第3話

 晋公しんこうこうというべきか、翼主よくしゅこうというべきか。彼の成人一年目は勝利の初陣で飾られたが、その年の後半は苦渋というべきものとなった。曲沃きょくよくが、よく傘下の各ゆう耕作地を荒らすためだけに攻めてきたからである。数と機動力の高い曲沃の動きに翼はついていけず、全てに対処できなかったのだ。

「全てに対処すれば、疲弊するだけです」

 欒成らんせいは、地勢として重要な場所を守ることで手一杯であり、ちまちまとした嫌がらせ全てに対応できぬ、と隠さず言った。その厳しい顔が状況の悪さを如実に伝えていた。光が己の非力さに、こぶしを握る。この少年は、ではこのように、という考えが思い浮かばない。ただ、現実に打ちのめされまいと虚勢をはるしかできぬ。

 このところ朝政ちょうせいは重苦しいものとなっている。実りを潰された各邑は、公室の倉を開放してほしいと訴えてきている。が、翼も余裕があるわけではない。今しのいでも、先が細い。何より、曲沃が秋の間暴れ続ければ、民心も離れるであろう。欒成は場当たりに守る以外に献策できぬ己が、不甲斐なかった。

 窓からふわりと、秋の風が流れてくる。雨期の夏が終わり、柔らかく優しい空気には、熟れた香りがあった。この豊穣を国も民も喜ぶこの時に、翼は憂いに覆われている。

欒叔らんしゅくに申し上げる。末席でございますが、おそれながら言上つかまつりたい」

 隰叔しゅうしゅくが柔らかく拝礼し、声をあげた。この男は落ち着いた所作と品格を持っており、発言すると場がふっと軽くなるところがあった。末席という自称は、異姓かつ晋に帰化して三代しか経っていないからである。欒成は頷き、言葉を促した。

「曲沃の勢い、秋で終わるとも限りませぬ。我らしん軍全てで応じても、追い払うことは難しいでしょう。かくに頼ることを進言いたします。虢はしゅう王さまの衛士えじの国、我らは周王さまの叔父の国です。先代も虢に助けてもらいました。周王さまに願い出て、虢にお越しいただくのが、理に適うことでしょう」

 政堂に動揺が走った。それは、思いも寄らなかったことを言われた困惑ではなく、誰も言い出せなかったことを、という驚愕であった。欒成も、最も有用であると思ったが、言い出せずにいた。その理由は光の顔を見れば一目瞭然である。

 光は、悔しさを滲ませ、隰叔を睨み付けていた。隰叔は欒成に進言したのであり、光に正式には問うていないこととなっている。が、目の前で繰り広げられたのである、当然ながらしっかり耳に届いていた。

「これは、我が晋の内側のこと……。虢に頭を下げて、たかが分家を追い払ってくださいと、私はせねばならぬのか!」

 甲高い声が広くもない政堂に響き渡った。光は、怒りを散らすように、床に拳を叩きつけた。自然、下を向き背を丸めることとなる。まるで、大人たちを拒絶しているかのような姿であった。

「我が祖である文侯ぶんこうは虢と敵対し、一歩もお引きにならず、それどころか優位に立っておられた。時の周王さまも力添えした文侯をよみし、祀りと軍事の賜り物をくださった。栄えある我が晋が、虢に借りを作らねばならぬのか、また、作る、のか」

 史書によると、虢が曲沃を伐ったその年に、光の父は若くして死んでいる。心労が祟ったのであろう。先代、先々代が殺され、翼に削られ続け、とうとう虢に対応を頼んだ末である。光も、父にとって虢の力を借りることが、屈辱であり恥辱であったのだと思っている。父は文侯の直系として、口惜しく申し訳なかったのであろう。

 欒成は、光の悔しさと、少年らしい潔癖に優しく声をかけたくなった。君公のおっしゃるとおりです、我が翼は本家の矜持と共に曲沃をうち払いましょう、と言いたかった。が、臣としても、そして光の師としても、現実から目を背けるわけにはいかぬ。

「率爾ながら申し上げます、我が君。隰叔のお言葉を漏れ聞いた様子、改めての言上せず、私見を述べさせていただきます。隰叔の申し上げること、理がございます。虢は周王さまが認める衛士、虢公は代々要職についておられる。我が晋の乱をおさめるに相応しい方です。また、虢は我らと同じく周室からわかれた姫姓きせいの国です。甥が苦難に陥っているのを見捨てる伯父などおりますまい」

「文侯は伯父と戦った、と申すか」

 欒成の言葉に光が低く唸るように言った。例え言葉にへりくつで返すようなものであったが、彼なりの抵抗であろうし、そもそも腹に収められるような話ではない。光にとって文侯そのものが存在証明のようなものであり、いっそ神聖である。己の祖だから、というわけではない。瀕死の翼を背負って光は立っている。晋の源流は周室から分かれた王弟であるが、翼の源流は文侯である。その事績に傷をつけるような言動は、たとえ師であり宿将である欒成でも、許しがたい。その忿懣ふんまんを感じながら、欒成はさらに言上する。

「文侯と時の虢公には、行き違いもあったのです。しかし、それも虢公があやまちを認め、文侯も周王さまの元、水に流された」

 正確には、周室の跡目争いで虢と晋が争い、晋の支援する王が立ったのである。虢は晋に屈し、新たな周王に服した。その虢が翼のために曲沃をうち払うわけであるから、皮肉でもある。むろん、対価も生じる。翼の疲弊は虢への進物の負担があった。

 光が意地で虢に縋りたくない、と思っていたと同時に、みな財政への負担から頼りたくないと思っている。隰叔もそんなことはわかっていたが、今をしのげなければ先は無い。

 先のやりくりは後で考えるしかないほど、翼は追い込まれている。

 欒成は己が決断すべきかと迷った。光が成人する前は、責を課すわけにはいかぬと欒成が決めたことを奏上していた。が、光が成人した以上、欒成が決めるのは僭越である。文侯直系晋公こそが唯一決定権を持っている。それを揺るがせば、曲沃のありかたを認めるようなものであった。

 欒成は静かに息を吸って吐いた。己が教導した君主である。潰れそうな責の中で立とうとしている君主でもある。近臣の己が信じなければどうするのか。深い瞳を光に向けて、言葉をじっと待つ。隰叔含め、臣たちは欒成の言葉を待っていたが、欒成だけは光の声を信じていた。

 は、と光が強く息を吐き出した。

「……そなたらの言うこと最も。周王さまに願い出て、虢公にご足労願おう」

 数え十二才の、声変わりもしていない少年が、ぽつぽつと呟いた後、火がついたように泣いた。彼は悲しみを抑制できるほど、成熟していない。その少年を慰めることもできず、大人たちは静かに拝礼した。光は正しいからこの結論を選んだわけではない。欒成以下、大人たちの言葉に従っただけである。それを、政堂にいるものみな、わかっていた。

 泣いた子供であるが、それでも幼児ではない。我に返りながら泣き止んでいく。そうなれば、恥ずかしさで消えてしまいたくなった。すかさず欒成は傍に近寄り、拝礼した。

「我が君は立派な決断をいたしました。屈辱の英断です、口惜しさが出ても羞じることはございません。臣として誇りでございます」

 欒成の本気の声に、光が照れくさそうに小さく笑った。

 晋の分家ごとき、周の軍事的看板である虢の相手ではない。一気に軍勢を入れ、った。

 伐つというのは、ただ追い払うだけではなく、その領地にまで進行し鄙邑ひなゆうを攻撃する意味である。曲沃としては最後に手痛い反撃をくらうこととなった。しょうは腹立ちまぎれに虢軍へ唾を吐き捨てた。君主の行いというには品がなさすぎるが、父の晩年に虢に邪魔をされ、今回もである。翼よりも虢に対する憎悪が増した。

「翼を亡ぼしたら、次は虢だ!」

 なんとか追い返した虢軍を見ながら、称は吐き捨てた。周りの臣たちは肩をすくめるだけである。翼を亡ぼせるかどうか、実のところわからぬ。すぐに亡ぼせると桓叔かんしゅくは思っていたであろうが、もう孫の世代である。ずるずると膠着し、次代に引き継がれてもおかしくはない。そして、たとえ翼を亡ぼしても、虢は亡ぼせぬ。国力が違いすぎた。そんなことは、称もわかっているが、言わずにはおられなかった。この青年にとって残念なことであるが、彼は虢を亡ぼせなかった。彼の人生は翼との対峙で終始していく。

 冬が終わる前に曲沃を討ち払い、翼は一息つくこととなった。虢公かくこうに感謝の宴席を設け、光が晋公としてもてなして、この戦争を終えることとなる。当時、儀礼に関して細かい取り決めがあり、またこれこそが王侯貴族にとって重要とされている。周室の決めた儀を正しく行うことこそ、礼の証となる。欒成は父や師に儀礼を叩き込まれており、それを光に全て教え込んだ。光はその質まではわからずとも、形だけはととのえることができた。

 東アジアに生まれたこの文明は食への拘りが強い。つまり、食事全てが儀礼である。

 ひとつひとつの料理に祀りがあり、それを行いながら決まった所作で食す。そのうち、仔羊の丸蒸しが運ばれた。虢公はそれを祀るそぶりをみせず、光をじっと見た。それは値踏みの視線であり哀れみと嘲りがまざっていた。父より年上の男の目は、突き刺すようでもあった。光は意味がわからず、困惑の顔で、周囲を眺め、欒成を見た。欒成も困惑し、虢公を見る。虢の人々は状況がわかっているようだが、口に出さぬ。つまり、饗応している晋の手落ちとしているらしい。光も、差配の中心であった欒成もわからぬ。

「ああ、失礼」

 乾いたものが床に落ちる音と共に、声がした。場違いなのんびりさであるが、品の良い声である。隰叔であった。彼は落とした胡桃くるみをそっと拾い、欒成の視線に合わせ、伺うように見て来る。こちらに投げろ、と言っているように思えた。欒成は頷き、隰氏しゅうしの非礼、許されよ、とまず皆に拝礼し

「この隰氏は杜伯とはくの末、かつて周室に仕えた大夫の血筋です。こたびの宴席でこのものが用意したものあるよし、我が君のひと声をお待ちしております。我が君といたしましては、儀と違うことを行うがため、なかなかお声かけできなかったことですが、私めせいが隰氏に命じ行ったこと。堂々と、お声かけなされませ」

 と、言葉を続けた。光は特別察しが悪い子供ではない。ここまで欒成がお膳立てすれば、とりあえず声をかければ良いであろう、と

「隰氏、許す」

 と言った。隰叔が拝礼し口を開く。

「貴き身でなけれども、我が君よりめいあり、謹んで申し上げまする。このたび、宴席に丸蒸しの羊をお出ししたは、伯父の虢、甥の晋のよしみを結ぶ宴席だけにあらず、天を祀り、周王さまの親戚としてちかいたいがため。我が君といたしましては、戦勝の儀にあらず、私めにご相談なされたよし、私は周室の儀礼に反しておらずと申し上げました。丸蒸しの羊を祀りましたなら、外に出て改めて盟いの儀式に案内つかまつります」

 隰叔の言葉を全て聞き、虢公が頷く。

「本来、我ら親戚同士の宴席はほぐした肉を出す。丸のままは天への生け贄であり、戦勝の儀にあらずと戸惑っていたが、そういったことであれば、こちらの器量が小さかった。我ら虢とそちら晋は今後も周に仕える衛士として、さらなる交誼を結ぼう」

 そこまで聞いて、欒成はため息をつきそうになるのをなんとか止めた。周のしちめんどくさい儀式をいかに正しく知っているか、が国としての体面である。後世の人間としてはどうでもいいだろう、となるのだが、彼らにとっては文明人としての軽重を問われると言って良い。欒成はそれを正しく知らず、晋公である光に教えられず。いつのまにか、翼は正しい知識が失われていたということである。それがいつからなのかわからぬが、少なくとも欒成は翼の衰退を感じた。

 それは光も同じである。彼は欒成以下、大人どもの言うとおりに物事を行っている。それが間違っていた、ということである。この先、何を指針にして良いのか。たかが食事の出し方ひとつであったが、彼の心は暗澹とした。

 ふと、視線を感じ、光は顔をあげる。虢公がじっと見てきていた。儀礼を曲げたのは晋である。虢はそれを受けると返した。光はさも予定調和であったというていで礼を言わねばならぬ。

「伯父と甥として共に絆があれど、天に盟い互いの繁栄としたい所存でございます。戦勝の儀から外れるゆえ、若年の身として申し出せなかった非礼をお詫びいたします」

 光の言葉に、虢公がゆったりと笑んだ。

 慶事に始まり、苦味に終わり。新たな翼の年は、前半の歓喜よりも後半の辛酸の記憶が強く残ることとなった。虢公はご親切にも、

「これからもお力になろう」

 と言い残して帰っていった。天に誓う同盟をしたのであるから、お言葉ごもっともであったが、晋に介入をするという宣言でもある。結局、内部の曲沃、外部の虢と、翼は二面体制で年を越すこととなった。

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