116話 小さなエール
拓が一年遅れで高校を卒業した3月。大学進学の準備で忙しくしていた頃、自宅に幸太郎が訪ねてきた。意外な人物が訪ねてきたことに拓は心底驚く。幸太郎の顔はネットで拡散された写真を見ていたため知っていたが、まさか見ず知らずの拓を訪ねてくるなど予想していなかった。
「君が狭山 拓くんだね。はじめまして……わたしは雛梨の父の須波 幸太郎です」
「は、はじめまして……あの、どうして俺の家を?」
そう質問してからアキのことを思い出す。
「もしかしてアキ……アキさんから聞いたんですか?」
「ああ、そうなんだ……君にどうしてもお礼を言いたくて、こうして突然来てしまった。どうかな……わたしと少しお茶でもしないか? アキから車イスだと聞いていたから車で来ているんだ」
「はい」
言われるまま拓は幸太郎の手助けを借りながら車に乗り、町外れにある古い喫茶店へとやってきた。きっと、人目があるところは幸太郎自身避けたかったのかもしれない。お互い珈琲を頼み、無言で味わう。どうも気まずい雰囲気だ。拓からすれば自分の好きになった人の父親なのだから緊張は半端なものではない。それは幸太郎も同じなようで、なんどもネクタイを直したり、ソファに置いた紙袋を無意味に覗いたりと落ち着きのない様子だった。
「ああ、すまない……お礼を言いに来たのに……緊張してしまって」
ようやく幸太郎が口を開く。
「君には感謝している。過去から来た雛梨……アキのことを信じて、ウイルスの脅威から世界を守ってくれた。おかげでわたしも死なずに済んで、家族と過ごすことができている。ありがとう」
「いえ! 俺は俺で守らなきゃいけない理由があったし……そもそもアキさんが現れてくれたから、俺もこうして生きてるので」
「アキから聞いてるよ。君はずっと病気と戦っていたんだってね……病気と戦いながらあんな危険な場所に飛び込んできた君の勇姿は誰もが真似できることじゃない。そして、協力してくれた君の友達にもお礼を伝えてほしい」
あの出来事は世間ではただの爆破事件で、誰も拓たちの活躍など知りもしない。だから、こうして褒められると正直嬉しく感じた。
「いえ、そんな……それよりも雛梨ちゃんは元気ですか? お母さんのために海外へ移住するとアキさんから聞いたんですが」
「実は雛梨と妻は先にもう海外へ行っているんだ。早くあっちに慣れた方が良いと思ってね……わたしの方もやっと会社のことが片付いたから、来週日本を発つ予定なんだ」
「そうだったんですか」
雛梨は海外へ行き、新たな人生を踏み出している。アキの言葉を疑っているわけではないが、新しい生活の中で拓という存在がどこまで雛梨の記憶に残っていくのか少しだけ不安に感じた。
「実は君にこれを渡しに来たんだ」
幸太郎は自分の隣に置いてあった紙袋を拓に差し出す。拓は素直にそれを受け取り、そっと隙間から中を覗いた。紙袋の中身は小さな鉢植えに可憐に咲いた白い花だった。名前が分からず、拓はじっと観察するように見つめる。
「それは海外へ行く前に雛梨がどうしても君にお礼がしたいと花屋で購入したんだ」
「え? 雛梨ちゃんが?」
「アキからも聞いたが君は雛梨にとっても命の恩人だったんだね。アキのこともだが、雛梨のことも本当に感謝している……本当にありがとう。本当ならもっと君に謝礼をしたかったんだが、会社を失ったわたしにはその余裕がなくて申し訳ないと思っている」
深々と頭を下げる幸太郎に拓は制止の言葉を発した。
「そんな、やめてください! 俺は自分のためにやっただけで、お礼を期待していたわけではありません。だから頭を上げてください」
「そう言ってもらえると正直助かるよ。けど、またどこかで会えたときは改めてお礼をさせてほしい」
「そんな。この花で十分です……雛梨ちゃんにもありがとうって伝えてください」
そう笑顔で返すと、幸太郎の表情も若干緩む。
「その花の名前は知っているかい?」
「いえ、花の名前にそこまで詳しくなくて」
「妻が花の好きな人でね。雛梨も妻の影響で花には少し詳しいんだよ……それはカモミールだ」
「ああ、ハーブティでよく使うあのカモミールですか? へえ、カモミールってこんな花なんですね」
拓はまた視線を紙袋の中に戻す。なんとなく雛梨らしいチョイスだと拓は思った。
「実はその花には君に向けた思いが隠されている」
「え?」
また顔を上げると、今度は真剣な表情をした幸太郎と目が合う。
「雛梨は君が手術を受けて車イスになったと教えたらひどく心配していた。きっと車イス生活は大変だし、夢を掴むにも人一倍苦労するだろうと幼いながらに考えたんだろう……だから、雛梨はカモミールを君に送ったんだ。カモミールの花言葉は逆境に耐える、逆境で生まれる力だ。君を心から応援しているという雛梨からのエールだ」
拓は無意識に一筋の涙を溢す。
「あ、すいません……なんだか嬉しくて」
「そんなに喜んでくれたなら雛梨も喜ぶよ」
「すごく嬉しいエールです。これから俺も夢を見つけて頑張りたいと思います」
「なにか今、やりたいことはあるのかい?」
その問いかけに拓は首を左右に振った。
「いえ、今は自力で歩けるようになるためにリハビリを頑張りたいと思ってて夢のことまで頭が回っていません。けど、前に雛梨ちゃんに言われたんです……俺は何かお店をやった方がいいって」
「あはは、雛梨らしい助言だな……けど、君は接客向きだと俺も思うよ」
「なので、お店を構えるためにはいろいろ学ばなければならないことがたくさんあると思うんです。経営のことを全く知らないままではお店はやっていけませんから、それを大学で勉強してきます」
「そうか」
幸太郎は満足そうな顔をしながらカップの珈琲を静かに飲み干した。
「アキが……いや、雛梨が君を強く想う理由がなんとなく分かった気がするよ」
「いや、そんな……」
「いつになるか分からないが……もしも雛梨が君に会いに行くことがあったら、その時はよろしく頼む」
そっと幸太郎が手を差し出す。拓は一瞬躊躇った。
だが、答えるように手を伸ばし、固い握手を交わした。
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