85話 満里奈の覚悟
満里奈は職員室の前まで歩いていくものの、中には入ることなく通りすぎた。下駄箱の中を見た瞬間、とてつもない胸騒ぎに襲われた。その原因は満里奈の手のひらに収まりきる小さな紙切れ一枚。たった一枚の紙切れに満里奈はひどく動揺していた。
(みんなに気づかれてませんよね?)
満里奈はチラリと後ろを振り替える。廊下を行き交うのは授業準備のために慌ただしく走り回る教員と、教室へ向かう登校してきたばかりの生徒たち。誰も自分を追ってくるものはいない。
(もう覚悟は決まっています)
満里奈は今にも震えだしそうな手を握り締め、教員玄関へと足を踏み出した。
上靴のまま外へと出ると、満里奈は紙を開く。
ーーこれを見たら、ひとりで学校の裏口へ来い。
やはりそうかと、満里奈は一瞬瞼を閉じた。
大丈夫、大丈夫と何度も心の中で繰り返し唱える。
目を開け、満里奈はそのまま裏口へと向かった。
裏口に着くと、そこには誰も居なく、人の気配は感じない。教員専用駐車場というぼろぼろの看板を境に、さまざまな車種が駐車されている。満里奈は警戒しながらゆっくり歩いていると、いきなりエンジン音が響き、駐車していた中の一台がすっと動き出した。その車は満里奈へ近付くと停車する。
「約束通りひとりで来るとは、意外と度胸が据わってんのか、ただの馬鹿なのか」
運転席から飽きれ顔の青年が降りてきた。その人が拓の話していた浬だと満里奈は一目で理解した。
「わたしが応じなければ、誰かを傷付ける事になるかもしれません。そんなこと望んでいないので、ここへ来たんです……だから約束してくれませんか? 他の人は傷付けないと、誰も巻き込まないと誓ってください」
「自分の安否よりもお友だちの心配か……さすが救世主だな」
皮肉な言い方をした浬はそっと後部座席のドアを開ける。
「ちゃんと指示に従うならお友だちに危害は加えない。約束してやるよ」
浬の返事を聞いた満里奈は、恐る恐る足を踏み出し、車へと近付く。ドアの前まで来ると、再度確認の気持ちを込めた視線を浬に向けた。
「早く乗れ」
浬はあしらうように素っ気ない言葉を投げる。満里奈は仕方なく座席に身を置いた。その時だった。
「片倉っ!!」
声に満里奈ははっとする。どういう訳か文也が走ってこちらへ向かって走ってきていた。
「宮下くん!!」
満里奈は車から身を乗り出そうとするも、浬は咄嗟のところでドアを締め、ロックをかけた。
「おいおい、救世主は潔さがあるのに、お前は往生際が悪いな。見て見ぬふりすれば怪我することもないんだぞ?」
浬が呆れながらも、なぜか面白がるような笑顔を浮かべる。あと数メートルの位置まで近寄ってきた文也は鋭い睨みを浬にぶつけた。
「あんたが拓の話してた浬ってひと? ねぇ、片倉返してくれない? 彼女は俺たちの大切な友達なんだけど」
「ははっ……クールだね。取り乱したり、怯えたりしないで、たったひとりで俺に立ち向かうなんてすごい勇気。その意気込みは褒めてやるよ」
「ちゃかさなくていい。片倉を返して」
「悪いけど、それは無理」
軽く笑い飛ばした浬は、素早い動きで文也に近付く。一瞬身構えるも、それは遅かった。抵抗する間もなく、文也の腹部に激痛が走る。ずしっと重い拳がお腹にめり込んでいた。痛みと何かが喉に込み上げる嫌悪感が襲い、文也はその場で踞る。反撃したいのに力が入らない。文也は地べたに倒れ込んだ。満里奈が必死に窓を叩きながら文也を呼ぶ声が微かに届く。
「はい、これ……狭山 拓に渡しておいて」
浬は地面に赤い封筒を落とした。
「あんたが来てくれたから渡す手間が省けた」
浬はそのまま運転席へ向かい、エンジンを掛ける。窓が開けられる音がして、文也が悔しさに滲んだ眼差しを浬に向けた。
「ちゃんと約束を守れば救世主には手を出さない。正義感もいいが、諦めも肝心だ」
それだけ告げると、浬は車を発進させ、走り去っていく。
「くそっ……」
文也の中には悔しさと後悔だけが広がる。
下駄箱で満里奈の様子に不信感を持った文也は、なんとなく拓たちと別れ、職員室へと向かった。中を覗くが満里奈は見当たらず、担任はひとり机に向き合っている。違和感と胸騒ぎに駆られ、文也は満里奈を追うように教員玄関へと向かったのだ。
もしもひとりで行動せず拓たちに相談していればと、文也は自分に対しての怒りを拳に込める。だが、行き場のない怒りは地面を叩くぐらいしか方法はなかった。
まだ腹部の痛みは引かない。暴力とは無縁の生活を送ってきた文也にとって、こんな鋭い痛みは初めてだ。
「行かなきゃ……立たなくちゃ!」
文也は残っている力を振り絞り、手紙を握り締め、なんとか立ち上がる。
そんな状況になっていることを知らない拓とアキは、なかなか満里奈と文也が戻ってこないことに不安を覚え始めていた。
「ホームルーム始めるぞー」
ベルが鳴り、普段通りに教室へと入ってくる担任。拓は嫌な予感に身体を震わす。アキに視線を移すと、拓と同様の反応をしていた。すっかり顔が青ざめている。
「拓っ!!」
先生が連絡事項を話し始めると、ようやく文也が教室へと戻ってきた。しかし、明らかに様子がおかしい。
「どうした、宮下!? 何かあったのか!?」
服は土汚れが付き、お腹を押さえて苦しそうな文也の姿に担任も異変を感じたようだった。
「先生! 俺が文也を保健室に連れていきます!!」
「わたしも付き添います!」
足元がふらつき、今にも倒れそうな文也の腕を拓とアキで支え込む。
「頼んだぞ!」
担任が変に思わないように、急いで教室を後にした。保健室へ向かう最中、文也は眉を潜め、涙を流す。
「ごめん、俺……何もできなかった」
こんな文也は見たこともない。拓の胸騒ぎはよりいっそう強くなった。
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