87話 戸惑いと優しさ

 満里奈は浬と共に社長室へと来ていた。

 心の準備もないまま中へ入ると、甘ったるい香水の香りが鼻をつく。臭いを辿ると、赤いスーツを着た背の高い女性が暗い笑みを浮かべ、満里奈を待ち構えるように立っていた。


「ようこそ、未来の救世主……片倉 満里奈さん」


「は、はじめまして」


 震えながらも満里奈は答える。すると、鴇は愉快そうに手を叩いて笑い出した。


「素晴らしいわ! こんな状況にも屈しない姿勢、さすが未来を救う人は立派ね!」


「そんなことは……ないです」


 嫌みだと分かってはいたけれど、満里奈はそれに対しても冷静に返答する。だが、満里奈の態度が気に食わなかったのだろう。次の瞬間、鴇の目付きが変貌する。背筋が凍るような冷たい睨みに、満里奈は息を飲んだ。


「ところで肝心のワクチンはどこにあるの? お友だちが持ってる、もしくはどこかに隠してあるのかしら?」


「ワクチンなんて知りません」


「そんな嘘は通用しないわよ!!」


 凄まじい勢いで、鴇はデスクに手を叩きつけた。すごい音に思わず満里奈は身を強張らせる。


「姉さん、ワクチンはこいつの友達が必ず持ってくるさ。ちゃんと招待状も渡してきたんだ」


「あなたには聞いてない!!」


 鴇は荒ぶった様子で満里奈の前に仁王立ちした。


「本当にお友だちが持ってるかなんて分からないじゃない。どこかに隠しているなら今のうちに白状するのが身のためよ」


 ずいっと迫ってくる鴇の冷酷な眼差し。どうしようもない恐怖から満里奈の体は震え上がる。


「姉さん! ワクチンのことは俺に任せてくれ!!」


 浬が咄嗟に満里奈を庇うようにして入ってきた。その行動が気に障ったのか、鴇の表情がより一層険しくなる。


「だったら早く確認しなさい!! 言われたことしかできないのは役立たずと同じよ!!」


 怒りに任せて鴇は浬を突き飛ばした。いきなりの事で、浬はバランスを崩し、絨毯に倒れ込んだ。満里奈は手を差しのべようか迷ったが、グッと堪える。きっと気遣って手を差し述べてしまったら、鴇の逆鱗に触れてしまうかましれないと考えたからだ。


「もういいわ、そこに居られても目障りよ。さっさと救世主を連れて出ていってちょうだい」


 浬は文句も言わず、返事も言わずに立ち上がると、満里奈の肩をぐっと引っ張る。


「行くぞ」


 満里奈はそのまま社長室を後にした。

 社長室を出ると、エレベーターで5階へと下りていく。あんな出来事の後だと、狭い空間でふたりきりというのがどうも気まずく感じてしまう。


「あの、大丈夫ですか?」


 沈黙に耐えきれず、満里奈は小声で尋ねた。すると、浬はふっと笑みを漏らす。


「余裕だな。敵の心配より自分の心配をした方がいいんじゃないか? もしかしたら、約束を破ってお友だちやお前に乱暴なことをするかもしれないとか考えないわけ?」


「そうですね、信用しているわけではありません。どちらかと言えば、拓さんに怪我をさせたあなたを今でも許せません……けど、拓さんがあなたを悪い人だと思っていないと言うのであれば、わたしもそれを信じようと思ったんです」


「はぁ?」


 浬は腑抜けた声を出す。


「樋渡さんもあなたはお姉さんを裏切れないだけだと言っていました。本当は優しい人なんですよね? 家族を守りたくて、逆らえないだけ……そうなんじゃないですか?」


 満里奈が真剣な眼差しでそう言い返すと、浬はばつが悪そうに顔を背けた。


「わたしは拓さんが信じたあなたを信じます」


 そう言い切ったところでエレベーターが止まり、扉がすっと開かれる。廊下へ一歩出たところで、浬は満里奈と向き合った。その顔はさっきと違って、悪戯っ子のような笑顔を浮かべている。


「お前、狭山の女?」


「えっ!!?」


 突拍子もない発言に満里奈はつい声が上ずってしまう。


「その反応は違うのか? なら、狭山に片想い中ってとこか……いいね、青春って感じで」


「か、からかわないでください!!」


「別にそんな意味で言ってねーから。ただ単純に羨ましいって思っただけだよ」


 浬が不意に満里奈の頭を撫でる。思いもよらない優しさに、満里奈は気恥ずかしさから下を向いた。


「いや、悪い。深い意味はないから気にすんな」


「はい」


 すると、浬がズボンのポケットから折りたたみナイフを取り出す。満里奈が何をするのだろうかと見ていると、手首の結束バンドを躊躇うことなく切り外した。窮屈だった拘束がなくなり、手首に軽さが戻る。


「いいんですか?」


「いいもなにも、これから監禁されんだから状況は変わらないだろうが」


「いえ、それでもありがとうございます」


「敵に感謝するとかって変なやつだな。お人好しにも程があるだろ」


 呆れ顔をしながらも浬はどこか嬉しそうだった。満里奈は拓の言ったことは正しいのだと実感できた瞬間だった。


「さて、俺も忙しい……大人しく監禁されててくれ」


 そう言って連れてこられたのは5階・資料室。


「他の奴等もいるから心細くはないだろうさ」


「えっ?」


 満里奈が疑問を口にしようとしかけたが、直ぐ扉が開かれてしまう。そして、満里奈の目に不安そうな視線を向ける大人たちが写り込んだ。


(この人たちが……もしかして)


 満里奈は意外な対面に驚きの目で見つめ返す。

 姫から話しは聞いていたから、この人たちが誰なのか聞かずとも分かった。しかし、まさか同じ場所に監禁されるとは思っていなかったため、満里奈は意外な展開に言葉をなくしてしまう。


「ここでが来るまで待ってろ」


 先程までの優しさは嘘だったかのように、浬は満里奈を軽く突き飛ばす。よろけながら中へ進むと、何も言わないまま扉を閉めてしまった。いきなり初対面の人と監禁なんて、かなり居心地が悪い。それに相手が誰であるのか分かっているからこそ、どう接していいのか複雑な立場だった。


「えっと……未来で救世主になる予定の片倉 満里奈です。よろしくお願いします」


 空回りから、こんな自己紹介をしていまう。

 大人たちは不安そうな顔から、不思議そうな顔へと変化する。満里奈は苦笑いを浮かべるしか他なかった。

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