66話 動き出した時間
「それはどういう意味?」
陽子が拓の言葉を待ちきれず、催促するように質問する。
「母さん、お願いがあるんだ」
「なに?」
「もしかしたら大変な思いもするかもしれないし、今まで以上に迷惑をかけるかもしれない。お金よりもたくさん……けど、それでも俺は未来を見てみたい。もう少しだけ長く母さんの息子として生きていたい……いいかな?」
返事はない。しかし、みるみるうちに陽子の顔はしわくちゃになり、ボロボロと涙を溢し始めた。けど、表情は笑顔だった。
「ああ、拓……どうしましょう……お母さん、嬉しくて……何て言ったらいいか」
「母さん」
「あなたをここに迎えた時から、ずっと我が子として見てきたつもりだった。お父さんも死ぬ間際まであなたのことを思ってた……けど、病気になって、拓が手術を拒んだとき思ってしまったの。本当の家族じゃないから拓は生きることよりも、亡くなってしまった両親に会いに行くことを選んでしまったんじゃないかって……でも違うのね」
陽子はさらに目尻を細め、拓の手を強く握りしめる。今までにないほど力強く。
「ありがとう、拓……もう少しなんて言わないで、ずっとお母さんの息子でいて。親バカと呆れてもいいから、ずっとずっと」
「約束する。俺はずっと母さんの側にいる……どんな姿になったとしても俺は生き続ける」
その言葉を聞いた陽子は感動のあまり俯き、泣き出してしまった。そんな陽子の背中を拓は優しく擦る。
数分経って落ち着いてきた陽子が今度は慌てたような顔で拓の顔を見上げた。
「それなら大変、明日直ぐにでも病院に行って手続きしなくちゃ……ええっと、あとは学校にも連絡して」
「母さん、ちょっと落ち着いて……それについて、話したいことがあるんだ」
「え?」
陽子の表情がわずかに曇る。きっと期待していたのに、拓が濁す言い方をしたからだろう。
「手術はちゃんと受けるよ。だけど、もう少しだけ待っててほしいんだ」
「なんで?」
「手術を受ける前にどうしてもやらなきゃならないことがあるんだ」
「それは今やらなきゃならないの? 手術を受けてからじゃダメなの?」
陽子のすがるような眼差しに胸が痛むも、拓は決意は固いと訴えるように大きく頷いた。
「今やらないといけないんだ。それが解決したら絶対に手術を受ける」
「けど何かあったら大変じゃない。あと一年切ってるのに」
「母さん、もう俺はひとりじゃない。友達にも病気のこと打ち明けたんだ。だから俺が無茶しないように見張ってくれる人が近くにいるから安心して……それと今はまだ事情は言えないけど、今助けたい人が近くにいるんだ。その人を俺や友達と一緒に救ってあげたいんだ……それが終わるまで見守ってほしい」
少し驚いた顔をした様子だったが、陽子は納得したような、府に落ちたような表情を浮かべる。
「拓は本当に頑固ね」
「母さんに似たんだよ。一緒に住むと似てくるって言うし」
「まあ、失礼しちゃうわ。頑固なところはお父さん似よ」
そこで吹き出すように笑い合い、お互いスッキリした表情で庭に目を向けた。
「好きにしなさい。拓の人生だもの、お母さんは応援するだけしかできない」
「ありがとう」
九月の空気はまだ夏を忘れられない熱の籠ったものだった。けれど、時折庭を吹き抜ける冷たい風が秋を誘い込む。
「これから冷えてくるわ。人助けをしたいんだったら身体だけは気遣いなさい……守る立場の人が弱っていたら大変だもの」
「そうだね」
陽子はスッと立ち上がる。
「わたしは寝るわね。明日からまた頑張らなきゃ」
気合いを入れるようにガッツポーズなんかをしだした陽子に拓は目を丸くした。今まで見たことがないほど生き生きした表情をしている。拓が病気と知ってしまったあの日から陽子の時間は止まっていたのかもしれないと拓は感じた。今この瞬間、彼女の時間が再び動き出した。
「お、おやすみ」
背中を向けてリビングを出ていく陽子は今にも踊り出しそうなほどに足取りが軽やかだった。生気を取り戻し、全身で喜びを表そうとしているように写る。あんな姿、見たことがあっただろうか。拓が小さい頃は陽子も若かったし、あんな風に感情を体で表現した頃もあったかもしれない。だが、その記憶は鮮明には思い出せない。けれど、若返ったような、子供に戻ったような陽子の姿を拓は微笑ましく感じた。
「最初から手術を受けてれば母さんもこんな苦しい2年を過ごさずに済んだのに……俺は馬鹿だったな」
それでも、いろんな葛藤をしながら過ごしてきた2年はきっと無駄ではないだろう。死ぬ覚悟をしていたから、アキが現れてもすんなり受け入れて、協力することを決断できたのだ。守りたいもの、失いたくないものが分かったから生きる決断ができた。迷った2年はこの時のためだったんだと思いたい。
拓もようこの真似をして、両手でガッツポーズを作る。
「よし! 俺も頑張るか!!」
そんな時、ズボンのポケットにしまわれたままのスマホがブルブルと震え出す。マナーにしてあるから音はならないものの、バイブの長さからなんかのお知らせや誰からのメッセージではなさそうだ。スマホを取り出し、画面を確認した拓は顔をしかめる。見覚えのない電話番号だ。
(……もしかしたら樋渡さん?)
それでも、こんな夜中の着信は身構えてしまう。そっと通話状態にし、恐る恐る耳を近付ける。
「狭山か?」
急にした声にドキッと心臓が跳ねた。姫と期待した分、知らない男の声で名前を呼ばれたのだから心臓に悪い。声を出さなかった自分を褒め称えてやりたいと拓は思った。
「おい、狭山なのか?」
「え、あ……はい」
だが、冷静になると声に聞き覚えがあることに気がつく。拓はよく耳を澄まし、相手の声に集中した。
「なんだよ、ビビった声だな。俺が誰かわからないのか?」
やっと拓は気が付き、はっきりとその名を口にする。
「浬……なのか?」
予想外だったが、その声はどこかで待ち望んでいた人物だった。
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