ユートピア

 タクシーを降りると雨はいっそう強くなっていた。誰もいない社内でひとりPCを起ち上げる。在宅ではできない仕事は全て私にまわってきていた。優くんだったらなんて言っただろうか。都合のいい女になってどうする、と叱ってくれただろうか。私の目の下の暗がりを心配して労ってくれただろうか。でも本当のところ私は心底嬉しいのである。最近キミは冷たいから。私にとって必要とされることは何物にも代えがたい悦びとなっていた。でも今の私には何かが足りない、そう感じていた。私にはもっと完璧な人生がある気がした。

 そんな事を考えていると雨の音がピタリと止まった。静まった社内にふとタイムカードを切る音が響く。すりガラスの先にはスーツの男がみえる。背丈や体格はそう、まるで、優くん…。

「いつまで可哀想な女やってんだよ。」

苦笑の中に優しさが覗く。久しぶりにみたその笑顔に、私は安心感を覚えて涙をこぼしていた。

「ねえさっき、また私、ひねくれたことを考えてしまっていたの。」

ずっと強がっていたが、本当は起きてほしかった事が実際に起こり気が動転した私は、本音がぼろぼろと口をついて出てきた。

 日付が変わる前に仕事を終え、私は優くんと会社を後にした。きっとずっと、悪夢を見ていたに違いない。何年ぶりにこんな事をしたいだとか、あの頃のあの上司はどうだったとか、そんな他愛もない話を沢山した。雨は小雨になっていて、外に出ると優くんは大きな傘をさしてくれた。付き合いたてのときにこれなら二人で入れるねって。浮ついた心のまま買った、二人でひとつの傘だった。

「久しぶりにみた、それ。優くんまだ持ってたんだね。てっきり私あの子の家に…。」

優くんは急に立ち止まり、傘を私の身長に合わせて下げた。若干膝を曲げ猫背になり、私の視線の高さに優くんはいた。傘がいつもより低くて雨音が耳元で反響する。優くんの唇の感触は心地良かった。この時私は思った。五年間でどれだけの女を試したとしても、今私を見ているのならばもうそれはどうでも良い事だと。

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