鉄の森に住む魔女（♂）と月の人狼

食べられたいほど、きみが好き２

　今夜は綺麗な三日月だ。森のどこかでフクロウが鳴き、虫たちもあちこちで賑やかに歌っている。

　脳裏に子どもの頃から見てきた夜の森が広がった。深い闇と濃い緑の香りを思い出し、そこに差し込む月の光が瞼の裏で光る。その光の中に僕の大好きな銀髪のガルが座っていた。まるで月の光を集めたようにガルの周囲がキラキラ眩しい。

「もしかして体がつらい？」

「そ、んなこと、ないよ」

　そう答えながら瞼を開くと、月明かりに光るエバーグリーンの眼が笑っていた。ちょうど窓から差し込む光に照らされ、頭に浮かんだ光景そのままの姿になっている。そんなガルは僕の額に口づけながら体をグッと密着させてきた。

「ん……」

　素肌が触れ合う感触に甘い声が漏れた。ただくっついているだけでも気持ちがよくて困ってしまう。だからほんの一瞬、逞しい胸を押し返すようなことをしてしまった。

（本当はもっとくっついていたいのに）

　そんな僕の本心はすっかりガルに知られていて、だからエバーグリーンの眼は楽しそうに僕を見ているに違いない。

「散々した後なのに恥ずかしがるなんて、アールンはやっぱり可愛い」

　ぎゅうっと抱きしめられて安堵のため息が漏れた。僕より少し体温が高いガルに抱きしめられるとホッとする。もちろん興奮もするけど安心するほうが強い。「今日もそばにガルがいる」と実感できて幸せな気持ちがじわじわと広がっていく。

（いつかちゃんと言わないといけないってわかってる）

　そして、ガルに話したときが別れのときだ。わかっているから言い出せないまま時間だけが過ぎていく。

「アールン」

「んっ」

　肩をカプッと噛まれて声が漏れた。最中よりも柔らかい歯の感触に、痛みよりくすぐったさを感じる。それでも反射的に爪を立てそうになって、慌てて胸に触れていた両手を握り締めた。

「別に爪立ててもいいのに」

「そんなことしたら痛いでしょ」

「噛まれるよりマシだろ？」

「僕が嫌なんだ」

　僕の返事にエバーグリーンの眼が笑うように細くなる。

「そういう頑固なアールンも可愛いけど」

「可愛いって、なに言ってんのさ」

「どんなアールンも可愛いし、どんなアールンも俺の好きなアールンだってこと」

「それに爪立てられたくらいで俺がアールンを嫌いになることはないから」と囁かれて体が震えた。違う、震えたのは心のほうだ。

　僕は思いきりガルに抱きついた。本当は離してほしくないんだと両腕に力を込めて訴える。手も足も使って全力で抱きつく僕を、ガルはただ抱きしめ返してくれた。

「これからもずっと、こうやって抱きしめてやるから」

　そう言ってまた肩を甘噛みした。

（こういう優しい噛み方も好きだな）

　肌を触れ合わせるとき、ガルは僕の肩を噛む。一応気を遣っているのか左右交互に噛んでいるみたいだけど、どちらの肩にも歯形の青痣がいくつも重なっていた。

　僕はそんな噛み痕を鏡で見るたびにゾクゾクした。狼らしい仕草を見せてくれるのは嬉しいし、僕がガルのものになったみたいで興奮するからだ。

「僕は、いつもすごく満足してるよ」

「急になに？」

「昼間、ガルが言ったこと」

「……あぁ、あれか」

　いまのは照れている声だ。「ガルにだって可愛いところ、あるんだからね」と思いながら、ゆっくりと目を閉じる。

　我を忘れるような熱がゆっくりと引いていくのを感じる。代わりに心地よい疲労感が全身に広がり始めた。それでも体の奥が燻っているように感じるのは、こうしてガルに抱きしめられているからに違いない。

（何もかも全部引っくるめて、僕はガルが好きだ）

　そう思いながら両手で首をグッと引き寄せ、頬に口づけてから深呼吸をした。そうして大好きなガルの熱と香りを感じながら眠りに就いた。

　翌日、甘くて爽やかな香りに鼻をくすぐられて目が覚めた。ガルと抱きしめ合った翌日は必ずこの香りで目が覚める。

　ゆっくりと目を開けるとガルが僕を見下ろしていた。気のせいでなければ若干眉が寄っている。起き抜けに険しい表情なんてどうしたんだろう。

「おはよ。どうかした？」

「あー……その、ごめん」

　問いかけると、エバーグリーンの眼がチラッと僕の肩を見てから逸れた。右肩を見てみると肩近くの腕にも見事な噛み痕が残っている。いつもより強く噛んだのか、若干血が滲んでいるような部分もあった。

「別にいいよ。それに僕も気づかなかったし」

「いや、駄目だろ」

　肩からガルの顔に視線を戻すと、まだ眉が寄ったままだ。

「どうして？」

「どうしてって、噛まれるなんて普通は嫌だろ？　人は傷つけられるのが嫌だって俺だって知ってる」

　チラッと僕を見る眼は申し訳なさそうな雰囲気をしている。こうしたやり取りは関係を持ってから何度もくり返してきたことだ。

　ガルも内心は噛みたくないと思っているんだろう。それでも噛んでしまうのは狼か人狼の習性に違いない。それを隠さず僕に向けてくれるのを嬉しいと思いこそすれ、嫌だなんて思ったことは一度もなかった。

「興奮したら我慢できなくなるんでしょ？」

「……そうだけど」

「つまり、それだけ僕を好きでいてくれてるってことだ」

「だからって、綺麗な肌を青痣まみれにしたいわけじゃない」

「青痣まみれって、肩のあたりだけだよ？」

「肩だけでもひどい見た目だ。せっかく綺麗な体してるのに」

　綺麗な肌だとか綺麗な体だとか、ガルはたまにおもしろいことを言う。

（そんなの気にしなくていいのに）

　むしろ、もっと本能を剥き出しにしてくれていいのに。それこそ狼のように牙を剥き出しにしてくれてかまわない。そうなるくらい僕を求めて、そうしてガルも僕を忘れられなくなればいいのにと密かに願ってしまう。

「もし肩以外にも噛みつきたかったら、遠慮しなくていいからね？」

「は？」

「僕は、ガルにならどこを噛まれても嬉しいよ」

「……アールンって、たまに怖いこと言うよな」

「そうかな」

「人狼に噛まれたいとか正気とは思えない」

「そんなことないと思うけど。だって、僕は興奮すると噛みついてしまう人狼のガルが好きなんだ。ちょっとだけ求愛行動みたいだなぁなんて思ってるくらいだし」

　そう答えたらエバーグリーンの眼が大きく見開かれた。「なんて綺麗な眼だろう」と思って見ていると、すぐに目元を赤くしてそっぽを向いてしまう。

「ははっ、そういう反応を見ると年下って感じがする」

「うるさい」

「ガルも可愛いところがあるよね」

「アールンのほうが可愛い」

「そう言うのはガルだけだよ」

「言うのは俺だけでいいだろ」

「うん」

　頬までほんのり赤くなったガルが、そっぽを向いたまま器用にカップを差し出してきた。なみなみと注がれたお茶は僕が調合した薬草茶で、疲労回復と血の巡りをよくする効果がある。

　ガルの手当をしたとき、最初に出したのがこの薬草茶だった。その後傷の回復にも効果があると知ったガルは、行為の翌朝は必ずこれを用意するようになった。

（でもこれ、僕の調合のままじゃないんだよね）

　クンと香りを嗅ぐと、甘い中に少しだけ柑橘に似た香りが混じっている。これは痛みを和らげる薬草の香りだ。きっと薬草学の本で調べたのだろう。僕の両肩から消えない噛み痕を本気で心配してくれている証拠だ。

「ありがとう、ガル」

「どういたしまして」

　ベッドの脇にある椅子に座って、ガルも同じ薬草茶を飲み始めた。ちょっと眉をしかめているのは酸味が苦手だからだ。

　そんなガルの顔を見ながら僕も一口飲む。甘みと酸味が前回よりさらに絶妙になっているのはガルが調整を続けている成果かもしれない。そう思ったら胸がくすぐったくなってきた。

（こういうのって、何かいいよな）

　好きな人と夜を過ごし、朝になるとこうやって一緒にお茶を飲む。気遣いや愛情を互いに感じながら、静かな時間を二人で分かち合う。早くに魔女として独り立ちした僕は、ばあちゃんや母さんとこうした時間を過ごすことがほとんどなかった。だからか、胸がきゅっと切なくなるような感じがしてくる。

（いつまでこうしていられるんだろう）

　最近そう思うことが増えてきた。ガルは人狼だ。人狼は本来、人の近くにいることはない。昔話の中の人狼はいつも気高くて、そして一人きりだった。ガルもいつか一人に戻りたくなるんじゃないかと思うと胸が締めつけられるように苦しくなる。

（それに、ここはヤルンヴィッドの森だから）

　ここは人狼にとって呪われた地だ。わかっているのにそばにいたいと思ってしまう。でも、そばにいられなくなることもわかっていた。そうなったとき、僕にガルを見送ることができるだろうか。

（……できない気がする）

　両肩にある噛み痕を思い出にするには、あまりにもガルを好きになりすぎていた。

（噛み痕じゃなくて、いっそ食べてくれたらいいのに。そうすればガルの血肉になってずっと一緒にいられる）

　そんなことを言えば、また「怖いこと言うな」と言って顔をしかめるんだろう。でも、そのくらい僕はガルのことが好きで、それくらい一緒にいたいと思っていた。

　ふと、窓の外に目が向いた。森の入り口のほうで烏が飛び立つのが見える。何でもない光景なのに、なぜかほんの少し胸がざわつくような気がした。