65話 噤んできた本音

 あらゆる変化が起きた一日が終わり、静かな夜を迎える。みんなは寝てしまったようで、家の中では電化製品が発する機械音しか響かない。拓はそっとリビングの窓から庭へと出て、長く外で放置された木製の椅子に腰かけた。体重をかけるとギシッと鈍い音を立てた。

 この椅子は、今亡き父が陽子のために手作りしたものだった。昔は庭の手入れが好きで、小さいながらも綺麗な花で埋め尽くされていたのを今も思い出す。咲き乱れた花たちに囲まれながら、陽子はいつも嬉しそうにその椅子に座っていたものだ。だけど、父が亡くなり、拓が病気を患い、そんな母の平穏な生活は一変してしまった。朝から晩まで働き、学費と病院の費用を稼ぐ日々を繰り返す。そんな生活が長く続いたせいで、庭は瞬く間に朽ちてしまった。今では数本の花が咲く程度の寂しい有り様だ。


(……こんな風にさせたかったわけじゃないのに)


 気付いていたのに、目を逸らしてきた自分が不甲斐なく感じ、拓は深いため息をこぼす。


(俺の選択はずっと間違ってたんだ……そんなことに今さら気が付くなんて)


 陽子に苦労を掛けたくない一心で余命を受け入れた。そう思っていた。

 けれど、陽子のためなんてただの言い訳にすぎない。手術を受けてから、なにも残らない孤独な自分を目の当たりにするのが怖かっただけだった。その恐怖に打ち勝てず、ただ綺麗事を並べて生きることを放棄しただけだ。

 拓は項垂れ、背中を丸めた。身体中に沸き上がってくるのは陽子に対しての罪悪感と後悔。だからこそ、今は心の底から生きたいと思っている。拓は気持ちを切り替え、また庭に視線を向けた。


「拓?」


 突如した声に拓は慌てて振り替えると、そこには心配そうにこちらを窺う陽子の姿があった。


「母さん」


「どうしたの、こんな夜更けに……何かあったの?」


「ごめん、眠れなかったんだ」


 そう返したものの、心配の表情は消えず、さらに拓へと顔を寄せる。


「顔色は悪くないわね。具合が悪いんじゃなくてよかった」


 そこでようやく陽子の顔が笑顔になった。数年前まではお洒落で、髪も黒々して、若々しかった陽子。けど今は、髪の毛の半分が白髪で、顔には細かい皺が増えた。老いもあるが、苦労を掛けたせいが正解だろう。


「母さんこそ、こんな時間にどうしたんだよ。今日は遅番だったんだろ? しっかり寝ないと」


「トイレに起きたのよ。やーねー、最近はトイレが近くて」


 そうぼやきながら窓辺で座り込む。


「こうして庭を眺めるなんていつ振りかしら……庭の手入れもサボっちゃってるから、最近じゃ花畑より雑草畑って感じね」


「しょうがないよ……俺の医療費のせいで母さん働きづめなんだから」


「仕事はもしもの時のためにお金を貯めたくて母さんが好きで始めたの。別にお父さんの遺産も手付かずであるんだから、拓の医療費のためなんかじゃないわよ。そんな風に思ってたの?」


「いや、だって……」


「確かに、そのもしもはあなたのためだけどね」


「え?」


 陽子が微笑み、拓を見つめた。


「拓がもしかしたら手術したいって言ったとき、お金が足りませんなんてことになったら母親として申し訳ないじゃない」


 意外な告白に拓は目を見開く。拓が頑なに手術を拒み続けたから、いつしか陽子は手術のことを話さなくなった。きっと諦めたんだとばかり考えていたのだが、それは大きな誤解だった。


「あなたが手術を受けたくないって思ってるのは知ってるわ。そう決めたんなら、お母さんは何も言わないって口出しするのをやめた。けど……けどね、拓」


 陽子が拓の手をそっと握り締める。


「それでもいつか、拓がもしかしたら生きたいって……手術を受けたいって言ってくれるかもしれない。その考えを捨てきれなかったの。だから、お父さんが残してくれた遺産は使いたくなかったのよ」


「母さん……」


「それはあくまでお母さんの我が儘。お母さん、結構我が儘なのよ」


 いつから陽子はこんなに切なそうに笑うようになったのだろう。いつからこんなに、拓を握る手が弱々しくなってしまったのだろうか。拓の目尻が熱くなり、胸が痛いほど締め付けられた。


「母さん、ごめん……俺なんにも分かってなかったんだ」


 苦労を掛けたくないなんて、そんな言葉は死を望んだ人間が使うべき言葉じゃない。ひとり取り残された陽子が苦労しないなんて、どうして思ってしまったのだろうか。自分勝手な考えを正解と信じ込み、自分がいなくなった未来を生きなきゃならない人を全く見ようとしていなかった。拓は改めて後悔を口にする。


「俺がいたら、母さんは絶対に苦労するって……寝たきりになった俺の面倒なんか見るよりも、母さんは自分の人生を生きなきゃダメだって思ってたんだ」


「苦労って、なに言ってるのよ」


「俺は本当の子供じゃないから!」


 陽子が小さく声を漏らす。


「今まで母さんも父さんも俺を本当の子供のように育ててくれたけど……余命宣告を受けて、もしかしたら寝たきりになるかもしれないって聞いて、俺思ったんだ。本当の子供じゃないのに、これまで以上に母さんに迷惑かけていいのかって」


 今まで言えなかった本音。話はじめたら止まらなくなった。

 友達に自分の過去をさらけ出し、ずっと抱えていた秘密を打ち明け、今は生きる選択をしようとしている。だからなのか、今まで陽子に言えなかったことが自然と口から溢れ出してくるのが分かった。


「俺は怖かったんだ。母さんの負担になることが……惨めな姿でただひとり取り残されていく未来が……ただ怖かったんだ」


 高校生になってみっともない泣きっ面を母親に見せる日が来るなんてと、少し恥ずかしく思いながら拓は続けた。


「最後には俺の周りには誰もいないんじゃないかって……どうしようもなく不安で。手術を受けないなんて言ってたけど、本当はそれも正直つらかった。いつも未来を話す友達を羨ましいって感じて、嫉妬して……自分で決めたのにって落ち込んで。誰かの役に立って死にたいなんて考えても、そんな大それたこともできない自分に苛立って……本当はどうしたら正解なのか分からなくなってたんだ」


 思うがままに言った言葉はきっとまとまりのないもので、陽子は理解に苦しんだかもしれない。それでも、何も言わずに手を握ってくれていた。それだけでも嬉しくて、心強くて、息苦しかった胸が軽くなっていく。

 拓は顔を上げ、陽子を見つめた。そして覚悟を決める。


「でも今は違う。全部間違いだった」


 陽子の顔が少しだけ希望の色に染まった。

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