5 謎の影
アルの意識は闇の中で漂っていた。誰の声も聞こえないし視界に何も映らない。胸の奥で冷たい感触が蠢いていて、気を抜けば全てを持っていかれそうになる。助けを求めているはずなのに、怖いはずなのに感情が浮かんでこない。まるで世界との繋がりがバッサリと閉ざされたようだ。
一方アステルは、逃げ惑う人々にぶつかりながら、黒いもやに向かって走っていた。声を搾りあげて叫ぶ。感情よりももっと激しい、衝動といっていいものに心を支配されていた。
「アル!」
やがて少しずつ、もやが晴れていく。そこにアルの姿はどこにもなかった。あったのはアルよりも随分と背の高いシルエットだ。顔も肌もない、闇色の影と輪郭だけだった。
「まだ完全といった感じではないな」
それは不気味な声で笑う。
シュラが言った。
「あなたが一人の子どもの命など、もはや顧みないことはよく承知しております。しかしなぜ、今なのです?もうあなたの時代でないことはご存知でしょう」
「この世は始めからずっと私のものだが?時代でないのは、お前達の方ではないのか?」
「たわけたことを」
シュラが腕を軽く掲げると、風が再び現れる。風は影に怯えているのか、小さく縮こまっている。影は笑った。
そしてそれが、合図だった。
次の瞬間、烈風が大地を駆け抜ける。影が、助走をつける鷺のように一気に地を駆け抜けた。影の爪先がシュラの喉を切り裂く直前、燃え上がる深紅の剣が、前に躍りでた。アステルがシュラを守ったのだ。
「アル!しっかりしろ!一体どうしたんだ、その姿は!」
アステルの息が少しだけ上がる。影の力が、人とは思えないほどに強大で、少しだけ地面に足が沈む。炎は黄色と赤を行き来する。
「アステル、私を守らずに逃げなさい」
「シュラ様こそお逃げください!」
アステルの足が、重みで一歩分下がった。力の差をみせつけられる。押されている。靴の裏にこもった熱が、じゅうっと蒸気を吐いた。
「は、なんと愚かな。この私から逃げられる気でいるとは」
剣がギシ、と嫌な音を鳴らした。アステルの頬に汗が流れる。まずい。このままでは剣に傷が入ってしまう。もし剣が折れでもすれば。
嫌なイメージが頭の中を流れる。それは、自分がかつて見てきた人々の表情だった。人生を諦めたかのような、絶望に満ちた表情。彼らは皆、『器』に傷を持つ者だった。
ぞくりと背筋が波打つ。しかし、もっと恐ろしいのはアルに声が届かないことだ。
「アル!私のことがわからないのか!?」
必死に呼びかける。息子の名を叫ぶ。アルがこのまま消えてしまうのではないかという恐れをかき消すように。
その時シュラの左手が、アステルの肩越しに掲げられた。
「アステルよ、動くな」
掌から黄緑のオーラが溢れていく。生命力の色のようだ。
アステルの剣は、全く衰えない影の力に限界を迎えつつあった。
「アル!」
最後に影は囁く。
「手向けに一つ教えてやろう」
影はアステルの鼻先にまで近づいた。その邪気に思わず、アステルの足が細やかに震えた。
「私はいつか、この少年の身体を完全に自らのものとし、この世界を、とる」
胸の中が氷のように冷たくなっていく。
その時、シュラが何かを呟いた。直後、アステルの後方で白い光が爆発した。咄嗟に目を瞑った彼は、影が呻き苦しむ声を聞いた。光は滝のように、襲いかかっていった。影は頭からさらさらと消え始めた。
「小癪な……老ぼれが!」
やがて黒い影は完全に消え去った。アステルは目を開ける。アルが倒れていた。
アステルはあざの目に全てを見透かされているような変な気になりつつも、すぐさま駆け寄った。
「大丈夫か!」
肩を揺らすとアルは、小さく唸った。
「なんだったんだ」
アステルが思わずそうつぶやいていたのと、その後ろでシュラが静かに倒れたのは同時のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます