第3話
「全てに対処すれば、疲弊するだけです」
このところ
窓からふわりと、秋の風が流れてくる。雨期の夏が終わり、柔らかく優しい空気には、熟れた香りがあった。この豊穣を国も民も喜ぶこの時に、翼は憂いに覆われている。
「
「曲沃の勢い、秋で終わるとも限りませぬ。我ら
政堂に動揺が走った。それは、思いも寄らなかったことを言われた困惑ではなく、誰も言い出せなかったことを、という驚愕であった。欒成も、最も有用であると思ったが、言い出せずにいた。その理由は光の顔を見れば一目瞭然である。
光は、悔しさを滲ませ、隰叔を睨み付けていた。隰叔は欒成に進言したのであり、光に正式には問うていないこととなっている。が、目の前で繰り広げられたのである、当然ながらしっかり耳に届いていた。
「これは、我が晋の内側のこと……。虢に頭を下げて、たかが分家を追い払ってくださいと、私はせねばならぬのか!」
甲高い声が広くもない政堂に響き渡った。光は、怒りを散らすように、床に拳を叩きつけた。自然、下を向き背を丸めることとなる。まるで、大人たちを拒絶しているかのような姿であった。
「我が祖である
史書によると、虢が曲沃を伐ったその年に、光の父は若くして死んでいる。心労が祟ったのであろう。先代、先々代が殺され、翼に削られ続け、とうとう虢に対応を頼んだ末である。光も、父にとって虢の力を借りることが、屈辱であり恥辱であったのだと思っている。父は文侯の直系として、口惜しく申し訳なかったのであろう。
欒成は、光の悔しさと、少年らしい潔癖に優しく声をかけたくなった。君公のおっしゃるとおりです、我が翼は本家の矜持と共に曲沃をうち払いましょう、と言いたかった。が、臣としても、そして光の師としても、現実から目を背けるわけにはいかぬ。
「率爾ながら申し上げます、我が君。隰叔のお言葉を漏れ聞いた様子、改めての言上せず、私見を述べさせていただきます。隰叔の申し上げること、理がございます。虢は周王さまが認める衛士、虢公は代々要職についておられる。我が晋の乱をおさめるに相応しい方です。また、虢は我らと同じく周室からわかれた
「文侯は伯父と戦った、と申すか」
欒成の言葉に光が低く唸るように言った。例え言葉にへりくつで返すようなものであったが、彼なりの抵抗であろうし、そもそも腹に収められるような話ではない。光にとって文侯そのものが存在証明のようなものであり、いっそ神聖である。己の祖だから、というわけではない。瀕死の翼を背負って光は立っている。晋の源流は周室から分かれた王弟であるが、翼の源流は文侯である。その事績に傷をつけるような言動は、たとえ師であり宿将である欒成でも、許しがたい。その
「文侯と時の虢公には、行き違いもあったのです。しかし、それも虢公があやまちを認め、文侯も周王さまの元、水に流された」
正確には、周室の跡目争いで虢と晋が争い、晋の支援する王が立ったのである。虢は晋に屈し、新たな周王に服した。その虢が翼のために曲沃をうち払うわけであるから、皮肉でもある。むろん、対価も生じる。翼の疲弊は虢への進物の負担があった。
光が意地で虢に縋りたくない、と思っていたと同時に、みな財政への負担から頼りたくないと思っている。隰叔もそんなことはわかっていたが、今をしのげなければ先は無い。
先のやりくりは後で考えるしかないほど、翼は追い込まれている。
欒成は己が決断すべきかと迷った。光が成人する前は、責を課すわけにはいかぬと欒成が決めたことを奏上していた。が、光が成人した以上、欒成が決めるのは僭越である。文侯直系晋公こそが唯一決定権を持っている。それを揺るがせば、曲沃のありかたを認めるようなものであった。
欒成は静かに息を吸って吐いた。己が教導した君主である。潰れそうな責の中で立とうとしている君主でもある。近臣の己が信じなければどうするのか。深い瞳を光に向けて、言葉をじっと待つ。隰叔含め、臣たちは欒成の言葉を待っていたが、欒成だけは光の声を信じていた。
は、と光が強く息を吐き出した。
「……そなたらの言うこと最も。周王さまに願い出て、虢公にご足労願おう」
数え十二才の、声変わりもしていない少年が、ぽつぽつと呟いた後、火がついたように泣いた。彼は悲しみを抑制できるほど、成熟していない。その少年を慰めることもできず、大人たちは静かに拝礼した。光は正しいからこの結論を選んだわけではない。欒成以下、大人たちの言葉に従っただけである。それを、政堂にいるものみな、わかっていた。
泣いた子供であるが、それでも幼児ではない。我に返りながら泣き止んでいく。そうなれば、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。すかさず欒成は傍に近寄り、拝礼した。
「我が君は立派な決断をいたしました。屈辱の英断です、口惜しさが出ても羞じることはございません。臣として誇りでございます」
欒成の本気の声に、光が照れくさそうに小さく笑った。
晋の分家ごとき、周の軍事的看板である虢の相手ではない。一気に軍勢を入れ、
伐つというのは、ただ追い払うだけではなく、その領地にまで進行し
「翼を亡ぼしたら、次は虢だ!」
なんとか追い返した虢軍を見ながら、称は吐き捨てた。周りの臣たちは肩をすくめるだけである。翼を亡ぼせるかどうか、実のところわからぬ。すぐに亡ぼせると
冬が終わる前に曲沃を討ち払い、翼は一息つくこととなった。
東アジアに生まれたこの文明は食への拘りが強い。つまり、食事全てが儀礼である。
ひとつひとつの料理に祀りがあり、それを行いながら決まった所作で食す。そのうち、仔羊の丸蒸しが運ばれた。虢公はそれを祀るそぶりをみせず、光をじっと見た。それは値踏みの視線であり哀れみと嘲りがまざっていた。父より年上の男の目は、突き刺すようでもあった。光は意味がわからず、困惑の顔で、周囲を眺め、欒成を見た。欒成も困惑し、虢公を見る。虢の人々は状況がわかっているようだが、口に出さぬ。つまり、饗応している晋の手落ちとしているらしい。光も、差配の中心であった欒成もわからぬ。
「ああ、失礼」
乾いたものが床に落ちる音と共に、声がした。場違いなのんびりさであるが、品の良い声である。隰叔であった。彼は落とした
「この隰氏は
と、言葉を続けた。光は特別察しが悪い子供ではない。ここまで欒成がお膳立てすれば、とりあえず声をかければ良いであろう、と
「隰氏、許す」
と言った。隰叔が拝礼し口を開く。
「貴き身でなけれども、我が君より
隰叔の言葉を全て聞き、虢公が頷く。
「本来、我ら親戚同士の宴席はほぐした肉を出す。丸のままは天への生け贄であり、戦勝の儀にあらずと戸惑っていたが、そういったことであれば、こちらの器量が小さかった。我ら虢とそちら晋は今後も周に仕える衛士として、さらなる交誼を結ぼう」
そこまで聞いて、欒成はため息をつきそうになるのをなんとか止めた。周のしちめんどくさい儀式をいかに正しく知っているか、が国としての体面である。後世の人間としてはどうでもいいだろう、となるのだが、彼らにとっては文明人としての軽重を問われると言って良い。欒成はそれを正しく知らず、晋公である光に教えられず。いつのまにか、翼は正しい知識が失われていたということである。それがいつからなのかわからぬが、少なくとも欒成は翼の衰退を感じた。
それは光も同じである。彼は欒成以下、大人どもの言うとおりに物事を行っている。それが間違っていた、ということである。この先、何を指針にして良いのか。たかが食事の出し方ひとつであったが、彼の心は暗澹とした。
ふと、視線を感じ、光は顔をあげる。虢公がじっと見てきていた。儀礼を曲げたのは晋である。虢はそれを受けると返した。光はさも予定調和であったというていで礼を言わねばならぬ。
「伯父と甥として共に絆があれど、天に盟い互いの繁栄としたい所存でございます。戦勝の儀から外れるゆえ、若年の身として申し出せなかった非礼をお詫びいたします」
光の言葉に、虢公がゆったりと笑んだ。
慶事に始まり、苦味に終わり。新たな翼の年は、前半の歓喜よりも後半の辛酸の記憶が強く残ることとなった。虢公はご親切にも、
「これからもお力になろう」
と言い残して帰っていった。天に誓う同盟をしたのであるから、お言葉ごもっともであったが、晋に介入をするという宣言でもある。結局、内部の曲沃、外部の虢と、翼は二面体制で年を越すこととなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます