80話 優しい嘘
まだ寝ぼけ眼の雛梨の支度をアキはてきぱきこなしていく。その様子を姫は少し距離をとりながら見守っていた。
アキが雛梨を送り届けることは姫も承知の上だったが、こんな早朝に来たことに驚いたのだろう。しかも、ひとりで来るとは思っていなかったらしい。アキを出迎えた姫はひどく動揺していた。それに気付きながら、アキは何食わぬ顔で中へと入り、寝ていた雛梨を起こしに行く。
雛梨は支度していくうちに目が冴え始め、今ではすっかりご機嫌だった。
「なにか忘れ物はない?」
「だいじょうぶ。なにも持ってきてなかったから」
「そう、なら準備はこれで良いわね……朝ごはん買ってきたから、行く前に食べておいで」
アキはここへ来る前に寄ってきたコンビニで購入したお茶とサンドイッチを雛梨に手渡す。袋の中身を確認すると雛梨はぱっと花開くような笑顔を浮かべた。大好きな卵のサンドイッチが入っていたからだ。
「お姉ちゃん、ありがとう!!」
雛梨は喜んだ様子でリビングのソファに座り、お茶とサンドイッチをテーブルに並べ出す。食べ出した雛梨を確認してから、なにも喋る気配のない姫にアキはそっと顔を向ける。お互い目があった瞬間、姫はびくりと肩を揺らす。まだ面識は浅い。警戒されているのかもしれない。だが、それだけが理由ではないことをアキは察していた。
「もしかして、樋渡さん気が付いているんじゃない? わたしのこと」
図星だったのか、姫の顔色が暗くなる。その反応を見て、アキはやっぱりかと苦笑いを浮かべた。
「浬は気付いてなかったけど、あなたは気が付いていたのね」
「あの……生死の確認で顔を近くで見たのはわたしなので」
「なら、質問していい? どうして生死の確認したのに、わたしを殺さなかったの? わたしが生きてるの気が付いてたはずでしょ?」
優しく訊いたからなのか、姫は徐々にアキに目を移していく。
「好きであんなことをしたのではありません。未来を変えるために仕方なかったんです……それに救世主、満里奈さんは必死であなたを庇って守ろうとしていた姿を見たら、あなたまで殺すことはできませんでした。それにまさか、あなたまで未来へ来るなんて思ってもみなかったので」
「その優しさに救われたって訳ね」
「あの……わたし」
「あなたを憎んでないとは正直言えないけど、あなたが見逃してくれたおかげでこうして過去へ来ることができた。そして今はあなたを味方だと思ってる……だから、何も言わなくていいわ」
姫は黙ったまま頭を下げる。それは謝罪とお礼、ふたつの意味が込められていた。
「雛梨は送り届けるけど、組織はあの子を利用するつもりだったの?」
「いえ、そうではないと思いたいのですが……社員の娘さんのようで、監禁しなくてはいけない理由があったのかもしれません。突然会社を訪問してきた雛梨ちゃんの行動が鴇さんには都合が悪かったのでしょう」
「それもそうね。須波社長の娘だもの……都合は悪いわ」
「え? 須波社長の娘さんだったんですか!?」
思わず声を出してしまい、姫はまずいと手で口を塞ぐ。雛梨は朝のテレビ番組に夢中になっていて、どうやら今の会話は聞かれていないようだった。
「……名字が違うので、てっきり別の研究員のお子さんかと思ってました。けど、監禁されていた理由がそれではっきりしました」
そこで話が途切れ、姫はじっとアキを見つめる。何か確信を抱いたようにまた口を開いた。
「もしかして、アキさんは雛梨さんですか?」
アキは返事の代わりに小さく頷く。
「そうだったんですね」
姫はアキがなぜ過去に来たのか全てを悟った様子だった。
「今はその話は聞かないわ。夕方にまたここへ集まったときにその話をしましょう」
「分かりました」
すると、タイミングよく朝食を食べ終わった雛梨が笑顔で駆け寄ってくる。
「お姉ちゃん、ご馳走さまでした!」
「どういたしまして。よし、ご飯も食べたから帰ろうか」
うんっと、大きく頷いた雛梨は身体を姫の方へと向けた。
「姫お姉ちゃん、わたしのこと助けてくれてありがとうございました! また今度遊びに来るね」
姫は困った顔を浮かべる。もう今度はないと分かっているからだ。
「はい、またいつか会いましょう」
そう嘘をついた姫は、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「ここはまだ知られてはないとは思うけど、ひとりだから気を付けてね」
アキはそう言い残し、雛梨を連れて外へと出る。
「アキさんも」
見送る姫にアキは背を向けた。雛梨は姫の姿が見えなくなるまで手を振り続け、やがて目線をアキに移した。
「お姉ちゃんは雛梨のことよく知ってるのはなんで?」
いきなりの質問にアキは返答に詰まってしまう。まさか自分の未来の姿だとは言えない。
「えっと……お父さんの知り合いだからかな?」
適当に嘘で誤魔化す。
「だから雛梨がたまごのサンドイッチ好きなのとか、今住んでるところとか知ってたんだね」
雛梨はなんの疑いもない眼差しでアキを見つめた。
「ねえ、雛梨ちゃん……どうして会社に行ったの?」
「お父さんに会いたかったから……会えなかったけど……なんで雛梨、閉じ込められたのかな? 雛梨が来たら迷惑だったのかな? 邪魔だったのかな?」
幼い子供にはあの監禁は勝手に会いに来た罰とでも捉えたのだろう。雛梨は一気に悲しい表情をし、涙を浮かべ始めた。
「そうじゃないよ。きっと何か誤解があったんだと思うよ? お父さんがそんなことするはずないもの」
そう言ったが、アキには正直自信がない。本当は父親の命令だったかもしれないと考えていた。それでも、なんの疑いもなく今を生きている雛梨にはそう思わせたくない。アキは精一杯の笑顔をつくった。
「きっとお父さんは雛梨ちゃんが大好きだから……雛梨ちゃんだってそうでしょ?」
「うん! わたしお父さんのこと大好きだよ! お母さんとは離れて暮らしてるけど、お父さん必ず雛梨にもお母さんにも会いに来てくれるもん。お母さんの病気を治すお薬を作るって約束してくれてるんだよ! すごいお父さんなんだ!」
「そっか」
そう返事をして、まだ小さな雛梨の手を強く握り締める。
「なら、お父さんを信じてお母さんと待っててあげてね」
「うん!!」
元気な声がアキの心に痛みを生む。いつか、雛梨も父親を憎む日が来るのだろうか。そう思うと、切なく堪らなくなってしまうのだった。
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