100話 儚い約束
浬の腹部付近がじわじわと赤く染まっていく。それでもまだ息はあった。
「浬さん!!」
満里奈が拓の腕の中から飛び出し、浬の側に駆け寄る。瞳からはぼろぼろと止めどなく涙が溢れ出し、浬の服を僅かに濡らす。痛みで意識が朦朧としながらも、浬はそんな満里奈を見ておかしそうに微笑んだ。
「泣いてる暇があるなら早く逃げろ」
「浬さんを置いてなんて」
浬の目が拓に向けられる。
「狭山、早く行け……今なら逃げられる」
鴇は銃を手放し、そのまま方針状態のまま立ちすくんでいた。確かに浬の判断は正しい。それでも、逃げるという選択が拓にも出来なかった。
「一緒に行こう」
拓は涙を拭い、浬に肩に手を当てる。
「なに考えてるんだ! 俺なんていいから」
「俺はっ!」
そう言い掛けたものの、拓は言葉を飲み込む。今はどんなに反論されたとしても、それを聞く気もなかったし、それに対して返事をしている暇はない。この僅かな隙を逃すわけにはいかなかった。
拓は無言のまま浬の腕を自分の首に回し、ゆっくりと身体を持ち上げていく。満里奈が支えてくれたおかげもあってすんなりと立ち上がることはできたが、浬にしてみれば僅かな振動も激痛に変わってしまう。表情を見るとかなり険しい。それに呼吸も荒くなっていた。
「行こう」
「待ちなさい」
鴇の呟くような声に満里奈と拓はびくりと身体を震わせる。
「浬を離しなさい。ここからは出さない」
目の焦点が合っていないほど虚ろだが、鴇の正気が戻りつつあるのは確かだ。
「お願いだ! 早く病院につれていかないと浬が死んでしまう!!」
家族の危機的状況。見逃してくれるとどこかで信じていた。しかし、拓の考えは甘かった。
「どうせ死ぬ覚悟で
鴇の手がゆっくりと床に落とした銃へと伸びていく。それを手に取ってしまったら状況は最悪なものになってしまう。
「満里奈、急ごう!」
恐怖に震える満里奈を急かし、浬を抱き抱えながら歩き出した時だった。けたたましいベルの音が耳を貫く。
「なにっ!?」
鴇の顔が頭上へ向けられる。その音に紛れるように拓が出口を目指した矢先、閉ざされていた扉が勢いよく開け放たれた。誰がと驚く余地もないまま、いきなり現れた人物は瞬時に床に落ちた銃目掛けて床の上を滑るように飛び込んでいく。鴇の手に触れることなく、その銃は新たな持ち主の手に収まった。そして、銃口は見下ろしている鴇の頭を狙う。
「今のうちに逃げてください!!」
叫び声によってようやく拓の視野がはっきりと鮮明さを取り戻す。
「姫……どうして」
突然現れた姫に拓は問う。計画ではアキと来る予定にはなっていた。しかし、見る限り姫ひとりだ。
「早く逃げてください!!」
避難ベルのせいで拓の小さな呟きは掻き消され、姫の耳には届かない。
「拓さん、今は浬さんを助けなくちゃ! 逃げましょう!!」
満里奈の声に背中を押され、拓は再び歩み出す。
「姫なら大丈夫だ。あいつは強い」
拓の肩にもたれ掛かる浬がそう呟く。そこで躊躇していた気持ちを振り切り、拓は歩く速度を上げた。
「待ちなさい!!」
鴇の叫びを背に、拓は慌ててエレベーターのボタンを連打する。しかし、エレベーターは誰かが利用してしまっているのかなかなか上昇する気配はなかった。
「拓さん、階段で行きましょう!!」
「いや、でも」
いくらなんでも最上階から階段で下るのは、怪我人の浬には厳しいに決まっている。しかし、ゆっくり待っていられる状況でもない。
「俺のことは気にするな。非常階段を使え……俺を置いて」
「馬鹿言うな!!」
拓はさらに浬の肩を力強く掴む。
「絶対に死なせたりしない!!」
そして、エレベーターを待つことを諦め、非常階段の案内どおりに通路を歩き始めた。
非常階段に辿り着くと防犯ベルに負けない音声がスピーカーによって辺りに響き渡る。
『緊急の連絡です。ビル内に爆発物と思わしき不審物が見付かりました。直ちにビル内にいる人は速やかに避難してください。繰り返します、ビルに不審物が見付かりました』
拓はその声の主が誰なのか即座に理解した。
「アキ」
「アキさん、無事だったんですね」
満里奈が安堵したように呟く。
「これならビルにいる奴等は全員逃げ出すな……姉さんの計画もここまでってことか」
浬が少しだけ悲しげに言った。
「ひとまず下へ急ごう」
しかし、最上階から階段で下るのはだいぶ時間がかかる。浬の服はすでに鮮血によって赤く染まりつつあった。
「途中の階でもう一度エレベーターを使おう」
拓の提案に満里奈は力強く頷いた。一歩階段を降りる毎に浬の口からは痛みを訴えるような呻き声が漏れる。出血のせいで顔の血色がかなり悪い。全体的に青白くなり、唇は紫がかっていた。
「浬、もう少しだから」
次の階に着いたところで、またエレベーターへと向かい、呼び出しボタンを連打する。しかし、避難放送のせいで誰かが使ってしまい、なかなか上昇する気配はない。
「もういい。諦めろ」
浬がそう言った直後、ずしっと拓の肩に重みが加わる。
「浬っ!?」
立つことすら困難なほど、浬の状態は悪化していた。成人した大人の男の重みは拓と満里奈だけでは支えきれず、一旦床へと浬を下ろす。
「早く、お願い」
満里奈が焦るように繰り返しボタンを押し続ける様に、拓も徐々に余裕を無くしてった。
「浬!! 頼む、もう少しで外へ出れるから頑張ってくれ!!」
荒かった呼吸が今や浅く、途切れだす。目はうっすら開いてはいるが、意識を失いかけているように朦朧としていた。
「俺はもっと浬と話がしたいんだ!! だから死ぬな!!」
そう叫ぶと、力なく床に置かれていた浬の手がゆっくりと浮き上がる。小刻みに震えながらも、その手は拓の袖をしっかりと握り締めた。
「もうワクチンはないけど……未来はきっと、お前たちで変えていける。だから……拓、生きてくれ。そしたら……未来で俺と友達にでもなってくれ」
力なく微笑んだ浬の姿に、拓は再び涙を流す。
「俺、お前のこと……嫌いじゃない」
浬の言葉が途切れ、裾を掴んでいた手は床へと滑り落ちた。そして、もう二度とその手は動かなかった。
爆破のタイムリミットまで残り50分。
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