鉄の森に住む魔女(♂)と月の人狼
朏猫(ミカヅキネコ)
食べられたいほど、きみが好き1
「ガルってば、またこんなところで寝てる」
昼食後、作業を止めて一息つこうとリビングに来た。すると長身の男が長椅子で眠っているのが目に入り、思わずクスッと笑ってしまいそうになる。
肘掛けに寄せたクッションに銀色の髪の毛が広がっている。長椅子は結構な大きさなのに、反対側の手すりから足先が飛び出していた。胸には読みかけの本が、傍らの小さなテーブルにはすっかり冷めてしまったコーヒーが置きっぱなしになっている。
「なになに……薬草学?」
何を読んでいるのか興味があって本の表紙を覗き込んだ。書かれていた文字に、まさかそんな本を読んでいるとは思わなくて目をぱちくりしてしまう。
(狼なのに薬草に興味があるってこと?)
それともガルが人狼だからだろうか。
ガルと出会ったのは半年ほど前になる。僕が住むヤルンヴィッドの森の入り口で座り込んでいるところに出くわしたのがきかっけだ。どうやら左足を怪我して動けなくなっていたらしい。靴まで赤黒くなっているのを見た僕は放置できずに家に連れて帰った。そうして手当をしているときに「俺はマナルガルム、人狼だ」とガルのほうから名乗った。
(僕が魔女だってことはわかってたはずなのに、まさか自分から人狼だって名乗るなんてね)
一番驚いたのはそのことだ。同じくらい、この森に人狼がやって来たことにも驚いた。
もともとヤルンヴィッドの森はばあちゃんが管理していた。五十年以上の魔女歴を持つばあちゃんも人狼に会ったことはなく、僕も昔話でしか聞いたことがない。そのくらい数が少なく貴重なのが人狼と呼ばれる種族だ。
そんな人狼のガルは、何を思ったのか僕と使役契約を結びたがっている。それを聞いたとき、僕は驚きを通り越して「なんで?」と疑問しか浮かばなかった。
(たしかに魔女はいろんな生き物を使役するけどさ)
使役獣でよく見かけるのは猫やフクロウで、蛇や蛙といった爬虫類も以外と人気がある。なかには火トカゲや喋る猿、変わったところではふわふわのハリネズミや羽の生えた蛇、四本足の鷲なんかもいた。でも、狼と契約する魔女はほとんどいない。
狼は孤高の生き物で魔女に使役されるのを嫌がる。人狼も狼の一種だから、本来は使役契約なんてお断りのはずだ。
(それなのに、なんで僕なんかと契約したがるんだろう)
僕は薬を作るのが少しばかり得意なだけの魔女だ。ばあちゃんみたいに護符が作れるわけでもなく、母さんみたいに毒に詳しいわけでもない。下手をしたら街に住んでいる人たちと大差ないような魔女なのに、ガルのほうから契約したいと言ってきた。
「どうしてかなぁ」と思いながら寝ているガルを見る。サラサラの銀髪にすらりとした長身で、閉じている瞼の奥には綺麗なエバーグリーンの眼がある。顔立ちも整っているし、人の街に行けば間違いなく注目されそうな色男だ。それなのに、なぜか森に一人で住む僕のそばから離れようとしない。挙げ句の果てには使役契約まで結びたがる始末だ。
「使役契約したいなんて、変な狼だよな」
思わず口に出してしまった。「だって本当に変わった狼だし」と心の中で言い訳をしながら、胸の上の本を取ろうと右手を伸ばす。するとガシッと手首を掴まれて「ひゃっ」と情けない声を漏らしてしまった。驚いてガルの顔を見ると、いつの間に起きたのかエバーグリーンの眼が僕を見ている。
「使役契約したいのは、アールンのそばにずっといるためだって言っただろ? それに俺は人狼であって狼じゃない」
「ええと、狼って言ったことに関してはごめん。だけど僕なんかと何でだろうって、いくら考えても不思議で仕方ないんだ」
「こういうことをしたい相手だからだって、何度も言ってるのに信じないんだ?」
そう言ったガルが僕の右手を引っ張った。慌てて踏ん張ろうとしたものの、間に合わずに寝転んだガルの上に覆い被さってしまう。そんな僕を軽々と抱き留めたガルが唇にチュッと触れてきた。
「ガル!」
「何?」
「こういうことは昼日中にしちゃダメだって何度も言ったよね!?」
「そうだっけ?」
「言った!」
「じゃあ忘れてた」
「ガ……っ」
ガルと言おうとした口は呆気なく塞がれてしまった。後頭部に手を回されて逃げ道がなくなる。そのまま少し長くて肉厚な舌に口の中を思う存分舐め回された。
「……はっ、はぁ、はぁ」
「何度もしてるのに全然慣れないよな」
「ガルっ」
「ま、アールンのそういうところも可愛いと思うけど」
「か、可愛いって、きみは僕より六つも年下じゃないか!」
「年齢なんて関係ないくらいアールンは可愛い。こんなに可愛い二十六歳の男がいるほうが不思議だよな。艶々の黒髪も夜空みたいな黒眼も、そうやってすぐ真っ赤になるところも可愛い」
駄目だ、何を言っても言い負かされてしまう。人狼ってこんなに言葉が達者な生き物なんだろうか。六歳も年下の人狼に僕はいつも翻弄されっぱなしだ。
「そもそも人狼と人じゃ年の数え方が違うんじゃないの?」
「そうかもしれないけど、でもきみは人の姿のままじゃないか」
「まぁな。でも、人の姿でもアールンより大きいし力もある。もちろんアールンを可愛がることもできる」
「ガル!」
もう一度強く名前を呼んだら「はいはい」と言って僕ごと上半身を起こした。僕だって人の中ではそこそこの背丈だというのに、こうしてガルは軽々と抱えたり支えたりする。そのたびに複雑な気分になるし気恥ずかしくもなった。
少し熱くなった頬を指先ですりすりしていると「で、今日の仕事は?」とガルが尋ねてきた。
「一番の大仕事は薬草棚の入れ替えかな」
「それはもう終わった。ほかは?」
ガルの返事に僕は再び目をぱちくりとさせてしまった。たしかに今朝はちょっと寝坊したし昼食後も塗り薬の調合にかかり切りだったけど、その間に全部済ませてしまうなんて仕事が早すぎやしないだろうか。
「全部終わったの? 新しく干す分も?」
「終わった」
「それは……ありがとう」
「どういたしまして」
この半年で、ガルは僕の仕事の大半を覚えてしまった。種類別に乾燥させている薬草棚を入れ替えるタイミングも、補充する薬草の採取も僕がお願いする前に終わらせている。そういう意味ではとっくに使役契約を結んでいるような状態だ。
「あとは調合と、夕飯の仕込みくらいだけど……」
「調合は俺にはできない。夕飯なら昨日から干しタラを塩抜きしてる」
「いつの間に……」
「隠居したばあさんから届いた大量の干しタラを貯蔵庫に仕舞ったのは誰だ?」
「……ガルです」
「まだ半分以上残ってるから、しばらくは干しタラ料理が続くな」
そう言って笑うガルのほうが僕よりよほど生活能力が高い。食材の管理もいつの間にかガルがするようになった。正直、干しタラの量なんてこれまで気にしたことすらなかった。塩抜きも忘れがちで、お腹が空いてから「しまった」なんて思い出すくらいだ。
そんな僕の生活はガルと暮らし始めて一変した。毎日ちゃんとした食事だからか体の調子がすこぶるいい。食材だけでなく薬草を切らすこともなくなったし、資料の本がどこにいったか探すこともなくなった。
(ガルのおかげで掃除も整理整頓も行き届いているし、体調管理までされてるような状態だしなぁ)
ガルは掃除や手伝いを嫌がったりしなければ、タラばかりの食事に文句を言うこともない。人狼と言っても狼に近いんだろうから本当は肉が食べたいだろうに、毎日不満を言うことなくタラ料理を食べてくれる。そのタラ料理も、いまではガルのほうがうまくなった。
(これじゃあ使役獣に世話をされてるみたいだ)
少しばかり情けなくなっていた僕の耳元で、ガルが「俺が世話を焼くのは食事だけじゃないけどな?」と囁いた。心を読まれたのかと慌てて耳を塞ぎながら「ガルっ」と睨む。
「顔が真っ赤ってことは、言ってる意味わかったんだ」
「な、何のこと?」
「今夜もしっかり世話してやるから安心していいよ」
にやりと笑う顔に、僕は名前を呼ぶことも叱ることもできなかった。代わりにすっくと立ち上がってくるっと背を向ける。
(これ以上赤くなった顔を見られたら、何を言われるかわかったものじゃない)
そう思って急ぎ足で仕事場へと歩き出した。そんな僕の背中に「満足させてやるから楽しみにしてて」とガルが声をかけてくる。
バタン。
仕事場のドアをしっかり閉め、そのままドアにもたれかかりながらズルズルと床にしゃがみ込んだ。
(こんな明るい時間に何て破廉恥な……!)
そう思いながらも、僕の脳裏にはガルとの行為がまざまざと蘇っていた。ガルの手に触れられたときの感覚や抱きしめられたときの熱まで思い出し、体が火照りそうになる。体のあちこちが痺れてどうしようもなくなる瞬間やせり上がる快楽、その後訪れる絶頂を思い出しかけて腰がブルッと震えた。
「僕のほうこそ昼間から何を、」
思わずそう言いかけて慌てて唇を噛んだ。人狼だというガルは耳がいい。下手なことを口にして聞かれでもしたら、あとでからかわれるのは目に見えている。
(本当にガルって口が達者なんだから)
そのせいで恥ずかしい思いをすることも多い。
(だけど、そんなところもいつの間にか好きになってたんだ)
僕はガルに特別な感情を抱いている。魔女として人狼を見ているのではなく、一人の大事な存在だと思っていた。
(だから後悔なんてしてない)
ガルとそういう関係になったのは
気がつけばガルに抱きついていた。そのまま僕はガルと関係を持った。
(きっと一目惚れだったんだ)
出会ったときから僕はガルに惹かれていたんだろう。そうじゃなければ誰だかわからない男を家に連れ帰ってまで手当したりはしない。人狼だとわかったときにはさすがに困惑したけど、結局追い出すことはできなかった。
魔女は用心深い生き物だ。魔女を誑かす存在はあちこちにいるし、人のような姿をして近づいて来る厄介な魔物や死霊もいる。そういう存在に囚われた魔女の末路は悲惨なもので、だからよくわからない存在に気を許さないのが魔女のあり方だった。
(まぁ、僕はガバガバだってよく言われるけど)
ガルにもそう言われた。手当してあげたのに、よく考えたらひどい言葉だと思う。
(でも、あの言葉と自分から人狼だって名乗ってくれたことに安心したのも確かだ)
どうしてホッとしたのかはわからない。もしかしてこの森のことを知らないのではと思ったからかもしれない。
それにガルは僕を脅かすものじゃなかった。逆に危機意識が低い僕を助けたり守ろうとしてくれたりする。そんなガルに惹かれるのは時間の問題だった。
(始まりは一目惚れだったのかもしれないけど、いまはガルだから好きになったんだってはっきりわかる)
まさか自分が人狼に惚れるなんて思ってもみなかった。こんなこと、ばあちゃんが知ったら腰を抜かすに違いない。それとも「馬鹿者が!」と目をつり上げて怒るだろうか。
僕だって何度も追い出そうと考えた。でもできなかった。人狼だとわかってもなお一緒にいたい気持ちのほうが上回り、僕のほうが離れられなくなった。
(だからこそ、使役契約なんてしたくない)
契約してしまえばガルは僕に従属することになる。そんな関係を僕は望んでいないし、いまのような平等な関係でいたかった。
(だって、恋人ってそういうものだろう?)
恋人という言葉に顔が熱くなる。僕はそう思っているしガルもそう思ってくれていると信じているけど、やっぱり不安は拭えない。つい、いろいろ考えて迷ったりもする。
(……仕事しよう)
僕はゆるゆると頭を振りながら立ち上がると、棚から乳鉢と乳棒を取り出した。そうして調合に使う薬草や薬品を準備する。
こうやって作業に没頭することで大事なことを後回しにするのはよくないことだ。わかってはいるけどガルとのことを考えたくなくて、今日もこうして先送りすることにした。
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