第一話 襲撃

 頑丈な、物々しい馬車の中に押し込められて、どれだけ時間が経っただろう。


 ほとんど光の差さない馬車の内で、わたしは揺れる床の上に横たわっていた。


 ──どうしてこんな事になってしまったんだろう。


 わたしは手枷をはめられた両手を見ながら、その事ばかり考えていた。

 ラクシャラ様の巫女だったわたしは今、罪人としてガルディノの領土から追放されようとしている。


 まぶたを閉じると、わたしを受け入れてくれた村人たち──大きいラクシャラの姿が浮かんだ。


 「わたし……一生懸命……がんばって、ラクシャラ様に、お仕えして……」


 でも──

 ──わたしは自分が追い出されないように、周囲の期待に応えようとしていただけじゃないだろうか。


 (ならこれは……わたしへの罰なんだろうか)


 考えると、涙がにじんだ。他にどうしようもなくて──わたしはそのまま浅く落ち着かない眠りの中へと落ちていった。


 〇


 声が聞こえた。

 鴉の、鳴き声だ。

 目を見開くと、馬車の鉄格子のはまった窓に、濡れたように黒い羽の鴉が留まっていた。鴉は馬車の床の上に倒れるわたしをじっと見詰めている。


 馬車はいつのまにか停まっていた。


 (もう、どこかに着いたの?)

 わたしは手枷をはめられた両手をもぞもぞと動かして体を起こした。


 鴉が一声高く鳴いて馬車の窓から飛び去っていった。

 広げた羽の向こうから、青白い月が差し込んできた。


 月の光のまぶしさに目を細めていると、馬車の扉が開いた。

 「出ろ。手間を取らせるな」

 振り返ると、いかめしい兜で素顔を隠した兵士が、わたしを呼んでいた。


 〇


 「ここは……」

 目の前に広がる光景に、わたしは目を瞬いた。

 そこは、青白い月に照らし出された下草の揺れる草原だった。


 それ以外に何もない。建物も、目印になるような場所も。


 「あの……」


 困惑しておそるおそるわたしを連れ出した兵士を振り返ると、いつのまにかわたしの周りをぐるりと兵士が取り囲んでいた。


 その不穏な気配に、わたしは息を呑んだ。


 「……隊長、本当にやるんですか?こんな子供を……」

 兜を目深にかぶった兵士の横で、押し殺した声で別の兵士がたずねた。

 「ロクト様の命に逆らうことはできない。……それに、今更だ」


 低い声で、表情をうかがえないほど深く兜をかぶった兵士が答えた。

 「俺たちが手を下した者の家族には幼い子供だっていたはずだ。既に汚した手をいまいちど汚すことを、ためらうわけにいかない」


 その声に──わたしは後ずさった。

 ゆっくりと剣の柄に手をかけるこの人が本気であることが、伝わってきたから。


 「逃げれば余計に痛く、苦しい思いをすることになるぞ」

 そんなわたしの行動を見透かした様子で、背後にいた兵士たちが退路をふさぐ。

 背後から両手をつかまれ、地面に膝をつけられるわたしの前で、月の光を鈍く反射する剣を抜いた。


 「……せめて苦しませずに終わらせてやる。動かん方がいいぞ」


 鋭い切っ先を振り上げて、その兵士はわたしめがけて剣を振り下ろす。


 そして──


 〇


 わたしを押さえ込んでいた兵士が、突然、殴られたようによろけて、その場に倒れ込んだ。とっさに逃れようとしていたわたしは背後に倒れて、振り下ろされた剣の刃は空を切った。


 「なんだ!?何が起こった!?」

 たちまち怒声が兵士の騒ぐ声が辺りを包んだ。

 全員が剣を抜いて、周囲を警戒した様子で振り返る。


 わたしは、自分の目の前に倒れ込んでいる兵士の背中を見た。


 矢が一本──深々と突き立っていた。


 (この人、死んで……)

 その意味を理解した瞬間、続けざまに周りで兵士の悲鳴が上がった。

 顔を上げると、私を取り囲んでいた兵士が何か大きな、銀色の獣に飛びかかられていた。周りの草に、血のしずくが飛び散っている。


 「くそっ!なんだ急に!?」

 わたしを斬ろうとしていた兵士が周囲を警戒する。


 そこへ──わたしよりずっと小柄で、それでいて俊敏な影が飛び込んできた。

 「っ!?」

 反射的に剣を構えたところへ、何度も青白い火花が散った。

 小柄な影は、わたしと兵士の間に軽い身のこなしで着地する。


 小柄な影は、両手に鋭く湾曲した短剣を握っていた。

 人間ではない。暗色の装束に身を包み、尖った耳と鼻をもったその種族は──


 「〈小鬼ゴブリン〉!?なんだってこんな時に!?」


 兵士が困惑して叫んでいる間にも周囲の草むらから飛び出してきたいくつもの影が他の兵士たちを斬り伏せていく。


 いつのまにか立っているのはわたしを斬ろうとした、あの兵士一人になっていた。

 「なんでよりによってこんな時に〈小鬼〉どもが襲ってくる!?」

 兜の奥で目をむいた兵士が血走った目をわたしへ向けた。

  「お前か!?お前が何かしたのか!?」


 鬼気迫る彼の顔に、わたしは地面を後ずさった。

 すると、私の前に立った黒装束の〈小鬼〉がすっと進み出て兵士をさえぎった。

 「えっ?」

 わたしを庇うようなその仕草に目をしばたく。


 これではまるで怪物たちは本当にわたしを──


 あっけに取られた瞬間、不意に私が囚われていた堅固な馬車がめりめりと不穏な音を立てて傾いた。


 ただ一人生き残った兵士が振り返った瞬間、逃げる間も、悲鳴を上げる間もなく馬車の下敷きになって押しつぶされた。


 その馬車の上から──強大な魔獣である〈ドラゴン〉を思わせる、鋼色の鱗に覆われた大蜥蜴がのっそりと姿を現した。


 〇


 わたしの目の前で起こっている出来事は本当に現実なんだろうか。

 現実でないとしたら、悪夢なのか、それとも地獄なのか。

 

 もう生き残った兵士は一人もいない。

 月の光の下で風に揺れる草の下で、骸となって横たわっている。


 わたしの目の前に立っていた〈小鬼〉が短剣を腰の鞘に納めて、わたしを顧みる。

 そのままこちらへ手を伸ばす──のに、わたしは反射的にびくりと退いた。

 〈小鬼)はそれで、なぜか手を止める。それ以上、こちらへ手を伸ばすことも何か仕掛けることもなく、その場にいる怪物たちを振り返って──


 ──「もうこの辺りに他に人間はいないな?」


 月明かりの中、はっきりと聞き取れる人間の言葉でそう怪物たちに問うた。


 「ああ。こいつら以外に人間はいねえ。これで全部だ」

 背中に弓を背負った別の〈小鬼〉が草むらから姿を現し、傍にいた銀色の──熊ほどもある大きな狼の背中をなでた。


 「……その人間の子供は、いいのか?」

 凛とした低い──でもまぎれもなく女性の声が聞こえて振り向くと、馬車の上の巨大な蜥蜴がわたしを見下ろし、金色の目を細めていた。


 驚きと混乱で逃げ出そうとすると、さきほど私をかばった〈小鬼〉がそっとわたしを振り向いて、心配しなくていい、とでも言いたげにうなずいた。


 「この子は特別だ。ジャンヌ様をお呼びしよう」

 「なら鎧を持ってきてくれ。いくらこちらの正体を隠すためとはいえ、地に伏す獣の真似とはな……」

 「なんだ、存外、似合っていたのに」


 軽口を叩き合う怪物たち。わたしは正気を失ってしまったんだろうか。


 でも、これが悪夢や幻覚だとしてもまだ終わらないようだった。

 不意に草原に吹きつけるような夜風が吹いて、人語を話す怪物たちがはっとそちらを振り向いた。


 雲の上から──巨大な鴉が一羽、飛び降りてきた。

 そう思う間もなく、羽を畳んだそれがすとんとわたしの目の前に着地する。


 それは鴉なんかじゃなかった。

 漆黒の外套と仮面を被った、腰に細身の長剣を差した一人の剣士だった。

 その剣士の周りで、さっきの怪物たちは全員、うやうやしくひざまずいていた。


 「あっ、あの……」

 この人は一見、人間らしく見えた。──でも、人間ではないのだろうか。

 わたしが声をかけると、鴉のような先端のとがった仮面の奥で、剣士が首をかしげた。そのまま、腰の鞘から長剣を抜き放つ。


 刃まで濡れた鴉の羽のように真っ黒な、それでいて繊細で美しい刃だ。


 わたしが身構える間もなく、それが振り下ろされた。

 とっさに身を強張らせたけれど──次の瞬間、手枷が音もなく切断され、傷一つないわたしの手首を滑り落ちていった。


 「……私はこいつを連れて先に戻る」


 呆然としている間にわたしは漆黒の剣士に抱き上げられていた。

 「お前らは人間たちに気付かれないように持ち場に戻れ」

 怪物たちに命じた後、剣士はそのまま上空を振りあおいだ。


 「おい、ちっこいラクシャラ」

 低い凛とした声で呼んだ剣士は、仮面の奥の鮮やかな赤い瞳でわたしを見た。

 「しっかりつかまってろ」


 その声にぎゅっとまぶたを閉じて、剣士の細い体にしがみついた次の瞬間──


 ──わたしは強い風の吹く上空へと舞い上がっていた。


 頭上を振りあおぐと、満天の星空がすごい速度で視界の後ろへ流れていく。

 それでも息苦しさや振り落とされそうな衝撃は感じなかった。

 わたしの体はほんのりと温もりを感じる、漆黒の闇に包まれている。


 遥か地上を見下ろすと、巨大な鳥の影が悠然と荒地を横切っていく。


 ──あの大きな鳥の中にわたしはいるんだ。と本能的に感じた。


 (こんなの……信じられない。何から何まで常識はずれで、想像したこともなくて……こんなの夢に違いない)


 でも──

 でも──夢だとしたらもうこのまま醒めたくなかった。

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