミスで幾らか取られるのも癪だろ。だから自分で何とかしようと思って工具やら突っ込んで、余計に壊してしまったんだよ……」

「はぁ……今度からは気をつけてくださいね」

「解った、解ったよ。次はすぐに呼ぶさ。小林万事店さんは結構良心的って知れたからな」

「気をつけてくださいって言ってるんですが……」

 本当に理解したのか怪しい笑みで、間賀は花咲の肩を叩いた。馴れ馴れしい人だ。


 花咲が間賀の自宅を出ると、既に日が傾きかけていた。湿気が混じった不快な暑さに顔を歪めた時、周囲が騒がしいことに気がついた。

 不審に思いつつも玄関ロビーまで歩を進める。間賀も騒ぎが気になったのか、後からついてきた。数人の人集りが出来ている。このマンションの住人だろうか。

 大きなガラス扉の向こう側には、救急車が停められているのが見えた。事故か何かがあったのだろうか?

 花咲は俄かに不安を覚えた。

「何かあったんですか?」

 間賀が人集りの中にいた女性に、何が起きたのかを訊ねている。

「さあ、アタシも詳しくは判らないけど……二〇三号室で、人が倒れてたみたいよ」

「えっ……? まさか、日ノ出に何かあったんじゃあ……」

「間賀さん、何か心当たりがあるんですか」

 花咲が何事か感づいたらしき間賀に、更に訊ねた。

「えっと、いや……。日ノ出つとむっていう大学時代から付き合いがある友達が二階に住んでるんだけど……まさかな……」

 間賀が心配そうに呟いた時、騒ぎが一層大きくなった。

「退いてください! 怪我人が通ります、退いて!」

 制服を着た救急隊員が、階段を降りてきて、大声を上げる。その後ろから、ぐったりとした男が担架に乗せられて運ばれてきた。

「おい、日ノ出! しっかりしろ、死ぬな! 日ノ出!」

 担架の横について、必死に声を張り上げる男がいる。やはり怪我人は、先程間賀が心配していた日ノ出という男で間違いないようだ。しかし、そうなると日ノ出に呼びかけている男はいったい誰だろう。その形相は今にも日ノ出の身体に手を掛け、揺さぶりだしそうに見えて、はらはらする。

「……やっぱり日ノ出だ。それに、跳田までいるじゃないか」

 間賀が言った。

「跳田さん?」

「ああ。あの担架の横で日ノ出に呼びかけてる奴。あいつも大学の同級生で、同じ学部だったんだ。跳田は日ノ出と仲が良いんだが、しかし……」

 間賀は思うところがあるかのように何か言い掛けたが、口籠ってしまった。

 叫ぶ男も救急隊員も、人集りに目をくれる訳も無く、素早く救急車に乗り込むと、走り去っていった。

「何があったのか気になるな。後で跳田の奴に訊いてみるか。……ああ、花咲くん、今日はありがとう。代金はさっき現金で払ったよな? それじゃあな……」

 間賀は言って、自室へ戻っていった。

 人集りもいつの間にか散っている。それ以上ここに佇む理由も無い。事の展開が気になりつつも、花咲は店に帰ることにした。


「……あ、花咲。お帰り」

 花咲が万事店に帰ると、応接スペースのソファでだらけていた小柄な青年がだらけた声で迎え入れてくれた。店主の│小林こばやしである。手には携帯ゲーム機を握っている。いつもプレイしている物より数世代古いタイプだ。

「ただいま~……って、小林。おれに仕事行かせて、自分はゲームやってたの?」

「倉庫を漁ってたら昔のゲーム機を見つけちゃったから、つい、ね。でも別にいいでしょ。前回の一人仕事の時は僕が行ったんだから」

 花咲の物言いたげな視線に、小林は悪びれることもなく言い訳をする。

「まあ、それはそうだけど」

「もちろん、ゲームしてただけじゃないよ。今日の夕食の食材、買っておいたから」

「あ、そうなんだ」

 花咲は、カウンター奥の畳間に上がると、作業着を脱いで、冷蔵庫を開けた。

「今日、魚焼くって言ってたよね。ちゃんと買ってきてくれた?」

 返答は聞こえない。

「ん~……あれっ。ん? 魚、無い……」

 冷蔵庫に新たに入れられた形跡があるのは……豚ヒレ肉だ。

「お~い、小林。なんか肉、増えてるけど」

「……今日、トンカツ食べたいな」

「ええっ、この暑いのに!? おれ、そんな気分じゃないんだけど……」

「ごめん、もう買ってきちゃったからさ」

 畳間から顔を出して睨むと、既に小林の姿はない。応接スペースのソファの背もたれ越しに、髪の毛と足が見える。小林はまたソファに寝転がってゲームを再開しているようだ。花咲は溜息を吐いた。

「解ったよ。今日は特別ね」

 今更文句を言っても仕方無い。折角の食材を無駄にするわけにはいかないし、一旦は折れるしかない。花咲は食事の準備に取り掛かった。

 小林万事店は現在、店主の小林想介と副店主の花咲真紘のたった二人で営業している。大学を卒業後、八雲市郊外で安く売り出されていた廃墟同然の空き家を二人で資金を出し合って購入し、必死の思いで改装をしたのである。そこまでして何故万事店──要するに何でも屋──なぞ始めたのかというと、そこは小林、花咲両人の異なる主義主張の結果によるものだとしか説明のしようがない。

 卒業後、小林と共に探偵事務所を開きたかった花咲。同じく花咲と共に、探偵業のみを除き、何でもいいから面白そうなことをしてみたかった小林。頭脳労働はいまいち自信がないものの、割と卒なく何でもこなし、交渉事等のコミュニケーション能力の高い花咲。推理や頭脳労働は得意だが、マイペースで協調性に欠け、力仕事等には自信がない小林。互いの希望進路、得意分野を擦り合わせていった結果、折衷案として最終的に採決されたのが、万事店という選択である。この場で二人は町の小さな困り事を解決する何でも屋を営みながら、時折、事件捜査の協力等を行う兼業探偵として日々の生活を送っているのであった。

 まあ、生活面においては先述の通り、炊事は専ら花咲の仕事で、二人で協力しているのは洗濯、掃除だが。

 数十分後、美味しそうな料理がちゃぶ台に並ぶ。小林ものそのそと畳間に上がってきた。

 いただきます、と手を合わせて揚げたてのトンカツをつつきながら、花咲は今日の出来事について小林に切り出した。

「そういえば、今日行ったマンションでさ……」

 救急車が来ていて、男性が運ばれていたことを話す。

「ふぅん」

 この時は、世間話程度の認識で、未だお互いに大した興味を持っていた話題ではなかった。

 ただ、日を改めた先で、意味を帯びてくる。


 数日後の朝、花咲が目を覚ますと、小林の姿がどこにも見当たらなかった。珍しく、先に起きているようだ。

 小林は基本的に花咲よりも早く寝て、花咲よりも遅く起きる。枕元の時計を見ると七時だった。開店までまだ二時間もある。今は前もって請けている依頼も無く、従って特に早起きする理由は無いはずなのだが、いったいどうしたというのだろうか?

 眠い目を擦り擦り着替えを済ませて畳間に出たところで、店内の応接スペースからボソボソと話し声が聞こえてきた。

 障子を開けると、ソファで向かい合う二人の姿が目に入る。

「おはよう、花咲」

「んふっ、おはようございます、花咲くん。気持ちの良い朝ですねぇ」

 小林のいつもの眠たそうな顔はともかくとして、もう一人の存在は少々驚いた。

「野呂さん」

「はい、野呂です」

 野呂は突き出た腹を撫でながら、人懐こいような、ねちっこいような笑みを花咲に向けた。

「また何か、小林に相談事ですか?」

「またとはなかなかご挨拶ですねぇ。んっふっふ……」

「そう言いたくなる程、ここに来ていただいているってことですよ~」

「否定は出来ません」

 言って溜息を吐きながら、小林に向き直る。すると、今度は小林が花咲の顔を見た。

「それにしても、タイミングが良かった。今、花咲を起こしに行こうかと思っていたんだ」

「おれ? 何で?」

「とにかくこっちに座りなよ」

 花咲は冷たい麦茶を三人分淹れると、ガラステーブルに置き、腰を下ろした。

「この前さ、花咲が間賀さんのマンションに行った時に見たこと、話してくれただろ」

「えっと……救急車が来て、間賀さんの友達が運ばれていったっていう……」

 あれは確か、三日前のことだった。

「そうそう」

 そこから先を野呂が引き継いで話し始める。

「実はね、そのことで少し不可解な点がありまして……」

「不可解?」

「ええ。今から小林くんにお話しようと思っていたところです。花咲くんも是非、聞いてください」

 麦茶を一口飲むと軽く咳払いをして、続けた。

「花咲くん。先日、君が水道管の修理に向かったマンション『パレス・フラワーガーデン』から、救急への出動要請があったのは君の承知の通りです。実は、とある事故がありましてね。

 ……事故の経緯を更に詳細に話します。被害者は、二〇三号室に住む日ノ出努という男性です。彼は糖尿病を患っていまして、一日に一度、自らにインシュリン注射を行っていたようですね。ところが事故の日に限って彼は投与量を間違え、通常の五、六十倍近い量のインシュリンを自身に投与してしまったのです。結果として日ノ出は低血糖症を起こし、寝室で倒れてしまった。ただ、不幸中の幸いと言いましょうか。彼の古い友人に跳田友二ゆうじという男がいまして、日ノ出が昏倒しているところに偶然自宅を訪れた。跳田は意識を失っている友人を発見するとすぐに救急車を呼び、日ノ出は病院に運ばれた、というのが事の次第です」

 花咲は昨日の間賀の言葉を思い出していた。日ノ出と跳田……。確かに間賀が呼んでいた名前である。

「日ノ出は何とか一命を取り留めましたが、未だ昏睡状態に陥っています。跳田は病院まで付き添い、担当医と、同行した生活安全課の警察官に状況の説明を行いました。ところが、ここです。跳田の状況説明に、どうにも不可解な点があるのですよ」

「はぁ……」

「跳田の説明によると、事故の当日、跳田と日ノ出は市内のテニスコートでテニスをする約束をしていたとのことでした。しかし、約束の時間を過ぎても日ノ出は現れない。不審に感じた跳田は日ノ出のマンションに向かい、直接彼を呼び出そうとした。マンションに到着した跳田は正面玄関の前に車を停め、二〇三号室のインターホンを押して日ノ出を呼び出そうとしたが、応答しない。そこで跳田はマンションの管理人に声を掛けた。中に友人がいるはずだが、応答しない。病気を持っていて、もしかしたら倒れてるかもしれないから一緒に様子を見てくれないか、と伝えたそうです。そして二〇三号室の玄関扉を開けてもらい、寝室で倒れている日ノ出を発見した……」

「どこが不可解なんですか?」

「実は、日ノ出が倒れていた寝室には内側から鍵が掛かっていたのです」

「……日ノ出さんが自分で鍵を掛けたのでは?」

「不思議なのは、その点ではありません。第一発見者として跳田と共に日ノ出を発見した管理人にも話を聞いたところ、跳田は二〇三号室に入ると真っ先に寝室へ向かい、鍵が掛かっていることを確認したそうです。そして玄関脇に置いてあった脚立を持ち出して、扉上部の小窓から中を覗き、倒れている日ノ出を発見した」

「その話だけを聞くと、まるで跳田は初めから日ノ出が中で倒れていることを知っていたように思えますね。インターホンで応答が無いと判ると、すぐに管理人に助けを求めたことも含めて」

 小林は、視線をテーブルの上の麦茶に落とし、静かに答えた。

「ええ。実際、管理人はその余りの手際の良さに、印象に残っていたと言っていました。

 ……また、跳田は救急に連絡する際に、こうも伝えていた。友人がインシュリンを過剰摂取してしまい、倒れたようだ、と」

「つまり、野呂さんはこう言いたい訳ですか? 跳田さんが事故に見せかけて、日ノ出さんを殺そうとしたのではないか」

 小さくもハッキリと問う小林に、野呂は一瞬、言葉に詰まった。

「……んん、今の時点では何とも言えません。しかし、これは日ノ出の妻に聞いたのですが、跳田は日ノ出に金を借りていたそうです」

「日ノ出さんを殺す動機もある、ということですね」

「ただ、跳田は医者の聞き取りに対して、事故ではないかと言っていますし、さっきの点についても突っ込んでみましたが、日ノ出が連絡無しに約束を破ることが珍しいので不安を感じて迅速に行動した、インシュリンの過剰摂取だと思ったのは、以前にもインシュリンを間違って過剰投与して倒れたことがあったので、そう思っただけだ……そう供述しています」

「日ノ出さんが以前にも過剰投与をしてしまったというのは事実なんですか」

「事実でした。インシュリンの投与を始めた三年程前に、誤って百倍の濃度で投与をしたことがあるそうです。病院に確認が取れました」

「百倍ですか?」

「はい。単位を読み違えて投与してしまう患者さんが稀にいるそうで、そこに疑いの余地はありませんでした」

「…………」

 小林は何事か考え込むように黙り込む。そんな相棒の様子を見た花咲が代わりに手を挙げた。

「あの、野呂さん。それじゃ、おれから質問なんですけど」

「花咲くん、どうぞ」

「その……インシュリンでしたっけ。今、野呂さんは単位を読み違えて過剰投与してしまう人がいるって言いましたけど、でも、それってちょっとおかしくないですか? だってそれって、自分であまり使ったことのない人の話ですよね? 日ノ出さんは三年前から使い始めて、しかも一度間違った経験まであるのに、また同じ間違いを起こすなんて考え難いと思うんですけど」

「んっふ、良い疑問ですねぇ。……まさにその通りで、私もおかしいと感じています」

「それにさっきの話だと、今回の事故では日ノ出さんは誤って五、六十倍の濃度で投与をしてしまった、と言ってましたけど……単位の読み間違いでそんな中途半端な投与はしないと思うんです」

「それも、その通りですね」

 野呂は少し満足そうに、深く頷いた。

「……野呂さん。日ノ出さんと跳田さんは事故当日、テニスをする約束をしていたと言いましたよね。日ノ出さんの携帯は調べたんですか」

 小林が口を開いた。ゆっくりとした口調だ。

「そこなんです。私もそう思いましたが、いくら探しても日ノ出の携帯が見つからない」

「え……」

「はっきり言って、誰かが隠したとしか思えませんねぇ」

 野呂は深く長い溜息を吐くと、宙を見ながら言った。

「一つだけなら、まあそういうこともある、と言えなくもない点かもしれません。ただ、こうも複数の不可解な点が積み重なると、疑問は疑惑に変わる。疑惑は見過ごせないのが性分でしてねぇ……」

「そこまで怪しいと感じるのなら、もっと積極的に捜査をしたらいいんじゃ……」

「それが出来るならこんな朝早くからここを訪れていません」

 野呂は再び溜息を吐く。

「つまり、疑惑が確信にならない理由があるということですね。それは、鍵ですか」

 どこか消沈した様子の野呂に、小林は言った。

「大正解です。

 ……あるはずの携帯が見つからない。この時点で私達警察は跳田に疑いを向けました。しかし、現場には鍵が掛かっていた。二〇三号室の玄関の鍵と、日ノ出が倒れていた寝室の鍵です。この内、玄関の鍵はオートロックなので大きな壁にはなり得ません。問題は、寝室の鍵なのです」

「鍵?」

「先程お話したように、寝室には鍵が掛かっていました。この鍵は内側からはツマミを回して、外側からは鍵穴に鍵を差し込むタイプです。普段、日ノ出が睡眠時に内側から掛ける習慣があったらしく、鍵は寝室の中の引き出しに一つと、万が一締め出されてしまった時のために奥さんが持ち歩いていたものの一つ、合わせて二つしか無かった。当然、跳田には手に入れようが無い代物です」

「扉の上部に小窓があるとか言っていませんでしたか?」

「はい」

 頷いて、野呂は懐から一枚の写真を取り出した。写っているのは、一枚の扉だ。

「日ノ出家の寝室の扉です」

 確かに、扉の上部分に小さな窓が付いている。しかし……。

「腕も通るかどうか怪しい大きさですね。しかも嵌め殺しだ」

「そうなのです。扉の下に僅かに隙間はありますが、それでも引き出しの中に外から鍵を戻せるとは思えませんし、糸か何かで中のツマミを弄ろうにも、小さく滑りやすい構造で、それすらも難しそうなんですね」

 野呂はもう一枚、写真を出した。内鍵のツマミのようだ。丸っこく小さいデザインで、何かを引っ掛けるられそうな構造には見えない。

「日ノ出には妻がいて、しかも寝室の鍵を持っていたんですよね。どうなんですか」

 小林の云う、どうなんですか、は犯行が可能だったのではないか、動機はあるのか、幾つかの意味を含んでいるのだろう。

「彼女……日ノ出みどりには一応アリバイがあります。午前中と夕方に駅前のデパートで買い物をした記録がありました。……まあ、マンションに戻ることは不可能ではないと思いますが、マンションの出入りには正面の玄関ロビーを通る必要があり、事故のあった日は早朝に外へ出ていく姿が防犯カメラに映っています。それ以降、彼女はマンションに戻ってきていません。裏口もあるのですが、近辺で空き巣が立て続けに発生していて、ここ数ヶ月は防犯強化のために施錠されていました。また、地下駐車場からであればカメラに映らずに入れますが、車でないとそもそも地下駐車場に入れません。日ノ出家は車を所持していませんし、緑は免許も持っていませんね」

「……カメラの問題も、車を持っている跳田であれば突破出来るというわけですね」

「ええ。中に入る時は日ノ出に開けてもらえばいいし、出る時は勝手に出られますから」

 小林、野呂両人が麦茶に手を伸ばし、喉を潤した。

 話が一旦終わったと見た花咲は、すかさず口を挟む。

「ええと、それで野呂さんは結局、跳田さんが密室をクリア出来る方法があるのか、ということを知りたいんですか?」

「そうですねぇ。もしあれば、参考までにお聞きしたいところです。しかし……相談をしておいて何ですが、私自身いまいち整理がついていないというのもあります。事故という可能性も未だ大いに有り得る……」

「そうですね」

「ですが、ただの事故で片付けていいものではないと私の勘が告げているのです。それでも、明らかに事件性が認められなければ大々的に捜査は出来ない」

「……解りました。気になる点があるのも確かなので、少し調べてみます」

 そう言って小林は花咲に目配せすると、ふっと息を吐き、立ち上がって伸びをした。小柄な体躯がいつもよりも少しだけ大きく見える。

「もしかしたら、僕達には未だ見えていないものがあるのかも知れません」


「捜査の続きだか何だか知らねえけどさ、早くしてくれよ。こっちは上司に頭下げて時間作ってんだから」

 野呂が相談に来てから数時間後。午後の日差しが照り付ける中、涼しげなチャイムの音を響かせ店内に入ってきた男は向かいのソファに座るなり言った。

「お時間取らせてしまってすみません」

 花咲は努めて笑顔で応答する。

「跳田友二さんですよね」

「そうだよ」

 花咲と小林は八雲駅前のカフェで、第一発見者である跳田と顔を合わせていた。なかなか男前で整った顔立ちの若い男性である。

 跳田はワイシャツをラフに着こなし、暑そうに手で顔を仰ぎながら、注文を取りに来た店員にぶっきらぼうな調子でアイスティーと伝えた。胸ポケットにピンがキラリと光る。

「まずは、日ノ出さんを発見した時のことを教えていただけますか」

「またそれか。警察には散々話したけどな。オレは余程疑われているってワケだ。ははは……」

 自嘲気味に笑うと、跳田は話し始める。

「あの日、オレは日ノ出とテニスをする約束をしてたんだ。午後三時に集合予定だった。だが、一時間以上過ぎても現れやがらねぇ。携帯も繋がらなかった。日ノ出は大雑把だが、連絡も無しに約束をすっぽかすことは無かったから、心配になったオレは様子を見に行くことにした。マンションに到着したのは午後五時過ぎ頃だったな。あそこ、ロビーは素通り出来るからオレは直接あいつの家の玄関まで行って、インターホンを押したんだ。でも反応が無ェ。いよいよマズイと思ってオレは管理人を呼んで、鍵を開けてもらったんだ。それで更に鍵の掛かってた寝室の中を覗いたら、倒れてるあいつを発見したってワケよ」

 殆ど、野呂から聞いた話と同じだ。食い違う点は無い。その時、ウェイトレスが跳田の注文したアイスティーを運んできた。控えめに会釈をするウェイトレスを無愛想に見送ると、跳田は目の前の飲み物を飲み始めた。

 花咲はチャンスを逃さぬよう、すかさず疑問点をぶつけた。

「気になることがあるんですけど」

「何だよ」

「大したことじゃないんですが……玄関に鍵が掛かっていて、返事が無いというだけで、管理人さんに鍵を開けてもらって、すぐに寝室を確認する。結果的には大正解でしたが、判断が迅速過ぎるような気がするんです」

「はっ、しっかりとオレを疑ってるってことかよ。まあいい。そこについては警察にも聞かれたから。あいつはインシュリンの過剰投与で倒れたってのは知ってるか」

「はい」

「日ノ出はな、今回だけじゃなくて処方が始まったばかりの頃にも投与量をミスって倒れたことがあるんだ。さっき言った通り連絡もしないで約束をすっぽかしたこともあったし。……だから、何かあったんじゃないかって慌てたんだ。結果として正解だったんならこれ以上無いじゃないか」

「……解りました。次に、発見時の現場の状況を聞かせてほしいんですが」

「鍵が掛かってたし、あんまり詳しくは見てないな。入った時はこう、扉の方に右手を伸ばすように倒れてた」

 跳田は右手を前に伸ばし、机の上に伏せる真似をした。

「アレはきっと、救急車を呼ぼうとして意識を失っちまったんだな。傍には薬と注射器が転がってて……他には何も無かった」

「それだけですか?」

「ああ。……警察こそ、何か見つけてないのかよ?」

「何か?」

「……いや、何でもない」

 跳田は口を噤んだ。

「ええと、それでは次に……跳田さんから見て、日ノ出さんはどういう方でした?」

「どういう奴かって……そうだな、敢えて言うなら、豪快で細かいことは気にしない奴だぜ。大雑把で、いい意味で男っぽい……。けど、繊細なところもあって、例えば女に惚れっぽかった。でも見た目がゴツいっつーか、ゴリラっぽいからな、よくフラれて泣いてたよ。ははは……」

 跳田は可笑しそうに笑う。

「さっき言った通り時間はちゃんと守るし、困った時には相談にも乗ってくれる、良い奴だよ」

「随分、好意的ですね」

「当たり前だろ。日ノ出とは小学生の時からの付き合いなんだ。誰よりも仲が良い自信があるぜ」

 そう言って、跳田は花咲を見つめた。口許は笑みを形作っている。眼は……解らない。何を考えているか読めない眼だった。

「あなたは日ノ出さんにお金を借りていたそうですね」

「……ハァ? あんた、何時の話してんだ。そりゃ数年前の話だし、とうの昔にきっちり返済してるよ」

「そうなんですか?」

「疑うなら調べればいいさ。別に痛いところは無いんでね」

 先程までとは一転、不愉快そうな表情を隠そうともせずに言い捨てた。そして、アイスティーを一気に飲み干すと、立ち上がる。

「悪いが時間だ。まだ話があるんなら改めて、だな」

 お前らの奢りでいいんだよな、と一方的に言って、こちらに背を向けた時。

「待ってください。最後に一つだけ」

 今まで黙っていた小林が、初めて口を開いた。

「何だ?」

「あなたは、日ノ出さんが倒れたことに、誰かの思惑があると思いますか?」

 肩越しにこちらを見ていた跳田が、一瞬黙り、そして笑った。

「ある訳ねえだろ。ありゃ事故だ」


「すみません、緑さん。お時間取っていただいてしまって……」

 マンションの一室……二〇三号室のリビングで、日ノ出緑と正対していた。

「別に構いません」

 そう言いながらも憂いを帯びた表情は、緑が突然の来訪者を決して歓迎していないのは明らかだ。

「努さんのことですよね?」

「はい。既に警察に訊ねられたことだとは思うんですが……」

「構わないって言ったでしょう」

 花咲の言葉を遮るように、ピシャリと言う。

「早く終わらせてください」

「……すみません。では、日ノ出努さんが倒れた時、あなたはどこに居られましたか」

「マンションには居ませんでした。そうね……確か駅前のショッピングモールに行っていたんじゃなかったかしら」

 野呂の話だと、当日の午前中と夕方頃にショッピングモールのカメラに映っていたという。食い違いは無い。

「朝に家を出て、それから戻って来なかったということですか」

「ええ。病院からあの人が倒れたと連絡を受けるまで、ずっとモールにいましたよ」

「ありがとうございます。もう一ついいですか。ご自宅の……そこの寝室の鍵のことなんです」

 花咲は後ろを指差した。

「鍵は寝室の引き出しに仕舞われていた一本と、緑さんが持っていた一本、合計二本しかなかった、と聞いているんですが、間違いありませんか」

「ええ……。仰る通りですけど」

 緑は傍らの椅子の上に置いてあったバッグから、鍵束を取り出して見せた。

「自宅の鍵とまとめて持ち歩いています。努さん、夜寝る時に内鍵を閉める癖があって、前に寝ぼけて締め出されたことがあったものですから、用心していたんです」

「……そうすると、日ノ出さんが倒れた時に鍵が閉まっていた理由は、彼が自分で内鍵を閉めたか。あるいは何らかの方法で誰かが外から閉めて寝室の棚の引き出しに戻したか。そのどちらかしか考えられないということですね」

「鍵が閉まっていた?」

 花咲の言葉を聞いた緑の顔が僅かに歪んだ。

「そんなはずありません」

「え……でも現に鍵は閉まっていたと、発見した跳田さんや、管理人さんは証言しているみたいですけど。なぜ、鍵が掛かっていたはずがないと断言出来るんですか?」

「……ごめんなさい。私の勘違いかしら。気にしないでください」

 だが、そう言う緑の顔は青ざめている。

「そうですか……。えっと、それじゃあ、日ノ出さんが誰かに恨まれていたとか、トラブルを抱えていたとか、そういうお話はありませんか?」

「……特に、これと言って。……いや、でも、跳田さんとは頻繁に喧嘩していたようです」

「喧嘩というのは金銭関係ですか?」

「さあ……何ぶん頻繁でしたから、原因なんて解りません。例えば、三年くらい前に努さんのお兄さんが事故か何かで亡くなった時なんかは、とんでもない大喧嘩をしてました。殺されたいかとか、やってみろとか、そんな言い争いまでしてたんですよ」

「え……日ノ出さんはお兄さんも事故で亡くされてるんですか」

「はい。と言っても、どのような事故だったかまでは詳しく聞いていません」

「そうですか……じゃあ、その喧嘩の原因なんかも……」

「解りません。主人は、跳田さんが余計な世話を焼いてきたとか、そんな風に言っていましたけど……」

 そこまで話して、緑は疲れたと言いたげに、長い溜息を吐いた。

「あの、ちょっと体調が優れないので、そろそろ終わりにしてもいいかしら」

「あ、はい」

「すみません、それじゃあ最後に一つだけ」

 跳田と話をした時と同じように、小林が口を挟む。

「何です」

「緑さんは、旦那さんが倒れたのには、どのような原因があると思いますか?」

「原因……?」

「例えば、この不自然な事故の原因。あるいは、事故に見せかけた、別の思惑があるんじゃないか、そういったことを伺っています」

「……よく解らないわ。確かに、不自然な状況だとは思います。でも、無理なものは無理。事故だと考えるしかないでしょう?」


「やっぱりさ、跳田が日ノ出を殺ろうとしたんだよ!」

 間賀利勝は、席に着くなり言った。

 跳田と日ノ出の関係について更に詳しく知っている人物から話を訊ければいいんだけど。そう考えた時、花咲の脳内にとある人物……間賀が浮かんだ。彼は確か日ノ出のことも跳田のことも、大学時代から知っていると言っていた。しかも現在は日ノ出と同じマンションに住んでいる。二人の関係性を訊くにはうってつけだろうと思い、こうして話を訊く算段を付けたという訳である。

「ちょ、ちょっと落ち着いてください、間賀さん。いきなりそんなこと言って……誰が聞いているか判りませんよ」

「あっ、ああ、そうだよな。すまん」

「えっと、それで……間賀さんには、跳田さんと日ノ出さんの関係について、お伺いしたかったんです」

「跳田と日ノ出についてな。そのことなんだが、今言った通り、俺は跳田が日ノ出を殺してもおかしくないと思ってる」

「どうしてですか?」

 間賀は声を潜めて、花咲にぐっと顔を近づけた。

「跳田が過去に日ノ出から金を借りてたのは知ってるか?」

「はい。ですが、だいぶ前に完済したと聞きましたよ」

「完済したのは事実だが、なかなか返さなかったんだ。で、怒った日ノ出は何をしたと思う?」

「えっと……日ノ出さんが何かしたんですか」

「ああ。跳田は担保代わりに親父の形見の懐中時計を日ノ出に預けてたのさ。その大事な大事な時計を、勝手に売り払っちまった」

 全くの初耳だった。花咲も、当然小林も知らない話である。

「跳田はもうカンカンさ。いつか俺と飲んだ時、金持ちの癖に人の物を断り無しに売りやがって、いつか殺してやる、なんて息巻いてた」

「……だから、間賀さんは跳田さんのことを疑っている訳ですね」

「まあ、そうだな。はっきり言って、跳田が日ノ出を殺そうとする理由なんて、見つけない方が難しいくらいだ」

「他にもあるんですか?」

「いつだったか……大学四年の時だから、もう六年くらい前か。日ノ出の彼女を跳田が盗ったこともあった」

「なんだか、どんどん出てきますね」

 花咲は半ば呆れながら、呟いた。

「跳田は顔が良いからモテるが、日ノ出は男臭くて……明るくて豪快で、友達としては楽しいんだが、お世辞にも女にモテるタイプじゃない。だからようやく出来た彼女を奪われた、って大騒ぎしてたんだ」

「でもそれはどちらかと言うと日ノ出さんから跳田さんに対する恨みですよね。今回は関係ないんじゃあ……」

「あ……まあ、確かにそうか」

 間賀は腕を組み、神妙な顔つきで唸った。

「ともかくあいつらは、今も昔も諍いが絶えなかったって訳さ」


 小林万事店にて。

「怪しい……」

 数日間の聞き込みを終えた花咲は、ほっと息を吐き出して、ソファに沈み込んだ。

「怪しすぎるよ〜……」

 小林はというと、向かいに座って、テーブルの上に置いたパズルを弄っている。

「怪しいって、跳田さんのこと?」

「そうだよ。調べれば調べる程、日ノ出さんを殺す理由が出てくる」

「それじゃあ、跳田さんが犯人?」

「だとすると、鍵の問題が解けない」

 花咲達は、日ノ出緑に話を聞き終えた後、緑に咎められないよう、そっと寝室のドアを調べてみた。結果、やはり上の小窓は開かないし、扉の下の隙間も、紙一枚通るくらいの幅しかないことが判った。

「……判り易い怪しさだけで判断すると、足を掬われるかもしれないよ」

「え?」

「例えば……緑さんに、日ノ出さんを殺す動機が無かったとは言い切れない。今回、そういう話は聞けなかったけどね」

「じゃあ、小林は跳田さんじゃなくて、緑さんが怪しいと思ってるの?」

「……あまりにも怪しいから逆に犯人じゃない、なんて……そんな考えも、結局同じだ。だったらまだ、怪しすぎるから犯人だって決めた方が当たるかもよ」

 はっきりとしない小林の態度に、花咲は首を振る。今に始まったことでは無いが、かといって頭の中全てが読める訳でもない。

「あのさ、小林……そんな問答がしたい訳じゃないんだよ」

「そう?」

 相変わらず無表情な友人は悪びれもせずに、軽く言う。

「だったら……論理的に筋道を立てて、合理的に考えてみよう」

 そう言いながら、ソファに横になった時。

 入口横の電話がけたたましく鳴り出した。

「はい、はい……」

 花咲は立ち上がって、慌てて受話器を取った。

「もしもし、私ですよぉ」

「あ、野呂さん。こんばんは」

 向こう側から聞こえてきたのは、聞き慣れた野呂のしつこい声だった。

「花咲君だけですか? それとも……」

「小林もいますよ」

「そうですか。二人揃っているなら丁度良いですねぇ。何、先日相談した、インシュリンの過剰投与事故の件で、新たにちょっとした事件が起きましてね」

 紛れもなく、日ノ出の件だろう。

「事件……?」

「はい。こちらも時間があまり無いので手短に伝えます。つい一時間程前、意識不明に陥っていた日ノ出努の呼吸器が何者かに外されましてね」

「えっ……! な、なんですって」

「看護師がすぐに駆け付けたので幸い大事には至らなかったものの、現場は騒然としています。都合が良ければ、小林君と二人で病院まで来ていただけますか」

「は、はい。すぐに行きます」

 花咲は受話器を置くと、野呂から聞かされた内容を小林に伝えた。

「と、いうことなんだけど……」

「……そう」

 いつもは腰の重い小林も特に文句を言うこと無く、店を出る準備を済ませた。


 花咲と小林が日ノ出の入院する総合病院に到着すると、驚くような光景が広がっていた。

「だから、オレじゃねェって!」

「まあまあまあ……落ち着いてください、ねぇ?」

 一階の待合室で、野呂と若い刑事に挟まれて、跳田が座っていた。彼は何事かを必死に訴えかけている。

「野呂さん、お疲れ様です」

 小林が落ち着いた調子で野呂に声を掛ける。

「おっと、これはこれは、小林君。こんな時間にすみませんねぇ」

「いえ、構いません」

 それはそうだ、だって疲れた体で運転するのは自分なのだから。……花咲は内心で軽く文句を言った。

「お前たち……」

 跳田は二人に気づき、訴えの矛先を変えてきた。

「何だか知らんが、オレはやってない! 本当だ、信じてくれ!」

「だから、落ち着いてくださいと言っているんです」

 野呂が跳田を宥めると、説明を始めた。

「先程、電話で少しお話した通りです。安静状態にあった日ノ出の呼吸器を始めとした医療具が外されましてね。幸い、警報に気づいた看護師がすぐに駆け付けたので、大事には至りませんでしたが。

 警察が周辺の捜索をしたところ、病室の辺りでうろついている跳田を発見しまして、保護したという訳です」

「だから、オレは見舞いに来ただけだって……」

 跳田が怒鳴る。

「カメラには何か映っていませんでしたか」

「人影が映っていました。ただ、画質が粗いうえ顔を隠していて人物の特定は難しそうですな。今、ステーションで部下に改めて確認してもらっていますがね」

「跳田さん。今、あなたは日ノ出さんのお見舞いに来ただけと言いましたけど、本当にそれだけですか?」

「当たり前だろ、他に何があるってんだよ!」

 跳田は怒り心頭といった様子でがなり立てる。しかし、少なくとも花咲目線では、嘘を吐いているようには見えなかった。

「んんっ、あまり興奮しないでくださいよ」

「やっぱり俺を疑ってるんだな? よし、それじゃあ本当の犯人を教えてやるよ。日ノ出の嫁だ、あいつが犯人なんだ!」

「緑さんが?」

「ああ! お前らは誰も知らねえだろうけど、あいつはどこぞの男と浮気してたんだ! それが日ノ出にバレたんで、殺そうとしたんだよ!」

「え……?」

 予想だにしない事実が突如明かされ、花咲は困惑した。

「日ノ出の実家はああ見えて金持ちだからな。離婚されて日ノ出の金が手に入らなくなるうえに、慰謝料まで請求されるのが嫌だったんだ……!」

「つまり、あなたは」

 小林は冷静なポーカーフェイスを崩さずに、訊ねた。

「日ノ出緑さんが、夫である日ノ出努さんを殺そうとした。そう主張する訳ですね?」

 跳田は、深く頷いた。


 一旦、外に出よう。小林が眼差しでそう訴えかけてきたので、花咲から野呂に申し出て、病院から一歩外へ出た。

「涼しいな」

 小林は両手で輪を作って、呑気に伸びをしている。

「話はもうよかったの?」

「うん、十分だと思う。あとは……」

 何かを言いかけた時、目の前の駐車場に、一台のセダンが勢いよく入ってきた。

「緑さんだ。それに、間賀さんまでいる」

 降りてきた二人を見て、その珍しい組み合わせに驚く。

「丁度良かった。会いに行く手間が省けたよ」

 向こうもこちらの存在に気がついたようで、小さく驚きの声を上げた。

「あっ……」

「花咲君じゃないか……それに、小林君だったか」

「はい。どうも、緑さん、間賀さん」

「ええっと、こんばんは……」

「主人が危ないって聞いたから来てみれば……あなた達も呼ばれたんですか」

「ええ……それで少しお伺いしたいんですが、緑さんは解るとして、間賀さんはどうして来られたんです?」

「何だ、まるで俺が来たらいけないような言い方をするんだな」

「そういう訳ではありません。ただ、理由が気になっただけです」

 間賀の眉が吊り上がる。小林の言動を不愉快に感じているのは明らかだった。

「偶然、緑さんと会ったんだ。話をしたら、日ノ出に何かあったって言うもんだから、俺の車でここまで送ってきたのさ。そして、ついでに俺も友達として様子を見ておこうと思ったんだ」

「そうですか」

「医療器具が外されたって聞きました。何度も事故に遭ってばかりで……不注意もあるとはいえ、努さんも本当に不運ですよ」

 哀しげな調子で言って、緑は病院に入っていってしまった。

「それじゃあ、俺も行ってくる」

「ちょっと待ってください」

 脇を抜けた間賀に、小林が声を掛けた。視線は宙に向けられている。

「間賀さん。あなたは、日ノ出の事件について……誰の仕業だと考えていますか」

「俺? 俺は……やっぱり、冷静に考えると誰かが殺そうとしたなんて非現実的だよな」

 間賀はまるで自身に言い聞かせるように、ポツリと言った。

「事故なんじゃないか」

 それだけ呟くと、緑の後を追い、病院の玄関に消えていった。

「…………」

 黙り込む小林。

「あの、小林。これからどうする? 野呂警部に挨拶だけしてもう帰る?」

「……そうだね」

 返答はどこか上の空で、事実、根を張ったようにその場を動かない。

 やがて、小林はゆっくりと口を開いた。

「残る危険を取り除こうか。そうすれば、事件も終わりだよ」

「小林、解ったんだ」

 花咲には予感があった。だから、特別驚きはしなかった。何しろ、こと事件捜査においては神の如き明察を見せる男である。

「うん」

 いつも通りのポーカーフェイスを崩さない。

「見えているのに、見えなくなっているものが正解だったんだ」


 入口のプレートには、日ノ出努と明記されている。影は名前をじっくりと確認すると、足音を忍ばせて病室に侵入した。

 僅かな息遣いだけが聞こえる。それが影のものなのか、それともベッドの上で静かに眠る男のものなのかは、混じりあって判らない。

 申し訳程度にかけられた薄手の毛布が、大きな体の輪郭を浮き上がらせている。暗闇に溶けて、顔はよく見えない。

 影はゆっくりと、ゆっくりと慎重に近づいていく。懐から抜き出した右手には、あまりにも弱々しい星明かりすら反射するナイフの刃が見える。

 ──次こそ、失敗は許されない。

 暗がりの中、ベッドの横にピタリと付く。

 影がナイフを握りしめた拳を振り上げるのと、病室に明かりが付くのは同時だった。

「確保!」

 ベッドの影、カーテンの向こう、つい先程、跨いだ入口。そして、ベッドで日ノ出努に扮していた者。数人の警察官が襲撃犯を取り囲み、瞬く間に取り押さえられる。

「んふ、まさか本当に現れるとは……驚きですねぇ」

 場の捕物を主導する野呂は、ニヤリと笑った。

 対照的に、襲撃犯は呆然としている。

 無機質な床には、小さな金属製のバッヂがキラリと光っていた。


 ボールを叩く軽快な音が空に響く。

 鮮やかな緑のコートの上で激しく動く人物に、ゆったりとした動きで近づく二人組。

「ここにいたんですね」

 男は勢いのまま一球打つと、二人の方に向き直った。

「ああ。結局、テニスが出来ていなかったからな。フラストレーションの発散だ」

 跳田は左手でテニスボールを弄んでいる。不意に宙に投げると、ベースラインギリギリに強烈な球を打ち出した。

「尤も、相手がいないから壁打ちかサーブ練習しかすることはないけどな。でも丁度良いや。お前達のどっちか、オレとラリーしないか」

 小林と花咲は顔を見合わせる。それも一瞬のことで、花咲がおずおずと申し出た。

「ノリ良いじゃねえか」

 跳田は満足そうに頷いて、コートに入る。

 しばらくの間、跳田と花咲の間に、白い点と線が飛び交った。とは言え、花咲は球に追いつくだけでも精一杯の様子だ。それでも大した心得がない割には、よく食らいついている方だろう。

「ふぅ……もういいか。サンキュー」

「はぁっ、はぁっ……い、いえ………」

 大体十五分程、汗を流すと、プレイヤー二人はコート脇のベンチに帰った。屋根が付いていて、風が涼しい。小林は汗だくの相棒に冷えたスポーツドリンクを渡した。

「お疲れ様」

「ありがとう〜……」

「水分補給、しっかりしとけよ」

 一息吐いたところで、小林が話を切り出す。

「跳田さん」

「何だ」

「昨晩、日ノ出緑さんが逮捕されました」

「……そうか」

 一瞬、間を置いたが、跳田の反応は随分とあっさりとしたものだった。

「驚かないんですね」

「そりゃあ、オレにはあの女が犯人だと解っていたからな。また、器具を外しに来たのか」

「いいえ。日ノ出さんの容態が安定してきた。警備の数も減らす、と嘘の情報を伝えたら、深夜にナイフを持って現れたようです」

「ナイフ、ね。とんでもない女だ」

「彼女は、あなたの社員証であるバッヂも持っていたそうですよ。日ノ出さんの死を事故に見せかけることは諦めて、あなたに罪を擦り付けるつもりだったのでしょう」

「ははは……」

 小林の言葉に、跳田は乾いた笑いを上げた。

「あなたの言った通り、緑さんは不倫をしていた。そして、そこまで把握していたかは知りませんが、不倫相手は間賀さんだった」

「間賀の奴か。薄々怪しいと感じてたけど……あいつだったんだな」

「はい」

「初めに不思議に感じたのは、日ノ出さんが担架で運ばれ、跳田さんが付き添って救急車に乗り込んだ場面。ここにいる花咲が偶然、マンションを水道管修理のために訪れていて、依頼人の間賀さんと共に野次馬の中にいた時のことです」

「何だお前、あの中にいたのか。全然気づかなかったよ」

「あはは……」

「日ノ出さんが運ばれてくる直前。間賀さんは言ったそうです。日ノ出に何かあったんじゃ、と。そして花咲が間賀さんに訊ねた。倒れた人に心当たりがあるのか。すると彼はこう答えた。日ノ出努という友達が住んでいる。あいつに何かあったんじゃ……」

「…………」

「その後、日ノ出さんに奥さんがいることを聞いて、僕は花咲から聞いた話に、少し疑問を覚えたんです。日ノ出家には奥さんである緑さんも住んでいるのに、日ノ出努さんのことしか考えていない。緑さんが倒れた可能性だってあるのに、初めからその可能性を考えていないみたいだ。それもそのはず、彼は知っていたんです。緑さんがその日、不在にしていることを。……もノω・、) ウゥ・・・ちろん、それだけじゃなく、会ってもいたのでしょう」

「たったそれだけで、間賀と日ノ出緑が繋がっていると気づいたのか」

「もう一つ。日ノ出さんの呼吸器が外される前、僕は跳田さん、緑さん、間賀さんの三人に、日ノ出さんが運ばれた件についてどう考えているのか伺いました。跳田さんは事故、緑さんも事故、間賀さんは跳田さんが殺したんじゃないか、と言っていた。そして二回目。呼吸器が外される事件があった直後、再び三人の意見を聞いた。あなたは、緑さんが殺した、と意見が変わっていた。これは至って自然だ。入院患者の呼吸器が外れるなんて、普通に考えれば誰かの策略だ。あなたが事故という主張を捨て、近しい人間を疑うのは当然でしょう。次に、緑さんは不運な事故が続く、と言っていた。引き続き事故を主張している。論理的ではありませんが、主張は一貫しています。問題は間賀さんだ。彼は二度目に意見を聞いた際、やっぱり事故じゃないかと思い直したと言っていた。これは不自然だ。普通に考えて誰かの手が入らないと有り得ない事件が起きているのに、初め主張していた跳田さん犯人説を取り下げて、わざわざ可能性の低い事故説を主張し始める。……おそらく、誰かの意見に合わせたのです。合わせた先は、緑さんしか有り得ない。では何故、まるで無関係なはずの間賀さんが、緑さんの意見に自身の意見を合わせるのか? これは、二人は無関係ではなく、事件について話し合うくらいに深い関係にあったと考えるべきだ」

「なるほど、なるほど……そして、実際に正解していた訳だ。お前は名探偵だな」

 跳田は小林の回答に何度も頷くと、拍手を送る。

「ありがとうございます」

「そうなると、やはり全ては日ノ出緑が仕組んだこと、ということだ。不貞行為が旦那にバレて、潤沢な資金を失うことを恐れたあの女が日ノ出を殺そうとした。なあ、そうだろ?」

「それは……」

 言葉を慎重に選びつつ、小林は話を続ける。

「それは、違います」

「何がだ」

「確かに、病院での二度の襲撃は、日ノ出緑が画策したことだ。ただ、初めに日ノ出さんが密室の中で倒れたことに関しては、彼女が犯人だと考えるとおかしいことがあります」

「おかしいこと? 鍵を持っていて、自由に犯行に及ぶことが出来るあいつの行動のどこがおかしい? ……そういや、正面玄関のカメラに姿が映っていなかった、と聞いたな。そのことか?」

「いいえ。それは、緑さんと間賀さんが関係していることを考えれば、容易に説明がつきます。間賀さんは車を持っているんですから、彼に地下駐車場から入れてもらえばいいだけです。僕がおかしいと言っているのは、現場の寝室に鍵が掛かっていたことそのものです。そもそも密室とは、犯人が罪から逃れるために、自身には犯行不可能な状況を意図的に作るものだ。

 しかし、今回の事件で寝室の鍵を自由に開けられたのは緑さんだけだ。つまり、現場を密室にすることの意味は全く無い言っていい。そんなことをすれば、緑さんが疑われることは必至だからです」

「犯人が自ら疑われる状況を作るはずが無い。だから犯人では有り得ない。そう考えられて疑いを外されるだろうと思ったのかもしれないぜ」

「それも有り得ない。僕はそう考えています。そもそも、彼女が犯人なら、自宅で犯行を起こす意味は薄いと思います。それに彼女は、事件についてどう考えているか訊ねた際、『不自然だけど、事故と考えるしかない』と言っています。犯人であれば折角事故に見せかけた現場に疑いを持たせる発言はおかしい」

「…………」

 いつの間にか、跳田の顔から笑みは消えていた。何を考えているか掴めない。

「では、もう一人の容疑者であるあなたに犯行は可能だったのか? いや、不可能だ。どう頑張ったって、あの扉を閉めて鍵を中に送り込む方法や、あるいは鍵無しで外から鍵を掛ける方法は無い。それでは、別に動機がありそうな間賀さんが犯人? これも違う。まず、跳田さんと同じように鍵の問題が間賀さんには付き纏い、そして彼が倒れた時間帯には水道管の修理をしていた花咲と共にいたというアリバイがある」

「あんまりさ、焦らすなよ」

 跳田には、もう先の展開は解っているのだろう。全て……。

「すみません。……一見、緑さん以外の誰にも不可能に見える鍵の問題。そして、当の緑さんには、鍵を掛けるメリットはゼロどころかマイナスだ。裏を返せば、鍵を掛けることが可能で、鍵を閉めるメリットがあった人物こそが犯人です。そんな人物は今回の事件には一人しかいません。

 ……

「お前は本当に何でも解っているんだな」

 そう、事件は、日ノ出努による自殺未遂から始まった。小林の出した結論は、シンプルで残酷だった。

「原因は……正直、推測です。だから、間違っているかもしれません。

 ……緑さんに話を聞いた時、彼女は言っていました。日ノ出さんのお兄さんが亡くなった時、あなたと日ノ出さんが大喧嘩していたと。おそらく、日ノ出さんのお兄さんは……自殺したのでしょう。そこから、彼の歯車は狂い始めた。最後の引き金はまさに緑さんの不貞行為でしょうか」

「…………」

 跳田は何も言わない。その態度こそが最大の肯定である。

「おそらく、あなたが日ノ出さんを発見するよりも前に、緑さんが発見している。彼女は鍵を使って寝室に入り、倒れた日ノ出さんを見つけて……彼が自身の不倫が原因で自殺を図ったことを悟った。そして、彼女は夫を見捨て、保身に走る選択を取った。現場に残されていた証拠。おそらくは遺書を回収して、自殺ではなく事故に見せかけようとした。ただ、その際に寝室の鍵を開けることは忘れなかったはずです。それにも拘らず、あなたが発見した際に寝室の鍵が再び掛かっていたのは、おそらく日ノ出さんがもう一度鍵を掛け直したから。実は、インシュリンの過剰摂取は、実際に意識を失うまでに時間が掛かる。彼は意識朦朧としつつも、周囲に余計な疑いを振りまかないように、敢えて鍵を閉め直したんだ」

「なるほど、ね……」

「ただ、その行動が更なる事件を呼んでしまった。……日ノ出緑は、現場の鍵が閉まっていたとを聞いた時、相当混乱したはずです。確かに開けておいたはずの鍵が閉まっている。誰が閉めた? 一人しか考えられない。見捨てた夫に意識がまだ残っていて、鍵を閉め直した。つまり、証拠隠滅の瞬間や、見捨てて保身に走ったことを知られている。そもそも自殺が未遂に終わってしまっては、意識を取り戻した時に動機を語られたらおしまいだ。こうして追い詰められた彼女は、二度の襲撃を行った……」

「本当に馬鹿な女だよ。お前もそう思わないか?」

 跳田の発言には取り合わず、小林は続ける。

「僕達が最初、あなたに話を聞きに行った時、何か無かったかと気にしていたのは、現場にあるはずの遺書がなかったからでしょう」

「…………」

「あなたが行った唯一の欺瞞は……日ノ出さんの携帯を回収し、処分したこと」

「根拠は?」

「跳田さん、あなたの発言ですよ。日ノ出さんを発見した時の現場の様子を伺った際、あなたはこう言いました。日ノ出さんは、扉に右手を伸ばして倒れていた。きっと、救急車か何かを呼ぼうとしたのだろう、と」

「言ったな」

「ですが、僕はおかしいと感じました。だって、そうじゃありませんか? 扉に手を伸ばして倒れていた人物を見つけた時に抱く感想は普通、部屋から出ようとして力尽きた、じゃないですか。救急車を呼ぼうとしただなんて、伸ばした手の先に携帯でも落ちている現場を見ていなければ出てこない感想だと僕は思いますね」

「……はぁ、参った、参った」

 跳田はいよいよ、降参とでも言いたげに足を投げ出して宙を見上げた。

「あなたが日ノ出さんの携帯を処分した理由は一つ。日ノ出さんが自殺を図ったことを初めから知っていて、通話記録か、あるいはメッセージが残った携帯を隠し、自殺しようとした事実ごと隠そうとした。違いますか?」

「…………」

「あなたは、親友の名誉を……守ろうとしたんです。それこそ、自らが疑われることすらも覚悟して」

「綺麗に言うなよ。それこそ、未遂で済んだからこそ出来たんだ。あいつが目覚める余地がなきゃ、偽証なんて危険なことはしなかった」

 そう絞り出す跳田の声は、あまりにも哀しげだった。

「日ノ出は、オレ達が小学生の頃からの幼馴染で、中学も高校も、大学も一緒の腐れ縁で……友達だ。酷い喧嘩ばかりしてきたけどな」

「あなたは初めから真実を言っていた。日ノ出さんとは親友だと。そもそも、彼を殺害するような動機が存在しなかったんです、あなたには……。ただ、周囲の眼という鏡は真実を映そうとはしなかった」

「そりゃそうだ。……金を借りて返さねえとか、親父の形見を売ったとか、普通なら絶縁だよ」

 跳田は小さく笑う。

「ただ、それでも……オレ達は馬鹿同士、友達をやってたんだ。喧嘩して、謝って、許したり、殴ったり……。それでも良いって、思ってた。……でもオレは、とうとう間違った。あいつのSOSをに気付けず、軽く流してしまった」

 そして、笑みはすぐに消え去った。

「あいつの兄貴が自殺したのは、生活がどうにも上手くいかなくて病んだからだって聞いた。別に誰に原因があったって訳じゃないさ。でもその頃から日ノ出の精神はおかしな方向に向かったんだ。兄弟だから俺もいつか自殺するかもしれないって言い出した……。初めのうちは病院に行くことを勧めたけど、あいつ、怒り出して……だからオレは、ただ笑って日ノ出の話を聞くようにしてたんだ。でも……」

 いつの間にか、空模様は灰色に変わっている。

「オレは馬鹿だ。友達をやめることになっても、無理にでも……病院に通わせるべきだった。……放置して、自殺未遂なんてさせたオレに出来たのは、せめて名誉を守ることだけだったよ」

 跳田の表情は……。

「で、どうする、探偵さん。オレを警察に突き出すか? 今なら甘んじて受け入れるが」

「……まあ、これ以上警察を困らせないためにも、野呂警部くらいには伝えておくべきでしょうね。跳田さんさえ良ければ、僕から伝えておきましょう。彼はああ見えてそれなりに情も持ち合わせてますので、多少のお咎めで済むんじゃないですか。

 ただ、今はそれよりも先にすることがあると思います」

「え……?」

 小林は、ポケットからスマートフォンを取り出して、跳田の眼前に持ってきた。画面にはメッセージが表示されている。

「とにかく、病院に行ってみたらどうです」


 跳田の汗が床に落ちるのと、声が響くのは同時だった。

「……と、跳田、か……」

「ッ……ああ」

「すまん……」

「おい、謝るなよ。せめて『ありがとう』って言ってくれ。その方がオレも報われる」

「……ありがとう、か。そう言いたい……でも、迷惑を……かけた」

「だから、気にするなって。なあ……?」

 気づけば空は、太陽を映している。

 光は明るく、病室を包み込んでいた。


「オレ達、友達だろ」

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