99話 悲しき犠牲
暖房で暖かいはずなのに、吐く息が白く変わりそうなほどに空気が冷たく感じる。それでも額には汗が滲む。最早、暑いのか寒いのかさえ分からなくなるほど、今の状況に困惑していた。それでもなんとか冷静を保とうと拓は辺りに目を配る。
右太ももを押さえながら、痛みに顔を歪める浬。意識がハッキリしているところを見ると、今のところ命に関わる危機的状況ではない。肩を貸せば、ここから脱出することも出来るだろう。ただ、その前に解決しなくてはならないのは目の前にいる鴇だった。彼女を説得するか、なんとか隙を作り出すかしなければ、ここからの突破は難しい。そもそも怪我人ひとりに、怯えきって震えが止まらない満里奈を連れ出すのは至難の技だ。
「姉さん」
突如、浬が口を開く。鴇が銃口を拓たちに向けたまま、目線だけ浬に向けた。
「俺もはじめは世界を恨んでた。こんな世界、消えてなくなってしまえばいいって……姉さんがこれまでどれだけ苦しんできたか、どれほど傷つけられてきたかは俺が一番知ってるからさ。姉さんのやろうとしていることを止める気なんてない。今でもそれは変わらない」
「だったら、どうして邪魔をするの?」
「結末がどんなになろうと俺は姉さんの側にいるよ。このビルが爆破されるのも、今日ウイルスをばらまくのも止める気はない……それほどの憎しみを姉さんが抱えてるのは俺が誰よりも見てきたから、それに最後まで付き合う覚悟はある。だって俺は姉さんの家族だから」
「そう思うならどうしてなの? 姫を逃がしただけでなく、救世主まで庇ってるじゃない……」
鴇の表情が僅かに変化する。銃を握った手は力が抜けていくように下がっていき、銃口は床へと向けられた。拓はそれを見て安堵の息を静かに吐く。
「世界が滅んでいくのをふたりで見届けて、最後は一緒に死のうって言われればそれでもいいと思ってる。だって俺はそれを望んでたからさ……今さら親に情なんて感じやしないし、こんな世界に未練もない。けどさ、姫は違うじゃないか。あいつはまだ子供で、親への愛情を失っていたわけじゃない。そんな姫の感情を強制することなんてできやしない」
痛みに堪えながら浬は立ち上がる。そして真っ直ぐ鴇を見据えた。
「姫の最後は姫自身で決めさせてやるべきだ。そしてどの道ウイルスをばらまくんだから、救世主の命だって俺たちが奪う必要性はない。ワクチンさえ手に入れば、この世界が救われる道はないだろう? それが偽物だとしても、今の救世主にそれを世界に広める力はない……俺たちがわざわざ手を下す必要はもうない。無駄な争いも殺しもしなくていいんだ」
「それはこのふたりを逃がせって言ってるの?」
「放っておいても、ウイルスが蔓延したらいずれ命を落とすのは分かりきってるじゃないか。だったら、最後ぐらいはこいつらの望んだ死に方をさせてやろう……それぐらいの情けかけてやってもいいだろ?」
浬の問いかけに鴇はにっこりと微笑みを浮かべる。
「それが浬の気持ちなのね」
その笑顔は柔らかく、浬の表情から緊迫感が薄らぐ。だが、次の瞬間、鴇の笑い声が部屋中に響き渡った。突如の異変に拓は言い知れぬ恐怖を感じた。それは浬も同じだった。
「わたしはね、この世界を滅ぼすことにこだわりなんてないのよ」
「え?」
「わたしが望むのはこのビルにいる人たち全員と、今目の前にいる救世主とともに最後を迎えることなの」
鴇の瞳が怪しく、強く光る。その眼差しに浬の顔は一気に青ざめていった。
「世界を恨んでいたけど、世界の人間全員に恨みをもっていたわけじゃない。わたしが憎くて憎くて仕方がないのはわたし達にひどい仕打ちをして来た組織の連中、組織を作り出すきっかけを生んだこの会社、そんな会社に働く愚かな人間……そして、あの女」
鴇の眼差しが満里奈に向けられる。
「あんな救世主がいなければわたし達の苦しみは早く終わっていたかもしれない。あの女がワクチンなんて発表しなければ、長く苦しみ続けることはなかった」
鴇の言っていることは最早逆恨みだった。けれど、そんなことにすら気付けないほど鴇は憎しみに支配され、本来の自分を見失っているように感じる。拓はもう説得はダメなんだと悟ってしまった。
(逃げなきゃ……満里奈だけでも逃がさなきゃ)
きっとこのままでは殺されてしまう。自然と手が満里奈の肩を強く掴んでいた。
「姉さん、相手は子供だ! そんなやつらを殺すことで姉さんの憎しみは消えるのか!?」
浬が状況を変えるべく言葉を放つ。だが、それは逆効果だった。
「憎しみを消したいんじゃない!! これがわたしの復讐なの!!」
銃を握る手が満里奈に向く。拓は咄嗟に満里奈を抱き寄せるのと、再び銃声が轟くのはほぼ同時だった。キーンと耳鳴りが起こり、拓と満里奈は反射的に目を瞑る。
静まり返る部屋、漂う硝煙のにおい。拓がうっすらと目を開けると、隣で既に目を開けていた満里奈は一転を見つめている。その目線の先を追うと、驚きの光景がそこにあった。
「か、いり?」
いつの間にか自分たちの前に浬が背を向け立っていた。顔は鴇の方を見ているから、表情は分からない。今分かるのは、浬が自分たちの盾になって庇ってくれたのだという事実。
「姉さん」
拓の耳に届いた浬の声が先程よりも弱々しく感じた。浬が目の前に立っているせいで視界は狭く、鴇の顔がよく見えない。だからか余計に最悪の結末が頭を過る。
「俺だって憎い。俺たちを苦しめてきた組織の奴等や、俺と姉さんを残して先に死んじまった両親が今も憎い。後ろにいる救世主が憎い時期もあった。でもさ、実際に会ってみたらさ……ほんとに子供でさ」
浬が不意に振り返った。その顔はひどく優しい笑顔。拓の目から無意識に涙が溢れる。
「今のこいつら見たら、組織に怯えて暮らしてた頃の俺たちを思い出したんだ。こんな無力な子供、俺は憎めないよ」
床に銃が落ちる音が虚しく耳に伝わった。そして、浬の体が床へと傾く。
「浬っ!!!!」
拓の叫びが部屋に響き渡った。
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