第3話 いつまでも愛してる。
病院の人となった彼女は、急激に衰弱していった。がん細胞の検査では、「きわめて未分化な腫瘍」との病理検査結果だった。名前のついている「扁平上皮癌」でも、「腺がん」でもなく、「小細胞がん」でもない、それらに分類することができないがん細胞である。
細胞には「分化」と「増殖」という二つの側面がある。細胞の「分化」とは、例えば、受精卵から肺の上皮細胞や神経細胞など、それぞれ特有の機能を持った細胞に変わっていくことである。なので、「分化」の進んだ細胞ほど「分裂、増殖」はしなくなっていく。なので、悪性の細胞で、「分化度の高い」もの、と言えば元の組織の性質を色濃く持っていて、分裂能が低いものである。逆に、「分化度」の低い細胞ほど「増殖能」が高い。なので、「未分化な細胞」ということは「分裂、増殖能」が非常に高い、つまり急速に進行するがんだ、ということである。
もちろんそのような非常に未分化な細胞だったので、遺伝子解析もはかばかしい結果ではなかった。腫瘍は急速に増大し、内部には空洞を伴っていた。見つかった時は2cmに満たなかった腫瘍は、1か月ちょっとで、左肺の上半分を占めるほどになった。内部の空洞も大きく、どこが正常な肺で、どこが病気の部分なのか、分からないほどだった。
抗がん剤も使用したが、1クール行なっただけで衰弱がひどく、食事もとれなくなったので、抗がん剤治療も中止となった。
毎日、顔を見に行き、言葉を交わすが、どんどん衰弱していく彼女を見ているのが辛かった。彼女の気持ちも不安定だった。「怖い」と涙を流している日もあれば、「理不尽に私に当たり散らす」日もあった。時にはいつもの彼女に戻って、
「人生ってそんなものよね。あなたと出会って、子供たちにも出会って、幸せな時間を過ごしたわ」
と、神々しい笑顔を向けてくれることもあった。
年末が近づき、主治医の先生から
「お正月も近いですし、現在は入院でなければできないような治療をしているわけではありません。在宅診療で、住み慣れた自宅で療養をするのはどうでしょうか。もちろん何かあれば、訪問診療医から連絡をいただければこちらに入院してもらう形にします」
と提案された。子供たちに相談すると、クリスマス過ぎから正月の間は、祐奈も、大地もこちらに帰ってくることができる、とのことだった。
家族で過ごせる時間はこれが最後かもしれない、と思った。彼女にも意向を聞いてみた。
「『子どもたちと過ごすお正月』って久しぶりじゃない。二人とも高校生になったら、初詣だなんだと、家にいなかったのですもの。訪問診療は竹中先生がしてくださるのよね。それなら一度家に帰ってみるわ」
と前向きな返事だった。なので、主治医の先生を通じて、病院に調整をお願いした。
吸引器を使った痰の取り方と、おむつ交換の仕方を看護師さんに指導してもらった。彼女は嫌がるかもしれないが、それは堪忍してほしい。そして、在宅酸素の機械と、リビングに彼女のための電動ベッド、褥瘡予防のためのエアマットを設置してもらうこととなった。食事はもうほとんどとれなくなっていたので、液体の栄養剤を飲める範囲で飲んでもらう。先生の訪問診療は週に1回。訪問看護師さんは、お正月の3が日はお休みとなるが、何かあれば連絡をすれば来てくださるとのことだった。それ以外は毎日1回来てくださるとのことで調整してくださった。
彼女が帰ってきたのは12月26日だった。子供たちも仕事を前倒しして、その日に家族が全員集まった。
夕食は、祐子は少量の栄養剤。私たちはピザを頼んで、彼女のベッドのそばで久しぶりに家族で顔を合わせて食事をした。子供たちがいると、祐子もうれしそうだ。子供たちは楽しそうに昔話をしていた。祐子は楽しそうな笑顔で、思い出話を聞いている。幼稚園の頃、小学生のころ、反抗期に子供たちが感じ、考えていたことなど、思い出話は尽きなかった。22時を回るころ、
「お母さんもお疲れだし、そろそろ休もうか」
と声をかけた。
大地は祐子の手を握り、「お母さん、お休みなさい」と言おうとして、急に彼の声が震え出した。
「お母さん、いっぱい可愛がって育ててもらったのに…、俺、親孝行らしいこと…何もしていない…。お母さん、ごめんなさい…。お母さん、ありがとう…」
と肩を震わせて泣いていた。
祐奈も大地と同じように妻のそばに行き、「お母さん…、お母さん…」と泣きじゃくっている。妻の目にも光るものがある。私もそばに行きたかったが、今は子供たちと妻の時間だ、と少し離れたことからこの光景を見ることにした。私も、やはり涙が止まらなかった。
神様は、遅れたクリスマスプレゼントを1日だけ与えてくださったのだろうか。翌日妻は、38度を超える熱を出した。竹中先生の往診をお願いし、先生のご判断で結局すぐに病院に戻ることとなってしまった。
再入院してからは、彼女はウトウトと眠ったままになってしまった。私は面会時間に彼女に会いに行き、手をつなぎながらいろいろな思い出話をした。初めて彼女に会ったときの驚き、付き合っていた時間の幸せさ。結婚前にお互い少しマリッジブルーになったこと。新婚当時の小さな夫婦げんかの思い出。大地が生まれたとき、吸引分娩になってびっくりしたこと。
祐奈が生まれたときはびっくりするほどの安産だったこと。赤ん坊だったころの二人、幼稚園の頃の思い出など、彼らの記憶に残っていない、私たち二人だけの思い出をたくさん。
子どもたちがそれぞれ、仕事に戻らなければならない日のちょうど前日、1月3日に、彼女は静かに旅立っていった。私たち3人に見守られながら。
それからのことはほとんど記憶にない。喪主でありながら、実務をほとんど子供たちに任せてしまうような腑抜けの父親だった。
祐子が旅立って、気力のすべてを失った私がよほど心配だったのだろう。それで、大地が気を使って、ショウが我が家にやってきたのだ。
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