56話 ひとりじゃない
平静を装って姫は普段通りに社内を歩く。拓と別れて直ぐ様戻ってきた。予定よりも長居してしまったから内心ヒヤヒヤしていたのだが、その不安はどうやら取り越し苦労に終わった。ガラス越しに研究員と一緒に話をする鴇の姿を黙視する。一日中研究室にいる鴇は、姫の外出に気付くことはない。それを見越した行動だったが、やはり変化がないのを確認した瞬間は安堵を覚えた。
(……良かった)
「勝手に行動してると怪しまれるぞ」
いきなり声をかけられ、思わず声が出そうになる。
「浬さん、驚かせないでください!!」
少し怒り口調で後ろに立っていた浬に言ったのだが、本人はまるで気にもとめていない様子だった。それを確信付けるように、浬は全く別の会話を切り出す。
「ちょうどいい。お前に任務があるんだ」
「任務ですか?」
「監禁する奴が増えたんだ。俺はあっちの監禁者を見てなきゃならないから……お前に頼むって鴇からの命令」
「分かりました。それにしても、今になって誰を監禁するんですか? あの4人以外に要注意人物なんていましたっけ?」
「別に要注意人物って訳じゃない。どっちかっていうと世話役? 今そいつのいる場所に案内する」
「世話役?」
「今のお前にできることはそれぐらいだろ」
ウイルスが完成するまでは確かにやることは限られている。鴇のようにウイルスに対しての知識が豊富であれば一緒に研究者として開発を手伝えるだろうが、年齢的に姫は勉強不足だ。浬はあまりウイルス研究に興味がないようで、もっぱら機械いじりをやっていた。そんな浬を未来では大人たちを苛立たせていたが、過去に来てから機械に対しての知識は大いに役立っている。この会社に忍び込んだ時のセキュリティー解除や、社長室へ行くためにエレベーターの暗証番号を解析したりと、機械の知識がなければスムーズに事は進まなかった。所詮、ウイルスのことしか考えてこなかった大人たちは想像力に欠けた無能な人間だったということ。
姫の脳裏に呆気なく死んでいった大人たちの顔が浮かぶ。
「そうですね……今はわたしの出番はないですから」
不意に手を広げる。まだ十代、シワも手荒れもない綺麗な手のひら。だけど、姫には違うものが写る。血に汚れた、おぞましい手。鴇や浬よりも身体が身軽だったせいか、暗殺者としての能力は姫の方が高かった。だから、ここへ来る前に組織の人間を全員始末したのも姫だ。
「いざって時はお前が即戦力になるから、出番が来るまで世話役で我慢しててくれ」
出番なんて来ないでほしいと、浬に弱音を言いたい。けれど、仲間であって仲間ではない相手にそれはどうしても言えなかった。
(浬さんは鴇さんを裏切れない……)
姉弟であるがゆえに、浬はこの復讐劇に縛られている。無断で救世主に会いに行って騒ぎを起こしたり、拓に自分の姿を明かしたり、鴇を逆撫でするような行動をとっていた。それは逆に、今の自分に抗いたいという現れだったのかもしれない。それでも、鴇はたったひとりの家族。この計画にどれだけ反論を持っていたとしても、姉を裏切ることはしないだろう。たとえ目の前にかつて愛していた親が居たとしても、それは決して揺るがない。過酷な日々を寄り添い乗り越えた姉弟の姿を知らない両親の言葉など、ふたりの心に響くことはないのだ。
そもそも、姫も父親をよくは思ってはいない。爆破テロに関与した父親のせいで、母親はひとり孤独に命を絶ったのだ。それでも鴇のように、復讐心に支配されずに踏み止まることができたのは、自分の幼さゆえの心の弱さなのだろう。どんなに憎かろうが、自分の親が苦しむ姿や悲しむ姿をこの目で見るのは嫌だと思ってしまった。
(でも今はそれでいいって思える。わたしはひとりじゃない……一緒に戦ってくれる仲間ができた)
拓の顔が浮かぶ。少しだけ心が軽くなった。そして、暖かく感じた。
「ここだ」
浬が立ち止まり、姫は案内されてきた部屋の表札を見上げる。地下一階、警備員休憩室。夜勤の警備員の仮眠室だった。
「ここにもう居るんですか?」
「ああ……紹介してやるからは入れよ」
鍵を解除し、姫を誘うようにドアを開ける。地下なのだから窓はない。電気を付けていないせいで暗く、独特の臭いが漂っていた。警備員はいい年のおじさんが多いためか、掃除は行き届いていない。入って直ぐに設置された小さなキッチンには洗われずに放置されたコップや箸が散乱し、ゴミ箱には食べ残しをそのままにしたお弁当がいくつも捨ててあった。奥には仮眠するための3畳ほどの和室が見える。
(倉庫に監禁されてるお父さんよりはマシな環境なのかな……けど、ちょっとキツい)
キッチンの隣にドアがもうひとつある。すりガラスのスライドドアだから、きっとユニットバスなのだろう。けれど、キッチンの状態を見た後だから、中を見るのは遠慮したいと姫は思った。目線を和室に戻しながら一歩部屋へと踏み入るが、肝心の人が見当たらない。
「どこにいるんですか?」
そう訪ねた瞬間、勢いよくドアが閉められた。辺りが更に暗くなる。
「浬さん!! どういうことですか!?」
懸命に声を荒らげ、閉ざされてしまったドアを開けようとドアノブを捻った。しかし、カチャンと鍵が閉まる音が耳に届く。
「待ってください! わたしを監禁するつもりで連れてきたってことですか!?」
「悪く思うな」
ドア越しに浬の声がした。姫はドアに耳を当て、浬の言葉を聞く。
「姫が両親に会いに行ってたの鴇にバレたんだ。監視カメラをいじったら、鴇のスマホに通知がいくように設定されてたらしくて……そんで今日、お前があいつに会いに行ったことも知ってる。ずっと俺が尾行してたんだ」
(気付かなかった)
姫が悔しさに顔を歪ませる。
「姉さんの命令だし、またお前を庇ったらぶたれるじゃ済まない……だから、報告させてもらった」
「会話も聞いてたんですか?」
「爆破に協力するだっけ? いや、やっぱあいつ面白い奴だよな」
ドア越しに浬の笑い声が微かに聞こえた。
「でも、お前は所詮ひとり。ここで大人しくしてろ」
絶望に視界が揺れる。また頭に拓の顔が浮かぶ。けど、今度はひどく心が痛くなった。
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