第七話 朝の一幕

 わたしが〈魔族領〉に足を踏み入れてから、少し月日が過ぎた。


 窓から差し込む朝の光にぱちぱちと目を瞬くと、軽く寝台の上で身じろぎをした。

 すると、少し離れた同じベッドの上から声がする。


 「……目が覚めたか?」


 あくびを噛み殺すような眠たげな声に振り返ると、ジャンヌ様がクッションの上に肘を突いて、わたしを見詰めていた。


 「はい、おはようございます。ジャンヌ様」

 「ん」


 わたしが朝の挨拶をすると、まぶたを閉じて軽くうなずき、ベッドから出て寝室を横切っていった。


 ──結局あれから、わたしはジャンヌ様の寝室で寝起きを共にしている。

 昼間は、ゲルデさんが用意してくれた部屋で過ごすこともあるけれど、夜が更けて寝る時間になると、自然と足がジャンヌ様の寝室に向かうようになった。


 結局、その方が都合がいいらしく、ジャンヌ様も特に何か苦言をていすることもなく、黙ってわたしを自分と同じベッドに招き入れてくれる。


 そういうわけで、今日もこうしてわたしはジャンヌ様の部屋で朝を迎えた。


 〇


 わたしは寝床の端に腰かけて、寝巻から普段の巫女の衣装へと着替える。

 普段使っている寝間着は、ジャンヌ様が前に着ていたものしかないのでそれを借りて使っているが、かなり丈が余っている。


 そうしている間、ジャンヌ様は姿見の前の化粧台で寝ぼけ眼で髪を梳いている。


 ジャンヌ様は多分、華美な衣装を好まず、着る物にそれほど頓着しない方だ。

 だけどその代わりにその鴉の濡れた羽のような黒い髪には思い入れがあるようで、絶対に人に触れさせることがない。

 今日も自分の手と、必要であれば腕から生やした魔力の闇を使って、長い髪を丁寧に梳いて、結い上げている。


 わたしはその様子をなんとなく眺めていたが、今日はおもむろにジャンヌ様がこちらを振り返った。


 「小さいラクシャラ」


 そうわたしを呼んで立ち上がると、自分が今しがた座っていた化粧台の前の椅子を軽く叩いた。


 「はい」

 「こっちへ来い」


 静かな声音に目を瞬いていると、ジャンヌ様は息を吐いた。


 「髪はたまにでも梳いた方がいいぞ。やってやるから、来い」


 わたしはその申し出に一瞬ぽかんとしたが、ジャンヌ様が不本意そうに唇を尖らせるのを見て、慌てて──それでもおそるおそる化粧台の前の椅子に腰かけた。


 姿見にジャンヌ様と緊張した面持ちのわたしの姿が映る。


 ジャンヌ様は手慣れた様子で櫛の歯に油を差して、余分なそれを紙でふき取り目を細めて確かめた後で、ゆっくりとわたしの髪をほぐすように櫛を通した。


 「あちこち絡まってるし、枝毛もできてるな。……色艶はいいのにもったいない」

 「……ラクシャラ様の神殿を出てから、まともに手入れしてませんでしたから」

 「昔使ってた私の道具なら貸してやれるが。それとも私がやった方がいいのか?」


 ジャンヌ様が何気なく尋ねるのに、手間をかけさせるわけにいかないととっさに思ったのだけど──


 「……ジャンヌ様の方がお上手ですし、よければこれからも朝起きた時してもらえると……助かります」


 何故か、そんな気持ちと裏腹に自分の口がそんな事を言っていた。

 ジャンヌ様はそれについて特段、何か思うでもない様子でうなずいた。


 「分かった。それでいいなら、そうしよう」


 そう言うジャンヌ様はわたしの髪を梳いているのに夢中になっている様子で、それ以上何かを口にすることはなかった。


 〇


 毎日の朝食も、ジャンヌ様と食堂で一緒に取るようになった。


 「おはようございます。ジャンヌ様、ラクシャラ様」


 食事はゲルデさんが毎朝、給仕をしてくれる。食事の用意をしている人も他にいるのだろうけど、ゲルデさん以外の人をわたしの周りで滅多に見かけない。


 「タルレス様のことがありましたから、ラクシャラ様のことは外に漏れないように人払いをしてあるのです」


 その疑問を聞いてみると、ゲルデさんが顔を引き締めた。


 「タルレス様も多分、ジャンヌ様が何かの理由で自分の領土を離れたことは察知していても、何をしていたかまでは知らなかったのです。……それを、自らの眷属を使って探らせ、ラクシャラ様がいたのをおびき出したのでしょう」


 この前の騒動の真相がそれらしかった。

 〈魔族領〉の中の魔族といっても、それぞれに思惑のある油断ならない相手同士が隣り合っている状況なのだという。


 「タルレスの奴なんかはまだ単純な方だ」


 ジャンヌ様がスープをすくう匙を止めて、うんざりした表情を浮かべた。


 「あいつも結局、私を殺したり、領土を奪いたくて突っかかってきてるわけじゃない。ただただ私と戦いたくて、懲りもせずに挑んでくるだけだからな」

 「タルレス……様、以外にもそういうジャンヌ様を狙う方がいるのですか?」


 わたしが尋ねると、ジャンヌ様は渋い顔でうなずいた。


 「……結局は〈魔族領〉の魔族も、異種間戦争の時代が終わって、人間たちから強引に押し込められた者同士だからな。互いに腹の内は読めない」


 ほんの少し前まで〈魔族領〉の存在さえ知らずにいたわたしには、それは何の係わりもないことなのだけど、ジャンヌ様が困り果てた様子でいるのを見ると、少しばかり肩身の狭い思いがした。


 「私がアスタルテ家の領土を継いで十年になるが、未だに自分の領土の内側のことで手一杯だ。……他の連中のことも知らないわけじゃないんだが、な」


 ジャンヌ様は思わずといった風に愚痴をこぼしたが、すぐに気を取り直した様子で飲み終えたスープを脇へよけた。


 「それより……今日は城の外へ出る」

 「はい。何か用事があるのですね」


 これまでも、昼間、ジャンヌ様が城の外へ出かけることはないわけじゃなかったので、今日もそれでわたしはゲルデさんと共に城に残るのだと思ったけど──


 ──「……お前も私と一緒に来るんだぞ」


 ジャンヌ様が呆れた表情でわたしを見下ろし、低くそう告げた。

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