第十話 密偵

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 ガルディノ領の重鎮であり貴族の一人、エルメル・ナーシュは、無人の荒野に引き立てられ、地面に膝を突かされていた。


 「わっ、私を……どうするつもりだ……?」


 膝の裏を湿った下草が擦っていく感触に、冷や汗が止まらなかった。

 自分の脇に立つ兵士は、無言のまま答えない。


 エルメルは決して愚かな男ではなかった。

 身辺の不穏な気配を察知して、家族は妻も子供も国境近くの別邸に移していた。


 自分自身は国外脱出の動きを悟られないよう王都に留まり、表向きはいつも通りに過ごしていた。家族のことは、重い病気にかかったのでよそへ移したとごまかしておいて、裏で手を回して少しずつ、準備を進めた。


 万が一の時の為に手も打っていた。

 それでも──まさかこんなに早く、強硬な手段が取られるとは思わなかった。


 「我々は失望しているのですよ、エルメル殿」


 自分を自宅から拉致し、この人気のない草原まで連れ出した兵士が冷ややかな目でこちらを見下ろしていた。


 「あなたまでがガルディノ王家に対する忠義を忘れ、我が身かわいさに保身に走るなどとは、ねっ!」


 おもむろに兵士が近づき、エルメルのみぞおちを蹴り上げた。

 「ぐっ、おっ!?」エルメルは苦悶の声を上げて膝を折り、込み上げてくるような痛みに堪え切れずに地面の上に吐しゃ物をぶちまけた。


 兵士はそれにとどまらず、エルメルの髪を掴むと強引に引き上げる。


 「何故、あんたまでがロクト様を見限ろうとする?代々ガルディノの家に仕え、歴史資料の管理を任されたあんたが、何が不満でガルディノを出ようとする?」


 「……ろっ、ロクト……様の、改革は……あまりに拙速だ」


 エルメルは咳き込みつつ、それでもどうにか訴えた。

 自分だって、好き好んでこの地で代々築き上げてきた地位を捨てようとしているのではない。


 「領民を……納得させられるだけの、後ろ盾もなく……事を進めようとしている。領民のついてこない改革は……ただの暴走だ。大陸中央に訴え出られたら、ガルディノ王家など……吹けば飛ぶような辺境領主でしかない」


 ぜえぜえと息を吐きながら訴えをどうにか伝えたが、その途端、顔面を激しく殴られた。


 「……後ろ盾ならある。女神ラクシャラの神威が、ガルディノ王家の手に戻るのなら、ガルディノは再び強国へと返り咲く」


 冷ややかな声が、血を吹いて倒れ込むエルメルの上に吐きかけられた。


 エルメルは苦痛と息苦しさの中でも──思わず笑いが込み上げてきた。


 「それが……愚かだというのだ……」


 未だにこんな認識でロクトに付き従っている彼らが哀れですらあった。

 ガルディノ家の資料、この国の歴史を知悉ちしつしている自分であるからこそ分かる。


 「は……そんな都合のいい存在では……ない」

 「黙れぇっ!」


 自分を見下ろす兵士が、激情と共に剣を抜き放った。

 そのまま自分の首めがけて振り下ろされる白刃に、エルメルは覚悟を決めた。


 〇


 自分の人生を終わらせる剣の刃は降りてこなかった。


 ひゅっ、と風切り音が聞こえたと思うと「ぐうっ!?」と兵士が苦悶の声を上げて地面の上に倒れ込んだ。


 近くの茂みの陰から小さな影が、この場に飛び込んできた、と思う間もなく、続けざまに矢が放たれて、もう一人の兵士が殴りつけられたように倒れた。


 エルメルはその場の混乱に乗じて、とっさに逃れようと思った。


 「逃がすかあっ!」

 

 しかし、残った兵士の一人が自分を仕留めようと剣を掲げ突進してきた。

 エルメルも必死に逃れようとするが、血に濡れた下草に滑って、立ち上がろうとして派手に転んだ。


 その頭上を──巨大な白い影がよぎっていく。


 巨大な獣の体に弾き飛ばされた兵士が、まるで人形のように吹っ飛んでいった。

 その光景を呆然と見ていたエルメルを、巨大な──狼が振り返った。


 「ひいっ!」


 ぐるるるる、と低く唸る自分の頭など造作もなく噛み砕いてしまいそうな狼の顔に、エルメルは腰が抜けて膝から崩れ落ちた。


 「ルガー、そいつは大事なお客様だ。喰うんじゃねぇ」


 巨大な白狼の隣に立った小柄な影が、軽く首筋を叩いて狼を止めた。


 「……エルメル・ナーシュだな?間一髪の所で助かってなによりだ」

 「あ、ああ……」


 エルメルはへたへたとその場にへたり込んだ。

 自分が助かったのは分かる。だが──


 「あんた、まさか……『蜘蛛』か?」

 自分が裏で手を回していた内通者の符丁となる名を告げると、明らかに人間ではない黒服面に黒装束の小柄な男がうなずいた。


 「ただものではないと思っていたが……人間ではなかった、のか……」

 「おっと、余計な詮索は無用だ」


 それだけ言って『蜘蛛』と名乗った人ならざる者は、エルメルへ向けて手を差し出した。


 「約束通りあんたの身は守ってやった。あんたの方の誠意を見せてもらう番だ」

 「わ、分かっている……」


 巨大な白狼の存在におののきつつも、エルメルは懐から大事に隠し持っていた書物を取り出した。──ガルディノ家の書庫から持ち出した古書だ。


 「これに、そちらの主の知りたがっている情報があるはずだ」

 「なるほどね。まあ、あんたもここで危ない橋を渡る理由もない。信用するよ」


 覆面の奥からちらりと古書を検めて『蜘蛛』は古書を受け取った。


 「余計なお世話かもしれんが、あんたこれからどうするつもりだ?」

 「……国境近くの村に送った家族と共に、国を出る」


 『蜘蛛』の差し出した清潔な布をありがたく受け取り、顔の傷をぬぐう。


 「事ここに至って……もうガルディノにはいられない」

 「あんたは周到だ。そちらはそちらで手を回しているだろうから、俺はここまででいいな?」

 「ああ、問題ない。……ガルディノは、何故、こんな事になって……」


 エルメルは悲嘆に暮れた様子で両膝に手を突いた。

 それを見て『蜘蛛』は覆面の奥で目を細めた後、白狼と共にその場を去った。


 〇


 人の通わぬ荒地に出て『蜘蛛』と呼ばれた密偵は、鼻をうごめかせた。


 「おい、ルガー、長い間人間の近くに隠れてて、臭いが移ったんじゃないか?」


 その言葉に、隣を歩いていたルガーと呼ばれた白狼が、抗議の声を上げるように一声唸った。


 「……俺も同じ、か。お互い長いこと人間界に居すぎたな」


 『蜘蛛』は笑い声をあげて、覆面を脱ぎ、素顔を天頂に輝く月の光にさらした。

 西に広がる荒地を見て、〈小鬼ゴブリン〉の青年は目を細める。


 「目的の物も手に入った。……一度〈魔族領〉に帰って、ジャンヌ様に報告だな」

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