58話 ライバル

 満里奈に連れられ、押しきられるように美術部の入部届けを出すはめになったアキは、部室へやって来て間もないうちに興味のない絵と向き合う。何も描かれていない真っ白な布張りされたキャンバス、独特な油の臭いのする絵の具、道具箱の中にたくさんある筆やパレットナイフ。アキはどうしたものかとそれらを眺める。油絵などやったこともないのに、満里奈に拓が戻るまでの暇潰しだと思ってと一式、目の前に揃えられてしまった。

 始業式後の美術室はほとんど人がいない。アキと満里奈を除くと、部員はふたりぐらいしか見当たらなかった。そのふたりも他愛ない会話を交わしたらどこかへ行ってしまい、部室は貸し切り状態だ。運動部のように毎日の鍛練が必要ではないために、満里奈のように真面目に通う生徒は稀なのだろう。

 窓際で景色を見つつ、筆は持ってみたものの一向に先へ進まない。隣に座る満里奈は、既に下書きを終えようとしていた。


「何を描いてるの?」


「アキさんの似顔絵ですよ」


 声をかけると、満里奈は声を弾ませながら答える。よくよく見ると、下書きは人の横顔のようだ。まさか自分が描かれているとは思わず、少し照れ臭くなる。


「わたしなんて描かなくても……」


「いえ、アキさんを描きたいんです」


 満里奈は手を止め、アキに笑顔を向けた。それはどこか切な気に写る。


「アキさんはわたしとワクチンの件が解決したら、未来に帰ってしまうんですよね?」


「そうなるわ。けど、10年後にまたわたしに会うわよ?」


「だからこそ、この瞬間のアキさんをしっかり残しておきたいんです! だって10年後のアキさんは、わたしとこうして過ごしたことを知らないアキさんってことですよね? そう考えると寂しくて……」


「そうね……わたしも少し寂しい」


「だから、こうしてアキさんと過ごした証を何かに残しておきたかったんです。アキさんはわたしにとって大切な恩人で、大事な友達です!」


 アキは小さく微笑み返す。


「完成したら一番にアキさんに見せますね!」


 そう言い終えると、アキが満里奈に手を伸ばす。膝に置かれた満里奈の手の上に重ねるように置く。


「満里奈さん、約束する。必ず、あなたを守り抜いて……今度こそ後悔させない」


「アキさんが居れば心強いです」


 満里奈は置かれたアキの手を握り返し、満面の笑顔を浮かべる。


「それと……満里奈さん、わたしが話した未来は気にしなくていいからね」


「え?」


「文也さんと結婚するって前に話したじゃない? わたし、いきおいで未来の話をしちゃったけど……から」


「それはどういう意味ですか?」


 満里奈は不安そうにアキを見つめた。その問いかけに対し、アキは言葉に迷う。


「えっと……わたしが来たことで大きく未来が変わったとしたら……満里奈さんの未来も変わったりするかもしれない。もしかしたら、文也さんとは結婚しないで、他の誰かとって事もあるかもしれないから」


「それはどうでしょうか?」


 満里奈の声がいつもよりも落ち着いたトーンに変わる。


「わたし思うんですよ。どんなに出来事が変えられたとしても、気持ちは簡単には変えられないんじゃないかって……わたしが今は違う人を想っていたとしても、10年後のわたしはきっと文也さんを選んでいるかもしれません」


「それはっ……そうかもしれないけど、けど満里奈さんは拓が好きでしょ?」


 口に出してから、はっとした。満里奈の目が大きく見開かれていく。


「もしかして、拓さんから聞いたんですか?」


「違う、わたしは知ってるの。満里奈さんが拓を好きだったって……拓だってきっと満里奈さんが好きよ。見てれば分かる。だから、何かがきっかけで未来も気持ちも変化するかもしれないでしょ?」


「それでもです」


 静かな声がアキに届いた。満里奈は笑顔だったが、先程よりももっと切なさを纏わせている。


「それでもきっと、未来は変わらないんです」


 やっとアキは何かに気付く。満里奈がどうしてここまで断言するのか、考えるまでもなかった。


「拓と何かあったの?」


「好きだと拓さんに伝えました。返事は保留にしましたが……きっと振られちゃいますね」


 それは違うとアキの頭に否定の言葉が飛び交う。拓は自分の病気のことで精一杯だから、満里奈への気持ちが分からなくなっているだけなのだ。もし、未来を生きる決断を拓がすれば未来は大きく変わっていく。しかし、それはまだ満里奈には伝えられなかった。


「そんなことにならないように、わたしが頑張って未来を変える。だから諦めたりしないで」


 そう伝えるのが精一杯。そんなアキを満里奈は心配そうに見つめる。


「拓には満里奈さんしかいないの」


 グッと握った手に力が籠った。


「それほど拓さんが好きなのに……どうして、わたしに託そうとするんですか?」


 はっと顔を上げると、満里奈の瞳が間近に写る。アキは驚きから声をなくす。


「わたしも女子です……こう見えて勘は働く方ですよ? 初めに拓さんに会いに来たのはアキさんにそういう気持ちがあったからなんですよね? それなのにわたしと拓さんの仲を取り持とうとするのは……もしかして未来のわたしに何か吹き込まれたりしたんですか?」


 未来のわたしは悪女なんでしょうか?と、満里奈は笑い出した。


「違う!! 満里奈さんはとてもいい人!!」


 急な大声に満里奈が次に驚いた目をアキに向ける。


「優しくて、強くて……自分を犠牲にしてでも、他人を思いやる人よ。未来の満里奈さんは文也さんと結婚してたけど、心はずっと拓を想ってた! だから、わたし……好きな人には本当に幸せになってほしいの!」


「ありがとうございます」


 満里奈は優しくアキを抱き締めた。


「アキさんも優しいですね。ライバルに譲るなんて……でも誰を選ぶかは拓さんです。だからしっかり振られるまではわたしも悪足掻きするつもりです」


 アキはなにも答えず、満里奈の背中に手を伸ばす。


「それを聞いて安心した。未来へ帰るときの心残りがやっと一個減ったわ」


「心残り、たくさんあるんですか?」


「数え切れないほどあるから大変」


 冗談っぽく返して、ようやくお互いの雰囲気が和む。


「そういえば、拓さん戻ってきませんね。迎えにいきましょうか」


「そうね」


 途中の絵をそのまま、ふたりは部室を後にした。

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