胆力と妖力
「ヤヒロ」
真正面にいるにも関わらず、ぬらりひょんが、呼びかけてきた。
「え?」
目の前で呼びかけられたのだ。見失うはずがないのに、いつの間にか、ぬらりひょんの姿がない。
驚いたヤヒロは、周りに目をやるが、どこにも姿がない。こんな一瞬で、ヤヒロの見えないところまで行けるはずがない。いや、もしかしたら、ぬらりひょんにはヤヒロの知らない、高速移動の力があるのだろうか。ヤヒロの額に汗が流れる。
「先輩、何をキョロキョロしているんですか?」
「いや…ぬらりひょんさんが消えた」
「え?」
「何言ってるんですか? おじいちゃんは、ずっと先輩の前にいるじゃないですか」
「え…」
ヤヒロは視線を始めのところに戻す。そこには、元の通り、ぬらりひょんの姿があった。その不可解な現象に、ヤヒロはつばを飲み込む。
「ヤヒロの認識から、わしを外したんじゃ」
餓鬼を支配した誤認能力と同じ、認識を操作する力。その認識のさせ方によって、見えなくさせられることに、ヤヒロは冷や汗が止まらなかった。
認識を自在に変えられる力とは、こんなにも恐ろしいものなのか。
「当然、一人ではなく、この場の者全員にもかのうじゃ」
ぬらりひょんの声は、目の前ではなく、今度は全員の後ろから聞こえてきた。みんなが一斉に振り向く。
「あれ?」
声がしたはずなのに、姿はなかった。
「こっちじゃよ」
再び、始めの場所から話し掛けられる。
「おじいちゃん、後ろに移動しなかった?」
奇怪な出来事に、弥子も息を飲む。
「わしは、ずっとここにおったよ」
ぬらりひょんが静かに笑う。その笑顔は、今までの爽快なものではなく、影のある笑い方だった。冷たい表情にも見える。それが余計に、ヤヒロの恐怖心を煽る。
「これが、大将の力っス。大将が本気になったら、誰も大将を捕まえることは出来ないっスよ」
「カッコいい! おじいちゃん!」
「そうじゃろう、そうじゃろう」
弥子の絶賛の言葉に、ぬらりひょんが機嫌よく、かっかっかっかと笑う。その姿に、先程の冷たさはなく、ヤヒロが出会った時の、明るいおじいちゃんが、そこにいた。
ヤヒロはまた、弥子のコミュニケーション力に助けられたと思った。ヤヒロだけで出会っていたら、先程の力を見せられた時点で、逃げ出していただろう。それ程までに、得体が知れないものというのは、人間にとって恐ろしいものなのだ。
「さて、この力じゃが、何も無制限に使えるわけではない。動物が永遠に走れないのと一緒じゃ」
「つまり、力を使うには、体力を使うってこと?」
「正解ではないが、着眼点は良いな」
ぬらりひょんは微笑んだ。
「わしら妖怪は、自らの力を使うには“
「「妖力…」」
ヤヒロと弥子の声がハモった。それを見て、ぬらりひょんが尊いと顔を緩ませる。すっかりこの光景も見慣れたなと、下衆助は思った。加えて、人間と仲良く話をする日が来るとは、夢にも思わなかった。
人間は、妖怪以上に残忍で捉えどころのないものだと、下衆助の集落では言い伝えられていた。ネットのやり取りなどを見ても、自分勝手で、人を蔑んだり、誹謗中傷している様子を目の当たりにし、言い伝え通りだと感じた。人間の作ったものに興味はあったものの、人間自体には絶対に会いたくないと思っていた。
しかし、目の前にいる人間二人は、画面で見る人間とは違っていた。この数十分の間で打ち解けてしまう程の魅力が、ヤヒロと弥子にはあった。
彼らになら、妖怪のことを、少し話しても問題ないだろうと思っていた。だから、ぬらりひょんが妖力の話を始めても、止めなかった。逆に、知ってほしいとまで思っている自分がいることに、驚いていた。
「生物は運動する時に、体力を使うっスよね。それの不思議な力版って言ったら、分かりやすいっスかね? つまり、力を使うには、別の体力を消費するわけっス。体力、つまりスタミナ切れを起こすと、生物は息が上がって、最悪、倒れるっスよね。同じように妖怪も、妖力切れを起こすと、息切れを起こして、最悪、ぶっ倒れるっス」
ヤヒロたち人間にはないものなだけに、感覚が分からなかった。
「そうさの、妖力を説明しても、ピンとこないじゃろうから、さっき言った、胆力の話も混ぜて話すかのう」
確か、ぬらりひょんは先程、石を使うには胆力が必要だろうと言っていた。
「二人は、デスクワークや勉強を続けていて、疲れたりすることはないかの?」
「あるな」
「あるわね」
ヤヒロと弥子がお互いに頷く。誰もが、人生、一度は経験したことがあるものだろう。
「あれが胆力切れじゃ」
「精神的な疲れじゃなくて?」
弥子が当然の疑問を口にする。人間社会では、疲れは三種類あると言われている。一つ目は肉体疲労。先程から話している体力を消費するものだ。二つ目は、精神的、神経的な疲労。そして三つ目は、病気による疲労だ。
デスクワークなどは、肉体作業ではなく、頭を使う作業だ。そのため、脳が疲労をする。つまり、精神的、神経的な疲労だ。
「いいことを言ったのう。その精神的な疲れ。つまり、精神的なことで使われるのが胆力じゃ」
「つまり、運動をすると体力が消費されるように、脳や精神を使うと、胆力が消費されるってことなのか?」
「ご名答!」
ヤヒロは胆力が何か掴めてきた。体を動かすものと、脳を動かすものは、別の力を消費しているという話のようだ。
「この人間の持つ胆力はの、妖怪のように何か力を出すことは出来ない。しかし、これを上手く使える人間は、仕事効率がいいし、頭の回転が早い。加えて、体に上手く流すことで、身体面の強化も、はかれるぞ」
「ちょっと待ってくれ。脳を動かすのが胆力じゃないのか?」
さっき出した結論が、早速、覆された。
「その通りじゃ。じゃが、脳を動かすから消費されるものという単純な力でもない。今の人間社会に、胆力という概念と、それを使うという文化がないから、大半の人間は、ただ垂れ流しで消費しているだけなんじゃが、稀に、本能や才能で、この体に流すということを、無意識にやってのけてしまう輩がおる。それが、スポーツや格闘技で、異常に打たれ強かったり、一撃が強かったりする者じゃ」
つまり、そういう選手は、身体を動かす時に、無意識に胆力を使っているというのが、ぬらりひょんの言い分だった。
「わしの力も、ただ単に妖力を使っているわけではない。妖力を体に流すことで実現させておる」
「大将。多分、オイラの力が一番分かりやすいと思うっス」
下衆助は岩壁まで歩いていくと、手を付いた。
「よいしょ!」
掛け声とともに、硬い岩が、まるでゼリーのように削り取られる。そういえば、さっきも大きな岩を持ち上げていたことを、ヤヒロは思い出した。
「これがオイラの力、身体強化っスね」
下衆助は、削り取った岩を握り締める。その握った指の間から、粉々になって砂となった岩がこぼれ落ちる。とんでもない怪力だ。
「ただ、オイラの力、欠点があって」
洞窟内に、怪獣の声のようなものが響く。
「な、何!?」
その巨大な音に、弥子が身を竦めた。
「あ、すんません、オイラの腹の音っス。たくさん力使うと、腹が減っちゃうんスよ」
下衆助は飢える鬼と書いて餓鬼だ。当然、この様な反動があっても、おかしくはない。
それにしても、妖怪が化け物と言われて、古から恐れられてきたのが何故なのかよく分かる。ぬらりひょんの力は、不可思議で恐ろしかったが、餓鬼の力は単純明快で分かりやすい恐怖がある。
「説明する手前、妖力と胆力を混同して話したが、二つの力は、全く別のものじゃ。そもそも種族が違うからの。妖怪は胆力を使えないし、人間は妖力を使えない。というよりも、体内に存在しない感じじゃな。ないものは使えんからのう」
「もっと言うと、妖怪だって妖力があれば、どんな力でも使えるわけじゃないっス。全く別の生物なので。例えるなら、動物の科が違う感じっスかね。ネコ科の動物が、フクロウ科みたいに空を飛べないのと一緒で、いくらオイラが鍛練しても、大将のぬらりひょんの力は使えないっス」
人間は、妖怪と一括りに表現しているが、彼らは彼らで、それぞれが全く別の種族なのだ。
「人間の胆力は、科が一緒であるから、どの人間も同じものじゃう。しかし、それぞれ、得手不得手と性質の違いはあるじゃろうな」
確かに、元々の身体能力や頭脳でも、得手不得手が存在する。胆力が、同じ身体の機能というのであるならば、個人差があっても不思議はない。
「妖力のことは分かった。胆力のことも分かった。でも、そうなると。俺がこの石を使えたのって…」
「たった一握りの、本能や才能で胆力を使えるものだったんじゃろうな」
「先輩凄い! 才能の塊じゃないですか!」
弥子が騒ぎ出す。自分のことのように、両手を上げて大喜びをする。
「いや、違うのう…」
喜ぶ弥子を尻目に、ぬらりひょんが難しい顔をする。
「ヤヒロよ。おぬし、一度胆力を枯らしておらぬか?」
心臓が高鳴る。ヤヒロには覚えがあった。その苦しさから、つい、弥子の方を見てしまう。
弥子に向けられた表情は、今にも泣きそうで、傍から見ても分かるくらい、歯を強く噛み締め、何かに耐えていることが分かる。
弥子は、ヤヒロが倒れた日に、この表情を見ている。「大丈夫ですか?」という問いにこの表情で返され、「大丈夫だ」と答えられたことは、今でも鮮明に覚えている。
二人共、答えが出ていた。おそらく、ヤヒロが胆力を枯らしたのは、あの倒れた日だ。全ての胆力を使い尽くし、彼は倒れてしまったのだろう。胆力のことを知った今ならば、それが分かる。
「すまん。嫌な記憶を思い出させてしまったようじゃの。傷口をえぐるつもりはなかったんじゃ。申し訳ない」
自らの質問に、固まってしまった二人を見て、ぬらりひょんは、やらかしてしまったと気づいた。そのため、素直に謝った。
ぬらりひょんの言葉に、我に返った弥子は、ヤヒロのもとに駆け寄り、優しく抱き締める。
「大丈夫ですよ先輩。もう、あの頃に戻ることはないんです。安心してください。怖がる必要はないんですよ」
優しい言葉をいくつも投げかけ、ヤヒロの後ろに回した手で、彼の背中を優しく撫でた。
しばらくして、ヤヒロは落ち着いたのか、静かに呼吸をし始めた。それは、今までヤヒロが無意識に呼吸を止めていたことを意味していた。
「落ち着きました?」
「ありがとう弥子。ごめんな、迷惑かけて」
「迷惑だなんて、一度も思ったことないですよ」
耳元で囁き合う。
「すまない、取り乱した。話を続けよう」
弥子と離れて顔を上げたヤヒロは、いつものヤヒロだった。その姿に、ぬらりひょんは胸を撫で下ろす。
「あの二人は、本当にいい関係なんスね」
その言葉に、ぬらりひょんは笑顔で頷く。
「尊いじゃろ?」
これには、下衆助も頷くしかなかった。
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