第5話

 よくにとって、曲沃きょくよくからの攻撃を追い払うはずの戦争は大損害を出した。戦死者ではない。隰氏しゅうしだけではなく、いくつかの氏族うじぞくが同時に曲沃へ走っていったのである。戦の状況に合わせ、翼に三行半を突きつけ、曲沃の別働隊を中に入れた。隰叔しゅうしゅくの差し金のようであった。その中には異姓の氏族だけでなく、晋室から分かれた公族もいた。翼の戦力だけでなく、財も人材も一気に減ったと言ってよい。

 欒成らんせいの復命を聞いたこうは、表情が抜け落ち、ふわふわと頷くだけであった。朝政ちょうせいの終わりに光があえぐように声を出した。そろそろ声変わりが始まっており、しゃがれている。

「欒成と二人で話したい。残れ」

 みな立ち去り、夏の湿気の中、政堂で二人向かい合う。光が肩を落とし、下を向いた。

「……我が君。下を向いてはなりませぬ。下を向いて背を丸めれば、地に飲み込まれる。地はいん、心地よいですが歩けなくなる」

 の声で、しずしずと欒成は諭した。光がかぶりを振った。まるで子供のしぐさであった。数え十四才であるから、子供ではある。

「……欒成の父は桓叔かんしゅくとして全うした。そなたがここにいるのは、違っているのではないか?私は……足かせではないか?」

 うずくまるように屈み、しゃくりあげながら光が呻いた。その呻き声もすすり泣くしぐさも、幼児のむずがりではなかった。一人の男として、苦しんでいる姿であった。彼は君主として言うべきではない、言ってはならない言葉を、血を吐くように出した。

 光は欒成に絶対の信を寄せており、この瞬間でさえ痛いほど伝わってくる。その上で、己が欒成の人生を縛り、無駄にしているという恐怖に陥っていた。この少年は、凡人である。痩せ細り続ける翼を、欒成という巨人の庇護の元、背負おうと必死になっているが、一人で立つには強くない。不安を出さぬように口を閉じながら、隠せない、普通の少年である。

 欒成は、

「ご無礼」

 と言った後、光の背を撫でた。君主に対して極めて不敬であったが、大人として労りたかった。しかし、光を解放できぬのも欒成である。偽善である、とも思った。

「このまま言上つかまつります、我が君。私に死ねと、ご命じください。戦場にて死ね、と。私は死ぬまで我が君と共にある。私は父により生まれ、師により教えられ、我が君に養われる身です。これは則ち、生きるということ。生に報いるには死を以てするは当然。我が君の恩恵に私は全力で報います。私は翼の臣であり、我が君の臣です。出て行けなどと仰るな。翼のために、君公のために死ねとご命じください」

 そこまで言ったあと、欒成は柔らかく笑んで

「私は我が君が好きです。私は出来うる限り、傅として支えましたが、足りぬところもあった。それを責めることなく、研鑽するため務めておられる。辛いことあり、お腹立ちのことあっても、人に当たることせず、頑張っておられている。斉姜せいきょうを慈しむお優しさもある。文侯ぶんこうを尊ぶお姿も、先君を大切にする孝も、ひたむきで、好きです。……臣としても傅としても、相応しくない不敬な言葉、申し訳ございませぬ」

 と、続けた。光がゆっくりと起き上がり、欒成を見上げて、許す、と言った。くしゃりと潰れたような笑みであった。

「……欒成は文侯と桓叔をその目で見ていたのだったな。文侯は桓叔を疎んでいたのか。桓叔は文侯を嫌っていたのか。兄弟で、憎しみあっていたのか」

 唐突な問いであった。欒成は、遠く靄がかった昔を思い出す。己はまだ若輩で父の後ろについてまわっていただけの青二才であった。既に老年にさしかかろうとしていた文侯と桓叔しか知らぬ。が、その時のしんの明るさは良く覚えていた。

「……謹んで問いにお答え致します。文侯は桓叔を信頼され、桓叔は文侯を良く支えておられた。私がまだ幼い頃、文侯は周王しゅうおうさまのために働いておられました。その時、晋を守っていたのは桓叔です。私が垣間見たあのご兄弟は、お年を召しておられたが、若々しく互いを信じ合い気の置けぬご様子でした」

 文侯は内紛の中、新たな勢力を引き連れて即位した不屈の賢君でもある。桓叔が弟として支えていたと、欒成は今でも思っている。無論、真実はわからない。だが、文侯も桓叔も後ろ暗い感情を笑顔でごまかすような卑しさは無かった。

 誰もが、晋の繁栄を疑っていなかった。文侯崩御の後、桓叔は甥を支えていくものであると、誰もが思っていた。その甥、文侯の息子である昭侯しょうこうは、桓叔を曲沃へ封じた。公族ではなく臣になれ、という意味であったが、曲沃という文字通り肥沃な土地を第二都市として治めろ、ということでもあった。

 ――本家が小さく分家が大きくなる。文侯の血筋は絶える。

 そう、予言した賢人がいた。その通り、昭侯は殺され、桓叔は自立し、翼を亡ぼす道を選んだ。ずっと野心を抱いていたのか、曲沃に封じられ野心が生まれたのか。ただ、甥より叔父の方が優れていたことは確かである。

 誠実に返す欒成に、光が淡く微笑んだ。そこには確かな影と傷があった。

「どうして、今、こうなのだろう」

 泣きそうな顔をしていたが、涙は無かった。欒成は、天でさえわからぬことです、と不器用に慰めた。その不器用さが妙に滑稽で、光が声を上げて笑った。久々の、無邪気な笑い声であった。

 少年君主がどう嘆こうが、欒成がいかに務めようが、翼の力が大きく削がれたのは変わらない。曲沃に耕作地を荒らされた上、氏族やゆうが無くなったのである。足元が極めて弱くなった。人も土地も、無ければ奪うしかない。曲沃が翼に行うことを、今度は翼がどこかにせねばならぬ。

陘庭けいていはいかがか」

 秋も深まったその日、臣の一人が言った。翼より南方にある、小さな集落である。田舎であり、翼の傘下でもなく曲沃の傘下でもない。どちらかといえば翼よりの場所であり、この場を領有できれば、悪くはない。

「いきなり邑を落とせるのか」

 成人してから二年。もう光は、戦の難しさを知っている。どのように小さな邑でも容易に落とせぬほど、翼は弱くなったのだ。

「田を侵しましょう」

 耕作地に入り、牽制する、ということを別の臣が言う。欒成も頷いた。圧をかけて、靡くようにするのも一つの戦略である。

「我が翼の威を見せる良い機会だ。陘庭を攻めよう。私も出る。これは外征と同じであろう、いかに小さな戦でも親征するが道理。準備を整え出るなら、年明けの春が良いと思うが、皆はどうか」

 光が、己で確かめるようにゆっくりと言った。この『春』は旧暦であるためいわば立春に近い。夏の痛手を癒やしている最中である。豊穣の今を終え、冬の間に備え、年が明けて兵を出すのは、間違っていない。いっそ、定石とも言えた。臣たちが、そのように、と拝礼しようとしたとき、光が、ひっくりかえりそうな声で言葉を続けはじめた。

「……あ。夏に諸々あり、言えなかったのだが……。斉姜が身ごもっている。えっと、春を過ぎたあたりで、そうではないか、と言われたのだが、いや、はっきりわかったのが夏で、えっと、戦で色々あり……。こ、今年の暮れか年明けに、子が生まれる、かも、しれぬ。子に、勝利を捧げたい。言おうとしていたのだが、言えず……」

 手をうろうろと動かし、全く君主らしくない仕草で説明を終えた光は首まで紅潮していた。大人たちの前で、思春期の少年は、恥ずかしさで死にそうな顔をしていた。もし、隰叔がおれば、気の利いた言葉で一息抜くことができたであろうが、この場にそのような器用な臣はおらぬ。

 もちろん、欒成もそのような器用さは無い。器用ではないが、無粋でもない。そして、本質的に素直である。

 素直に、喜びのままするっと祝った。もっと言えば、謡った。


 南に樛木きゅうぼくあり

 葛藟かつるいこれかか

 楽しいかな君子

 福履ふくり之をやすんず


 木にクズやカズラがまとわりついているさまを仲の良い夫婦に例えた古詩である。妻が夫に頼り、夫は頼られるに値する。その楽しさ、常に幸福で和気藹々、二人の間は安泰。

 深く甘く吟じられたそれに、光がぽかんとする。他の臣が手を打ち、声を合わせはじめた。


 南に樛木あり

 葛藟之におお

 楽しいかな君子

 福履之をたす

 南に樛木あり

 葛藟之にめぐ

 楽しいかな君子

 福履之を成す


 当時の詩は民謡に近い。これも、同じような文言が続く謡であった。幸福が二人を助けて安泰、幸福のおかげで二人は完全に安泰、と最後だけ微妙に違うところが、また泥臭い。が、この素直さはなまの感情とも言える。それにしても、木に絡みしだれかかるカズラで夫婦を表すところが直裁的である。本来、これを比喩として引用し会話するのがこの時代の貴族である。欒成も光にそう教えていた。しかし、これは、そのまま謡っている。欒成も他のものも、光と斉姜の幸福を素直に言祝ことほいだ。

 光は照れ笑いを浮かべた後、返礼の詩を吟じた。秋に咲くフジバカマを、菊を求めたい。得がたい臣を褒める言葉であった。

 年の暮れ、斉姜は一人の男子を産み落とした。

「私は吉祥を呼べたようです」

 母と言うにはあどけない斉姜が光にそっと囁いた。光は初めて交わした言葉のことを思い出し、斉姜の手をさすった。

「汝は元々、吉祥なのだ」

 少年の気負った言葉に、幼い妻が笑った。

 吉事に湧く中、翼は軍を出立させた。寡兵ながらも、堂々たる威風があった。

 目標の陘庭は翼の南西、曲沃から見れば東北に位置する、小さな邑である。どちらから見ても田舎の集落でもあった。近くに汾水ふんすいという、黄河の支流が流れている。この邑は、翼と曲沃の軋轢が逆に功を奏して、自立していた。昔は晋に随従していたこともあったやもしれぬが、今は本家と分家を見定めようと見ているのであろう。

 そのような邑であるから、情報には敏感である。この田舎ものどもは、翼が兵を出し、こちらに向かっていることをいち早く知ると、すぐさま曲沃に走った。

「翼が我が邑を侵そうとしている、助けてほしい」

 彼らは文化的に田舎ものであったろう。儀礼なども光の足元にも及ばぬ拙さであった。が、一点優れているところがある。生き残るための方策を幾重にも考えており、何があっても即座に対応できる、すばしこさとたくましさである。

「隣人が盗賊に襲われ困っているのだ、助けるのが人の道だ」

 しょうがおおらかさを見せながら快諾し、即断した。曲沃としては翼を叩きのめすのはもちろん、このフワフワした邑を手中に収める良い機会である。しかし、称はそれをほのめかすことはしなかった。翼を叩きのめし、曲沃が威勢をはれば、陘庭など勝手にこうべを垂れてくる。わざわざ声をかけ、こちらを軽くする必要は無し。称の自信は実力と現実に裏付けされている。

 曲沃の動きは速い。趙氏ちょうしという機動性の高い武の一族を筆頭に、練度に優れている。翼が陘庭の耕作地へ進軍したときには、すでに陣を張っていた。

 その様子を見た翼軍、光の判断も早かった。欒成に問うこともなく、

「曲沃は我ら翼の仇敵だ。陘庭を我が物にするためにも討ち払う!」

 と叫んだ。兵力の差は歴然であり、場も不利である。曲沃は翼を汾水へ追い込むようにかまえている。汾水は黄河の支流の中で二番目に大きな川であり、追い込められれば逃げ場は無い。しかし、ここで退けば、翼は曲沃から延々と逃げるだけの国となる。戦いに負けずとも、国として亡びる。光の悲壮な決意に、みな、雄叫びをあげた。

「このせい君公くんこうの先触れとして、前へ出て曲沃めにまずご挨拶つかまつる。みなの先導をすること、お許しいただきたい」

 欒成は立礼し、言った。先陣きってつっこみ道を作る、翼軍総出で曲沃に穴をあけ、陣を崩す策である。いわば、正面突破であった。欒成が曲沃軍の中で手薄な場所を見きわめ、こじ開けたところを翼全軍で食い破りながらその陣を潰す。そうして、曲沃が崩れたところを見計らい、戦闘区域から出て陘庭を荒らし帰還する。薄氷の上を歩くような策であった。が、他にあろうか。まともに曲沃全軍と組み合えば、すぐに削り潰される。一点だけを攻め、局地的勝利をおさめ、陘庭を牽制する。これ以外、翼の『勝ち』は無い。

「欒成の言葉良し。私は欒氏らんしに続き、みなと共に曲沃をけちらそう」

 光が頷く。その声音は力強い。欒氏の兵車が動くと共に、光が旗をあげ、みなを鼓舞しながら合図する。冬の、肌が切れそうな乾いた寒風をものともせず、欒成を先頭に翼軍は縦陣形を作って、曲沃軍に突撃した。迎え撃つ曲沃軍は横陣形を敷いている。兵車へいしゃ戦の基本のような陣形である。そのまま翼軍を囲い込みながら、汾水へ追い立てる戦術であった。

 曲沃主力はもちろん称率いる中央部である。ここが屋台骨であるから、当然固い。翼を囲むべく機動力が必要な位置には趙氏がおり、ここも強い。一瞬の判断で、生死が決まる場面であった。が、欒成は三十年、戦場に立ち曲沃と戦った。己の目を疑うことは無い。

 曲沃の中に、異分子がいた。

 これは称の油断であったのか、それとも政治的判断であったのか。陘庭のものが、与力として参戦していた。強い曲沃と共にいる安堵からか、弛緩が見て取れた。欒成は手勢に手で指図し、旗をあげて向かう方向を示す。翼軍は、曲沃が奇跡的に作ってしまった、薄い箇所へなだれ込んだ。横陣は全体が保たれているからこそ、成り立つ迎撃体制である。一点に圧力が生じ、なおかつそこが脆ければ、隊列が乱れ一気に軍の体裁をとれなくなる。

「翼のガキがそこまでできるのか!……いや欒成か!」

 急をつげる伝令の言葉に称は吐き捨てた後、欒成への賞嘆の声をあげた。すぐに太鼓や旗で知らせ、陣形を変えさせる。翼が荒らし回っている箇所はそのままに、軍を二つにわけた。弱点を切り離し、包囲から挟撃に切り替えたのである。主力である称の曲沃古参と、遊撃としての趙氏ほか帰化氏族の二つに分かれたのは、元々の配置のせいであるが、妙に象徴的であった。

「いやはや、欒叔らんしゅくはあの年で、お若い」

 今や曲沃の氏族として参戦していた隰叔は、陘庭の兵やそれに混ざった曲沃の一部を潰しながら進む欒成を見て、のんびりと言った。この男は、新参の氏族のけじめとして参戦している。曲沃には武に特化した氏族が多く、隰氏は埋もれてしまう。が、儀礼、そして法令に関して、隰叔の右に出る者はいなかった。彼は、法制の家として迎え入れられ、改めて『』氏と呼ばれることとなった。彼の息子を士蔿しいと言い、以降、士氏ししとして名が残っていく。そういったことで、ここにいるのは、一度くらい戦場に出た方が良いであろう、という処世術からきている。だからといって物見遊山ではない。一人、二人。翼の大夫たいふを仕留めなければ、名折れというものであった。

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