創世記

はに丸

第1話

 寒風が乾いた大地を薙ぎ、欒成らんせいの肌を刺した。その痛みはそのまま敗北の痛みでもあった。薄い冬の空には、雲ひとつない。陽光は柔らかかったが、暖かみを感じなかった。

あるじ。いかがなされますか」

 御者が言った。四頭立ての馬車――兵車へいしゃの先に、勝利にわく敵がいる。助けるはずのゆうは、抵抗も無く降ったのが見てとれた。遠くから眺めていても、わかるほどである。

 敵襲の知らせに、ただちに軍を率いたが、戦うこともなく負けた。あの邑にとっては渡りに舟だったのだろう。衰退とどまらぬよくを離れ、興隆輝く曲沃きょくよくに身を寄せることは理にかなっている。この場合、節度は氏族うじぞくの安全のために捨てても良い。

「もはや、守る邑は無い。帰還する」

 欒成は全軍に向けて命じると、御者に行け、と言った。一戦も交えていないのに、疲れ果てた様子で兵車は進み、歩兵どもは足を引きずるように歩く。欒成は、彼らの悔しさと虚しさがわかりつつも、

欒氏らんしのものが背を丸めるな、下を向くな!我が君の元へ帰るのだ、顔を上げ前を見ろ」

 と怒鳴った。手勢の大夫も兵も、我に返ったように背が伸び、唇を引き結んだ。敗軍とは思えぬ威厳をもって、軍は再度進みはじめる。

 いじらしい手勢を見回した後、欒成は振り返り、邑を我が物とする敵を見た。そこにはまぶしさだけがあった。

 紀元前八世紀、東アジア。今でいう中国山西省に、しんという小さな公国があった。

 春秋時代しゅんじゅうじだいと一般的に呼ばれているこの時期、黄河流域には百を超える中小の国家があった。国といっても集落のようなものも多い。晋もそのような小国のひとつである。

 当時、宗主国であるしゅうは政治の乱れと異民族侵入で凋落し、有名無実となっていた。

 都市国家群は周を祭り上げたまま、勝手に食い合いを始めていた。どれだけの名も知れぬ国が消えていったのか、わからぬ。東アジアにおいて、一つの油断が亡国に繋がる、最初期と言ってよい。

 よりにもよって、このような時に、晋は真っ二つに分かれていたのである。

 本家、兄である文侯ぶんこうの血筋、都をよく

 分家、弟である桓叔かんしゅくの血筋、都を曲沃きょくよく

 それぞれの都を拠点に晋の主権をめぐって争っていた。曲沃の勢いは最初から激しく、翼は削られるばかりである。

 この内乱がいかに激しかったか。曲沃に桓叔が封じられてから約三十年の現在、分家は三代を数えるだけであるのに、翼は文侯から五代目であった。翼は、たとえ幼くとも長子に継がせ続けている。本家としての意地であったのか、それだけが存在意義だったのか。

 欒成は翼の大夫たいふ――貴族であった。名家かつ重臣であり、文侯と桓叔が共に歩んでいた時代を知っている、数少ない宿将でもある。彼の父は桓叔の目付を命じられ、そのまま曲沃の臣となった。欒成はそれを追わず、翼に留まり続け、それきり永の別れとなった。

 ――父上にとって、それがてい というものであったのだ。

 欒成は父を裏切り者だとは思っていない。桓叔の目付として命じられた以上、確かな目で桓叔を見定め、その人格や能力を受け入れ、全力で支えることを決めたのであろう。

 夕闇で空と大地が溶けるころ、翼をぐるりと囲む城壁が見えてきた。都市国家における城壁は、城を囲むものではなく、都市を守るそれである。土を幾重にも塗り固めた壁は、外敵を防ぐが、去っていく人々を堰き止めることはできていなかった。

 帰城し、軍を解散させると、欒成は衣を改めて宮城へ向かった。夜のとばりもおりようという時間である。本来であれば参内を控えるべきやもしれぬが、危急の時である。

 ただ、戦場で負けたのではない。鄙邑ひなゆう ――都市国家における衛星都市、隷属都市である ――をひとつ失ったのである。つまり、国力の低下に直結する。しかも、自ずから、戦うこともなく降伏したと考えられるのだ。他の付き従っている氏族や鄙邑に動揺が走るかもしれぬ。本家晋公しんこうであるこうに伝えねばならなかった。

欒叔らんしゅく。お戻りか」

 門を越えたところで、待ち構えるように背の高い男が立っていた。年の頃は三十終わりか四十始めか。精悍さと理知、その二つが詰まったような顔立ちで、頼もしさを感じさせる。ところで、しゅくは欒成のあざなである。いみなであるせいを呼ぶのは父祖か君主だけである。

隰叔しゅうしゅく。汝はここで何を」

 欒成の言葉に隰叔は手で促し、それよ、と頷きながら歩き始めた。欒成は共に歩き出す。

「あなたの帰参が早すぎる。勝ち負けどちらにせよ伝令を走らせようなものだが、それも無し。戦で異変があったのではないか。情報は生き物だ、活きが良いほど良い」

 にこやかに笑む隰叔の目は鷹のように鋭い。欒成はもちろん、ごまかすつもりもなく子細まじえて返した。隰叔が、少し顎に手をそえる仕草をしたあと、

「あの邑は、攻められたから諦め、新たな道に目覚めた……か? はなからそのつもり、否、ひそかに繋がっていたのではないか?」

 少々の含みをもった声で言った。元々、手引きしていたのではないか、ということである。下手をすれば、邑と曲沃軍で欒成は挟み撃ちされていた可能性もあったのではないか。

 あえて言っていないが、隰叔の目つきは雄弁に語っていた。

 欒成は、手で制し、首を振った。

「証拠は無い。彼らは軍勢を見て心の糸が切れただけやもしれん。我らが向かう前に邑は陥ちた。それ以上ではないのだ」

「そのように奏上してお若い君公くんこうが納得なされるか。きっと、悲しみご自分を責められる。まだ、他者の責にするほど育っておらん」

 隰叔の言いように、欒成は思わず立ち止まり、呆れた顔をした。まるで、年よりは人に責任を押しつけると言わんばかりである。常識的に考えれば、子供は己が責がわからず他者のせいにする、大人は己の責を負うということになる。欒成はそれを述べた上で、

「汝の、戯れ言を弄ぶ癖はよろしくない。誤解を受けてしまわれる。その……年よりの言葉はうるさいと思うやもしれぬが、心に留めてほしい」

 眉の上を指で搔きながら、生真面目に言うと、隰叔が、はじけたように哄笑した。

「確かに、戯れ言です。言い方が悪かった。では申し上げよう。我が君はまだ幼く、己ができることできぬことがわからぬ。今回のことも、己が不甲斐ないと悲しむであろうが、それは努めればなんとかなったはずだ、と誤ったお考えから出るもの。君公であっても、広げた手の大きさに限りがある。それを大人は知っている。あなたも、己を責めておらぬ。曲沃の勢いに負けた、と思っておられる。そういうことだ。どうしようもないものは、どうしようもない」

 欒成は隰叔の言わんとしていることがわかり、軽く頷いた。

 幼き晋公こうは、年が明けてようやく十二才という若さである。若すぎると言って良い。

 いまだ加冠の儀を終えておらず、戦場に臨んだこともない。いじらしいこの子供は、親から引き継いだ責務を幼少のころから感じ、務めようとしては無力さに肩を落としている。

 特に英邁ということもなく、凡な少年で才も無い。年上の臣下どもの言葉に頷くしかできぬ。それを不甲斐ない、己が子供で力が無いからだと思い悩み始める年でもあった。

 もうすぐ加冠し大人になるというのに、己は無力であると、少年君主は思ってしまうであろう。自責は焦りを生み、あやまちを呼ぶ。少年にありがちといえばありがちな作用であったが、光はそう流すには偉すぎた。

「確かに我が君は、少々思い詰めるところがある。……絶えずご不安なのだ。支える我らの不甲斐なさでもあるな」

 隰叔が、どうするのか、という目を向けてきたが、欒成は黙って再び歩き出した。どうしようもないものは、やはりどうしようもないのだ。欒成は真っ直ぐに生きてきた男であり、立ち回りは不器用ともいえた。気の利いた言葉で光の気持ちを和らげることなどできぬ。誠実に向かい合うしかないのだ。

 古代は日の出と共に一日が始まり、日の入りで一日が終わる社会である。光は、就寝していてもおかしくなかったが、欒成が帰参したと知って待っていた。床から冷たさが這いすがる中、毛皮の席の上で座す。この時代、椅子は無く、席というむしろのようなものの上で正座をしている。いくら暖かい毛の上に座っていても、冬特有の冷気は、少年の足を刺すように苛んでいたであろう。しかし、光はひたむきな顔をしながら、じっと待っていた。欒成が戻ってから、ゆうゆうと政堂に来るのが君主の余裕というものかもしれなかったが、いてもたってもいられなかったのである。

 欒成は、結果的に君主を待たせたことになった。ぬかずき、臣下としての非礼をまず詫びた。光が慌てた。

「いや、私がその、一刻も早く、そなたの顔を見たかったのだ。無事に戻り、良かった」

 声変わり前の甲高い声が部屋に響いた。欒成は体を起こし、安心させるように微笑む。

「臣への温かいお言葉、たいへん畏れ多いことでございます。そして我が君のとして、嬉しく思います。臣、民を養い労ることこそ君公の本分。私の教えを身に溶かしておられる、傅としてこれ以上の喜びはございません」

 欒成の柔らかい言葉に、光があからさまに安堵の顔を見せた。傅とは、君主の師と思えば良い。欒成は翼の重臣であり、なおかつ光を教導した師でもあった。光にとって近臣というより寵臣に近い。尊敬する師であり、信頼する重臣であり、憧れの武将というわけだ。

 ただ、欒成は節度をもって、線を引き距離を保っている。

 光が少し力を抜いたのを見て、欒成はちりちりと心が焼けるようであった。この少年に辛い現実をつきつけなければならぬ。少し息を吸った後、口を開いた。

「我が君に申し上げまする。こたび戦わずして負けました。邑は曲沃に抗うことなく降伏したよし、こちら謹んで申し上げます。非才の身、我が君の徳を知らしめることあたわず不甲斐ないばかりでございます。……邑の氏族に連なるもの全てが曲沃へ降ったわけではございません。この翼にも、他の邑にもおります。おそれながら申し上げます。そのものたちの罪を問うてはなりませぬ。罰を与えてはなりませぬ。もし罪を問い罰をお与えになるのであれば、この成にまず願います。我が君の威光を知らしめること足りぬ老臣に罪があるものです」

 部屋に深みのある声が柔らかく響く。光は最初、失望を見せ、次第に静かな悲しみの相貌を見せたが、欒成が己に罪ありと言ったあたりで、途方にくれた顔をした。しずしずと欒成がぬかずき額を床にぴったりとつけた時には、頬を染めて唇を噛んだ。光は、恥ずかしくなったのである。己が不甲斐ないと自責し、目の前の寵臣の屈辱を思った。欒成の名誉のためにも、裏切った邑に連なるものを見せしめに罰すべきとまで考えた。その発想が幼く卑しいと、光は恥じ入ったのである。

 欒成は、正攻法しか無い男である。本気で、光の威光を知らしめることのできぬ己に忸怩たる思いをいだいている。それと同時に、光が欒成にぴったりと添い、どこか未分離であることも察している。常に臣として線を引き、傅として道を示すことを己に課していた。

 さて、この場には、光と欒成だけがいるわけではない。隰叔も後ろに控えていた。彼は、欒成に比べると晋室しんしつから遠い存在である。六十年以上前、周の大夫であった杜伯とはくは意味なく粛正された。この一族は晋へ亡命して帰化した、いわば外様というものである。しゅうは下賜された邑の名であろう。晋では与えられた邑の名を氏族名にすることが多い。叔は諱ではなく、伯仲叔季はくちゅうしゅくきという生まれ順からきたあざなと推測される。長男次男三男末子のうち、三男以下末子ではない、というわけだ。諱は伝わっていない。この、亡命三代目の男は、立ち位置からもその性格からも、外側から物事を見る人間である。欒成の誠実さが光の胸を打ちつつも、少々圧していることに気づいていた。彼らは近すぎるがために、時折このような濃さが浮き上がる。それを淡くするように、隰叔は静かに言葉を紡いだ。

「率爾ながら申し上げます。邑が抵抗も無く敵へ降ったは、やはり見過ごすことできぬ話。元々通じていたと思われても仕方のない行いです。しかし、欒叔のおっしゃること最も。連なるものの罪を問うのであれば、まず世話行き届かなかった我ら重責の臣に罪を問うべきです。ゆえ、翼に身を寄せるものの罪は問うべきではない。問題の邑へ来年軍を出し、威光を示してはいかがか。我が君の加冠の年です。初陣にそのお姿を彼らにお見せして、再び戻るよう呼びかけるのです」

 隰叔の言葉に、光が困惑を隠さず欒成を見た。年が明ければ、加冠し成人となる。ようやく戦に出られるというわけだが、それで曲沃に降ったものを引き戻すことができるのか。

 とまどう光をまっすぐに見ながら、欒成は言葉を引き継ぐ。

「罪を問わず温情をお見せになることこそ、肝要。彼らは翼に一言も無く抗いもせず曲沃へ降ったことに負い目がございます。うじを率いるもの、大夫であるもの、民を養うものであれば、必ず恥を知っており、自ずから罪を覚えております。その罪を許すとするのがよろしいでしょう。戻るのであれば不問、戻らぬのであれば、改めて敵として交えるのです。そのためにも我が君の加冠の儀を盛大に執り行い、喧伝せねばなりますまい。そして嫁を迎える儀がございます。加冠、婚姻、初陣。年が明ければ忙しくなります、今は心を落ち着かせ、研鑽することが大切です」

 例え、光が出陣しても兵力差が覆るわけではない。しかし、威信を見せることで内部を固めることもでき、曲沃への牽制にもなる。たった十一才の少年が欒成の言葉全てを理解したかどうか。しかし、君主としての責務と矜持、それを背負う覚悟を光は感じ取った。

「私はそなたたちに支えられるだけの幼い君主であった。しかし、年が明ければ私がそなたらを率い、文侯の名に恥じぬ晋公になろうと思う。……邑の件、動揺するものもおろう。どうすればいい」

 言葉ひとつひとつを噛みしめるように紡いだ後、光が二人に問うた。欒成が応える前に、隰叔が

「下席から申し上げることをお許しを」

 と素早く言い、

「曲沃は虎狼と同じく、その言葉は虚偽、行いは非道、残忍酷薄そのものです。その言葉を信じぬようみなに強く伝えましょう。降ったものどもも、いつか悔いて戻ることもあるでしょう。君公におかれましては、安心してお休みください。もう、遅いお時間です」

 さらりと光に返した。曲沃も虚偽であるが、隰叔の言葉もどこか詐欺くさい、と欒成は少し眉をしかめる。光を納得させるためだけに出した言葉に思えた。

 基本的に従順な子供である光は、そんなものか、と頷き退出していった。

「隰叔。今の言葉は、誠実ではないのではないか」

 欒成は立ち上がり、強く言った。隰叔が苦笑を見せ、さよう、と返す。

「子供だましの言葉であったと、認めましょう。我ら重責を担う氏族たちが、脅ししめつけ、逃げるなと刃物をちらつかせ、恐怖を以て落ち着かせる。それ以外無いと言うのは、酷でしょう」

 いまだ君主に神性を認めていた時代である。隰叔の行いは不敬と言って良い。しかしそれでも隰叔は子供に事実は言えぬ、と首を横に振った。欒成は一度目をつむった後、隰叔を見据える。

「汝は我が君を見くびっておられる。たとえ加冠しておらぬとも、君公としての覚悟はされておられる。その覚悟を信じず偽言を弄するは不実というもの。不実な言葉で安堵することは、一瞬の気休めになるが亡びに向かう。人は誰しも弱い。嘘の安心を求めて不実に縋るようになるものだ」

 強すぎる言葉になった、と欒成は気づき、

「言い過ぎた」

 と最後に付け加えた。隰叔が、しらけた顔でため息をつく。

「あなたが正しい。しかし、みなあなたのように強いわけではない」

「私は強くない。人は誰しも弱いと言ったのだが……。伝わりにくかったであろうか」

 本気で困惑する欒成は、強い武人というより木訥なそのものである。隰叔が欒成の顔を覗きこみ笑んだ。いたずらめいた、少し意地悪い微笑みである。

「あなたはそういう、田舎くさいことをなされる、ずるい。私が悪者のようではないか」

 欒成は、隰叔のふざけた言葉をまともに受け取った。あなたは悪者ではない、と丁寧に伝えた上、

「杜伯は周の大夫、法を尊ぶかただったと伺っております。隰叔はその儀、礼を受け継いだ都の血筋をお持ちです。私はこの晋で生まれ育った田舎ものゆえ、浅学非礼なところもあろう。あなたに習うことも多い。私に礼を外す行いや言葉があれば、遠慮無くおっしゃってほしい」

 と、真面目に言った。

「やはり、あなたはずるい」

 隰叔が哄笑したあと、帰りましょう、と言った。

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