52話 姫の頼み
はじめに痛みが襲ったのは背中だった。
どうやら少女に押し倒されたようだ。次に後頭部に痛みが走る。頭を地面に打ち付けたようだった。目を瞑ったせいで受け身なんてとれない。だからか、体のあちこちに痛みが発生し、さっき見えたナイフはどこに刺さっているのだろうと、まるで他人事のように拓は考えていた。
「答えてください」
少女が答えを求めている。
(いや、刺されたんだから答える余裕なんてないって)
やっと目を開けることのできた拓の視界に少女の顔が写る。最初はぼやけてはっきりしなかった少女の表情が徐々に鮮明さを増す。
「あなたは浬さんと会った人で間違いないですか?」
間近に迫る少女の顔はなぜか自分よりも切羽詰まっていた。ナイフはどうやら刺さっていなかったようで、綺麗な光を放ったまま拓の上に掲げられている。それはそれで危機感を覚えるところなのだが、まず刺されていなかったことにほっと胸を撫で下ろした。
拓は次は冷静な目で少女を見上げる。
「ああ、会ったことがあるよ。君は浬と同じ組織の仲間なのかな?」
そう返すと、少女は安堵したような顔をした。拓に向けられていたナイフも必要ないというように下へと下げる。
「……間違ってませんでしたか。どっちか分からず迷っていたので」
その発言で、あの日に見た人影はこの少女なのだろうと察した。それと同時に、最初に博と接触しなくてよかったと心底思った。こんな風に襲ってきて人違いだったと気付いたら、このナイフで口を封じられていたかもしれないと最悪な想像が頭を過る。見た目は可愛らしい少女のようだが、組織の人間なのだから油断大敵だ。
「あなたの名前を教えていただけますか?」
「答えるのは構わないんだけど、そろそろ離れてくれると助かるんだけど」
先程押し倒され、そのまま少女は拓のお腹に馬乗りしている状態。こんなシチュエーション、きっと男側からすれば美味しい展開なのだろうが、拓にとっては気まずさしかない。指摘を受けた少女はみるみる内に顔を赤くさせ、素早く拓の上から飛び退いた。だが、信用はされていないようで、下げられたナイフが再び拓へと向けられる。
「いいですか! 人を呼んだり、逃げるような仕草をしたら殺されると思ってください! わたしは本気です、約束できますか!?」
そう言いながら、微かに指先が震えている。この少女も何かしらの事情があるのだろうと拓は考え、優しい口調で返す。
「約束するよ。君は俺と話がしたいんだろう? 俺は狭山 拓だ……君の名前を聞いてもいい?」
笑顔で言うと、彼女の表情から警戒心が薄らぐ。
「わたしは……樋渡 姫です」
ナイフはゆっくり地面に置かれた。それを確認すると、拓はゆっくり身体を起こす。僅かに頭に鈍い痛みが走り、顔をしかめた。その様子に姫が眉を下げる。
「あの、すみませんでした……痛いですか?」
「少し痛いけどなんともないよ」
「危害を加えるつもりはなかったんですが……そちらも警戒していると思って、騒がれないようにしたかったんです。手荒なことをしてしまってごめんなさい」
小さく頭を下げる少女に拓は慌てて手を伸ばす。恐縮してしまう相手を慰めるつもりで、拓は姫の肩を数回優しく叩く。
「気にしなくていいから……樋渡さんだっけ? 君にも事情があるんだろうし、そんなに気に病まなくていいよ」
「ありがとうございます」
姫は幼さ特有の柔らかな笑顔を浮かべる。本当にこんな子が組織の人間なのか疑ってしまうほど、外見はごく普通の可愛らしい少女だった。
「それで、俺に何か用だったんだろ? 言ってみて」
「はい……浬さんからどこまで聞いているのかは分かりませんが、わたし達は10年後の未来から来ました。救世主である片倉 満里奈さんとワクチンを狙っています」
「ああ、それは聞いたよ」
浬と会った時、それは聞かされていたから拓は普通に相槌を打った。しかし、その拓の反応に姫は不思議そうに目を瞬かせる。
「あの……信じるんですか?」
その問い掛けに拓は首を傾げた。
「普通なら未来から来たなんて言ったら、頭がおかしいとか、冗談だとか言いそうなものですが……あなたは信じるんですか?」
やってしまったと、拓は姫から目を逸らす。アキと初めに会っていたから、未来というワードに免疫ができていて、なんの反応もなく聞き流してしまっていた。まさか、こちら側にも未来から来た仲間が居ますなんて言える筈がない。どう見ても、彼女に敵意がないことは明確だ。あの日会った浬にも同じことを感じた。それでも相手は組織側の人間なのだから、アキの情報を漏らすわけにはいかない。
「変わった人ですね」
どう言い訳しようかと悩んでいる最中、姫はおかしそうに笑い出した。
「浬さんの言った通りの人です」
「え? 浬が俺のこと言ってたの?」
「はい。面白いヤツに会ったって言ってました」
浬のことを思い出しているのか姫はまたひとりクスクスと笑う。敵に噂をされている拓にしてみればとても複雑な状況なのだが、姫の反応を見る限り自分の直感は正しかったのだと再認識された。
「今日来たのは浬に頼まれたとか? それとも浬に何かあったのかな?」
「いえ、ここへ来たのはわたしの独断です。浬さんにも話していません……なので、あなたの顔も名前も知らなかったので接触に苦労しました」
「浬に名前は名乗ったんだけど、聞いてなかったんだ」
「浬さんは自分のことも全く話さない人なので……それでも珍しく面白いヤツに会ったって嬉しそうにしてたので、とても気になっていたんです。浬さんが接触するとすれば救世主だけ、だとすれば彼女の周りにいる誰かが浬さんの言った人なんだと思ったんで探っていました」
「えっと……もしかして、浬が話していた俺に興味があったからわざわざ会いに来たってこと?」
そう返すと、姫は慌てて首を振る。
「わたしはあなたに……狭山さんにお願いがあってきました!」
畏まったように姫は地べたに正座する。綺麗なワンピースが土と雑草の色で汚れていくのを気にしながら、拓は姫の目をまっすぐ見つめた。相手がそれだけ真剣な顔をしていたから、余計な会話はしてはいけない気がして躊躇われた。
姫が決意したように口を開く。
「どうか、片倉 満里奈さんとワクチンを必ず守り抜いていただきたいんです!!」
敵側のお願いは拓にとってあまりにも意外すぎて、何も答えられなかった。
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