食べてしまいたいほど、きみが好き1
ヤルンヴィッドの森は昔、鉄の森と呼ばれていた。ばあちゃんのばあちゃんより前の魔女が住んでいた頃、森の木々は鉄のように硬く冷たいものばかりで花一つ咲いていなかったらしい。動物が住むには難しい環境で、棲み処にしていたのは少しの魔物や死霊ばかりだったと聞いている。
その後、ばあちゃんの母さんの頃から鉄の木々は減り、代わりに多くの木々が育ち緑あふれる森になった。街の人たちは「緑の魔女のおかげだ」と言って感謝したそうだ。それからばあちゃんが三十年あまり住み、引退を機に僕が引き継ぐことになった。命あふれるこの森を“鉄の森”と呼ぶ人はもういない。
(ヤルンヴィッドの森は、二度と鉄の森には戻さない)
森の入り口に立ち、改めてそう決意した。
「アールン、そろそろ昼飯の時間だぞ」
振り返ると、少し離れたところにガルが立っている。
「わざわざ迎えに来なくてもいいのに」
「薬草を採りに来たついでだよ」
ガルの右手に籠があった。近づいて覗き見ると、頼んでおいた止血剤に使う薬草以外に貼り薬や解熱作用がある薬草も入っている。どれもそろそろ底を尽きそうになっていたものばかりで、ガルに採取を頼むのをすっかり忘れていたのを思い出した。
「ありがと、助かる」
「いいよ、別に。それよりその袋は?」
「これ? アンナさんのパンだよ」
「また金を取らなかったのか」
ガルが呆れたようにため息をついた。
僕の左手にあるのは焼きたてのパンが入った袋だ。街一番のパン屋と名高いアンナさんの店のもので、腰痛に効く貼り薬のお礼にともらったものだ。高齢のアンナさんは長年腰痛を患っていて、数日後にはまた薬を持っていくことになっている。もちろん、そのときもお金をもらうつもりはない。
「お金はいいんだ。薬の調合は僕の魔女としての役目だからね」
「魔女がそんなお人好しだなんて聞いたことがない」
「そうかな」
「そうだろ」
「でも、ばあちゃんも代金は取らなかったしなぁ。それに、お金をもらっても僕には使い道がほとんどないからね」
お金を使うのは、ミルクやチーズといった乳製品と肉類を買うときくらいだ。家具は昔からのものを使い続けているし、服や靴は薬のお礼にもらうもので事足りている。野菜やパンなんかはこうしてもらうからほとんど買ったことがない。旅に出るとか引っ越しをするとかもないから、この先大金を使う予定もなかった。
「お人好しかどうかはわからないけど、僕はいまのままで十分だよ」
そう答えたら「アールンらしい」と呆れたように笑われた。
「さ、帰って昼飯にするぞ」
「お昼は何?」
「タラのスープ。今日はクリームにした」
「おいしそうだね」
「この前アールンが山盛り持って帰ったジャガイモもたっぷり入ってる」
「ジョージじいさんのジャガイモだから絶対においしいよ」
「そういや皮を剥いたら中身が黄金色だったっけ」と言いながらガルが歩き出した。逞しい背中に視線を送りながら、すぐそばにあるエルダーの木に触れる。森の入り口には大きなエルダーの木が数本生えていた。いずれもばあちゃんが可愛がっていた木で、こうした木々も僕が引き継いだものだ。
樹脈の温かな波動に変化はない。それにホッとしてから、少し先を歩くガルの隣に小走りで駆け寄った。
「そういえば、今日は兎を見かけなかったな」
「兎?」
「薬草が生えているあたりは兎たちのねぐらが近い。いつもは何匹も見るのに、今日は一匹も出てこなかった」
「珍しいね」
ガルは人狼だけど小動物たちに好かれている。兎のほかにも鳥やネズミ、さらには蛙や蛇といった爬虫類にまで懐かれていた。「ガルのほうが魔女みたいだ」と言った僕に顔をしかめたのは、出会ってひと月くらい経った頃だっただろうか。
(だって、魔女の僕が採りに行っても一匹見かけるかどうかなんだもんなぁ)
それなのに、ガルが薬草を採りに行くと必ずと言っていいほど獣たちが姿を見せる。その光景を僕は何度も見てきた。ガルいわく「あいつらと喋れるからじゃないの?」とのことだけど、人狼にそんな才能があったなんて驚きだ。
「よくないことが起きないといいけど」
ガルのつぶやきに「そうだね」と頷く。
僕はこのときガルの言葉をそれほど真剣に聞いていなかった。訪問者に敏感なエルダーの木は問題ないし、獣たちが騒いでいる様子もない。念のために帰り道にいくつか触れたオークの木も変わりなかったからだ。
(別におかしなところは何もないし、大丈夫だよね)
一応気にしながら二人並んで家に帰る。その後、ガルが作ってくれたタラのクリームスープに舌鼓を打つ頃にはわずかな心配もすっかり忘れてしまっていた。
数日後、予定どおりアンナさんに追加の貼り薬を届けるため街に行くことにした。ガルも何か買いたいものがあったらしく一緒に行くと話していたけど、結局家に残ることにしたらしい。
(また薬草茶の調合だな)
本を読んでいたガルが「そうか」とつぶやいたページには煎じ薬に使う薬草が載っていた。僕の仕事部屋から数種類の薬草を持って来たかと思えば真剣な顔で天秤を使い始めたから、薬草茶の新しい配合でも思いついたのだろう。
「狼なのに薬草茶に夢中なんて変わってるよな」と思いながら、音を立てないようにそっと玄関のドアを閉める。そのままいつもどおりの道を歩き、森の入り口まであと半分ほどの場所にたどり着いたときだった。
キゥィィィィィン。
獣の鳴き声のような高い音にハッとした。いまのは耳から入ってきた音じゃない。直接頭に響くこの音はエルダーの木の警戒音だ。
僕は大急ぎで森の入り口に向かった。いつもと違う道を進みながら、途中にあるオークの木々たちに右手で触れていく。彼らにもエルダーの警戒音が聞こえているからか枝がざわざわと揺れていた。そこに絡みついているヤドリギたちも小刻みに葉を揺らしている。
「あれは……」
森の入り口にたどり着くと、見慣れない人影が二人分あることに気がついた。両方とも目が覚めるような赤毛をしている。すらっとしたほうは腰まである長い髪を一つに束ね、豊満な胸を持つほうは僕と同じくらい短い。距離を取って様子を伺っていると、気配に気づいたのか二人がパッとこちらを見た。
「あら、あれが森の主かしら」
「あぁ、あれが森の主だな」
こちらを見ている二人の眼は、髪の毛よりも鮮やかな赤色をしていた。
(赤い眼なんて久しぶりに見た)
僕の母さんも赤い眼だ。漆黒の髪に赤眼の母さんは三つ向こうの森に住んでいて“灼熱の魔女”と呼ばれている。名前とは裏腹におっとりした性格だけど、毒の知識では魔女一番だと言われている腕利きだ。
「この森に用事ですか? それとも僕に?」
警戒しながらそう問いかけると、二人が同時にクスッと笑った。たったそれだけのことなのに首筋がぞわっとする。よくない雰囲気に唇をキュッと引き締め、二人の様子を見逃さないようにしっかりと見据えた。
「森にもあなたにも用はないわ」
「俺たちが探しているのは月の光を持つ銀狼だ」
「ぎんろう?」
「銀色の毛並みをした、それは美しい狼よ。この森に迷い込んでいるはずなんだけど、知らない?」
嫌な汗が背中を流れ落ちる。二人が探しているのはただの狼じゃない、きっとガルのことだ。
(それに、この二人は街の人でも旅人でもない)
それどころか僕とそっくりな匂いがする。
「探してどうするんですか?」
僕の質問に二人がニィッと笑った。そっくりな顔が二つ、そっくりな笑顔で僕を見ている。
「食べるに決まってるじゃないの」
「銀の狼を食べれば不老不死になれるって、魔女の世界じゃ有名な話だろう?」
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