責任転嫁

三鹿ショート

責任転嫁

 学生時代の私は、優秀な人間だった。

 努力をせずとも学業成績は常に上位であり、運動能力は他者の追随を許さず、異性からの人気も高かったのである。

 ゆえに、私が愛の告白をすれば、誰であろうとも受け入れるのだと信じていた。

 地味な人間であり、親しい人間も存在していないような相手ならば、なおさらのことだろう。

 だが、彼女が私を受け入れることはなかった。

 彼女の言葉の意味を理解することができていない私に、彼女は追い打ちをかけるかのように、単純に好みではないと告げてきた。

 立ち尽くしている私を放置し、彼女はその場を後にした。

 私の人生が転落の一途をたどるようになったのは、このときが始まりだったのだろう。

 自分という人間は、実際のところは優秀でも何でもないのではないかと疑問を抱くようになり、私は自信を無くし、堂々と生活することができなくなってしまった。

 それに呼応するかのように、私の能力が向上を見せることは無くなり、私は周囲の人間に見下されるようになってしまった。

 それは学生という身分を失ってからも同様であり、今では安い給料で扱き使われる日々を送るようになっていた。

 道を歩けば名前も知らない人間たちから嘲笑され、上司や同僚には無能だと叱責されるばかりである。

 すり減った神経を癒やすためにしばらく自宅で引きこもっていたところ、私は、このような人生を送ることになった原因が彼女であることに気付いた。

 私の人生を台無しにしたのならば、それに対する報復を実行したところで、文句を言うことはできないだろう。

 彼女にそのような真似をしたところで、私の人生が好転するわけではないということは理解している。

 しかし、少しは気分が良くなるだろう。

 私は自宅を飛び出し、彼女の自宅へと向かった。


***


 彼女が優れた人間ではないということは知っていたが、それは今でも変化していないらしい。

 彼女もまた私と同じように安い給料で扱き使われ、かけられる言葉は漏れなく罵倒だった。

 まるで自分を見ているようだと私は逃げ出したくなったのだが、彼女は表情を変えることなく、黙々と仕事を続けている。

 仕事を終え、自宅に戻った彼女を迎えたのは、暴力を振るう夫だった。

 自宅の外まで聞こえてくるほどの怒声に、近所の獣が反応している。

 やがて自宅から出てきた彼女の頬には、先ほどまで無かったはずの痣が存在していた。

 彼女はそのまま近所の店まで向かい、大量の酒を購入すると、再び自宅へと戻っていった。

 その様子を観察しているうちに、私の人生を台無しにしたことに対する報復を、彼女に実行する意味が存在しているのだろうかと考え始めた。

 私よりも過酷な日々を過ごしているであろう彼女に追い打ちをかけたところで、私は満足するのだろうか。

 おそらく、後悔するだろう。

 だが、彼女がどのような生活を送っていたところで、私の人生における転換点だったことには変わりは無かった。

 そのことだけに注目すれば、立ち止まるべきではない。

 私は深呼吸を繰り返し、頬を何度か叩いた後、覚悟を決めた。


***


 自宅へと向かっている彼女に声をかけると、彼女はどうやら私のことを憶えていたらしい。

 久方ぶりの再会だが、嬉しそうな表情を浮かべることなく、互いの近況を報告すると、その場から去ろうとした。

 しかし、私は彼女の肩を掴むと、振り返った彼女の頬めがけて拳を打ち込んだ。

 倒れた彼女に馬乗りになり、不満を口に出しながら、何度も殴っていく。

 私が手を止めたときには、彼女の顔面は変わり果てていたが、彼女は私を責めるような表情を浮かべることもなく、

「これで、満足しましたか」

 そのような言葉を吐くと、緩慢な足取りで自宅へと向かっていった。

 離れていく彼女を見つめながら、私は痛む拳を握りしめた。


***


 憂さ晴らしをしたところで、私の生活に変化が生ずることはなかった。

 そればかりか、無抵抗の彼女を殴ったことによる罪悪感に押し潰されそうになっていた。

 私の人生を台無しにした人間だと決めつけ、彼女に報復を実行したものの、気分が良くなることはなかった。

 私の行動は意味が無いどころか、むしろ精神を悪化させることになっていた。

 居た堪らなくなってしまったために、私は彼女に謝罪をすることにした。

 私が頭を下げると、彼女はただ一言、

「そうですか」

 それだけ吐くと、自宅へと戻っていった。

 その様子を見て、私は彼女という人間を見誤っていたのだと気が付いた。

 良いとは言うことができない自分の環境に対して、他者に責任を転嫁することなく、黙々と日々を過ごすその姿勢は、見習うべきなのではないか。

 もちろん、その状況から抜け出そうとしていない姿勢について、向上心が無いなどと見下す人間も存在するだろうが、私は彼女に対してそのような視線を向けることはない。

 私は、自分が恥ずかしくなってきた。

 零落れた原因は彼女に存在しているのかもしれないが、何時までも過去の栄光にすがりついている自分が、前に進むことが出来るわけがない。

 私は己の頬に思い切り拳を打ち込むと、勢いよく息を吐き、一歩を踏み出した。

 私の人生が、ようやく始まったかのような気分だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

責任転嫁 三鹿ショート @mijikashort

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ