78話 誰にも止められない
勢い良く飛んできたものが耳を掠めていく。直ぐ後ろの壁に当たったのか、鈍い音が鳴った。目を瞑ることもせず、どこか冷めた眼差しを床へと向ける。お客様用としてテーブルに置かれていた分厚いガラス性の灰皿がごろごろと音を立てながら回転して止まった。壁にぶつかったにも拘らず、分厚いガラスは無傷なようだ。
そんなことを考えていたら、苛立った声が耳に響く。浬はため息を漏らしながら、怒鳴っている相手・姉の鴇に目を向けた。
「浬、これ以上の失態は許さないから!! 監視しているのに逃がすなんて役立たずじゃない!!」
数時間前に事件は起きてしまった。どうやら、休憩中の警備員がずっと警備室に置きっぱなしの私物を無断で取りに行ってしまい、それに気が付いた姫は瞬時に判断し、雛梨を連れて脱走。その知らせを外出先で聞いた鴇が憤怒しながら帰ってきたのだ。その怒りの矛先はもちろん浬しかいない。
直ぐ様、社長室へ呼び出され今に至る。
浬は面倒そうに頭を掻きながら答えた。
「仕方ないだろ、警備員が私物を取りに行くのなんて誰も把握できない。そもそも俺だって爆弾の設置場所の確認であちこち動き回ってたんだ。それを指示したのは姉さんだろ? それに今回のことは姉さんにだって責任はあるんじゃないの?」
警備員からの声を無視し続けていたことを思い出したのだろう。鴇はバツが悪そうに唇を噛んだ。
「まあ、いいわ。あんな子ひとり逃げしたところで計画は揺るがないし、もう誰にも止められない」
「探さなくていいってことか?」
「そんなことに無駄な時間を使っている暇はないわ。それに、あなたにはやってもらいたい任務がある」
気持ちを切り替えたように鴇は浬に笑みを向ける。嫌な笑みだ。
「救世主を連れてきなさい」
「誘拐してこいってこと?」
「ええ、ワクチンもって言いたいところだけど……もしかしたら隠してるかもしれない。誘拐したあとに、救世主を人質にワクチンを要求すればいいわ」
「要求って誰に?」
浬は鴇の言いたいことは何となく分かっていたが、わざと質問で返した。それが勘に触ったのだろう。鴇に眉間に深いシワが作られ、鋭い睨みを放った。浬はまずいとばかりに目を逸らす。
「あっ……ああ、姫が会いに行ってた救世主のお友だちさん?」
「分かってるんなら質問しないで! 回りくどいのが嫌いなの知ってるでしょ!?」
「悪かったよ」
怒らすとまた何かが飛んできそうだと浬は素直に謝る。すると鴇のお怒りは治まったようで、ふんっと鼻をならしながら背を向けた。
「救世主の両親はふたりとも海外生活なようだし、すでにワクチンは手渡されているはず……姫が余計な真似をしたせいでワクチンの存在にも気がついてるかもしれないわ。だとしたら、何かしら対策している可能性も高い。それをこそこそ嗅ぎまわるよりも、手っ取り早く催促した方がいい。救世主を殺すと脅せば、子供なら素直に従うでしょう」
「それもそうだな」
「いい? 運命の日まであと20日。ウイルスは完成してるんだから、失敗は許されない」
「分かってるよ。一週間以内にどうにかする」
「任せたわよ。浬……裏切らないでちょうだい」
「それよりも姉さん……あのイベントはなんのためなんだ? ウイルスをばらまくのにわざわざ集めて爆破までしようとしてる。一体なにを考えてるんだ?」
鴇は振り返ろうとはしない。
「黙って言われた通りにしなさい」
答えを期待していたわけではなかった。きっと言わないだろうと予想していた。
浬はそのまま社長室を後にする。社長室を出た瞬間、身体から急激に力が抜けるのを感じた。
浬は大きく息を吸って、肺から空気がなくなるまで吐く。そして少しずつ酸素を取り込んでいくと、少しだけ滅入った気分が晴れていった。
姫がギリギリまで逃げ出せない状況下にいたら、どうにかして逃がそうと浬は考えていた。だが、当初の浬の読みは間違ってはいなかった。姫が無事に脱出することができたことに心の底から安堵する。そして何より、脱走する前に爆弾のことを知らせることができたのは幸いだった。
(姉さんはきっと……全てを消し去る気だ)
12月25日に開かれるセレモニーのことを知ったのは、姫に手紙を渡す数日前のこと。たまたま鴇のデスクに置かれた計画書を見てしまったのが知るきっかけになった。鴇は姫や弟である浬でさえも欺いて、別計画を目論んでいる。それは当初の計画と大した違いはないのかもしれない。
組織の人間をウイルスに感染させ、世界を終わらせる。そこに爆破を付け加えただけのことだとは思いたかったが、セレモニーの招待客一覧を見て愕然とした。そのリストには今現在を生きている何も知らない子供の自分達の名前が載っていた。組織とは無関係の社員の家族までもがずらりと並んでいるのを見て、さすがに背筋が冷えた。
もしかしたら、ウイルスは二の次で爆破が鴇にとっては本来の目的だったのかもしれない。
ウイルスをばらまいても、生存者が残る可能性もある。であれば、はじめにこの会社に働くすべての人間とその家族を消す方が効率的だと考えたのだろう。全てが消え去れば、自分達が歩んできた苦痛の日々は現実にならずに済むのだ。
確かにその方がいいのかもしれない。けれど、浬の心のどこかで警告音がなる。
正直、踏み止まって姫のように逃げ出したい。それができればどれだけ楽だろうと幾度も思った。
それでも唯一の家族である姉をひとりにはできない。それが浬の選択だった。
「あとは頼んだぞ、姫……狭山」
後戻りはできない覚悟をし、浬は前を向く。どんなことが待っていようとも突き進むしかない。
浬は一度だけ社長室の扉に目を向けた。目に写る扉はまるで、冷たく閉ざされた鴇の心のように思える。
「俺は姉さんを裏切らない。孤独にはしない」
誓うように告げると、浬は背を向けて長い廊下を歩き出した。
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